1994年1月のある夜、突然スザンヌの頭に息子のマシューの声が聞こえてきました。
「お母さん、マシューだよ、本当に僕だよ」
マシュー・ワード君は1980年4月17日、パナマにいる父親の農場で1日働いたあと、ジープで帰路につく途中道路から外れ、彼の身体は投げ出されて、まもなく駆けつけた救急隊員の腕の中で息を引き取りました。17歳の若さでした。
悲しみに暮れる母スザンヌがふたたび息子マシューの声をテレパシー交信で聞いたのは、それから14年後のことでした。以来、母と息子との会話が今日まで続いています。
ジャーナリストでもあるスザンヌはその内容が尋常でないこと、さらには、マシューやそのほかの高次の存在たちとの交信メッセージを地球にもたらすことが、今生での自分の使命であることに早くから気づき、それをマシューブック(1〜4巻)として出版しました。
若くして死んだ息子の声をできるならもう一度聞きたいと願わない母親はいない。「お母さん、マシューだよ、本当に僕だよ」
マシュー・ワード君は1980年4月17日、パナマにいる父親の農場で1日働いたあと、ジープで帰路につく途中道路から外れ、彼の身体は投げ出されて、まもなく駆けつけた救急隊員の腕の中で息を引き取りました。17歳の若さでした。
悲しみに暮れる母スザンヌがふたたび息子マシューの声をテレパシー交信で聞いたのは、それから14年後のことでした。以来、母と息子との会話が今日まで続いています。
ジャーナリストでもあるスザンヌはその内容が尋常でないこと、さらには、マシューやそのほかの高次の存在たちとの交信メッセージを地球にもたらすことが、今生での自分の使命であることに早くから気づき、それをマシューブック(1〜4巻)として出版しました。
また、霊的存在から「尋常でないこと」を聞かされ、聞けば聞くほどそれが「知恵に富んだもの」に思われた場合、初めは惑っても、やがて感激し、すっかり心を奪われるようになることの方がむしろ自然かも知れない。
が、カトリック教会なら、そんな時、まず徹底的に「疑う」ことを教える。そしてそれは「霊を試す方法」を持っている。滑稽に聞こえるかも知れないが、その霊に「聖水」をかけたり「信仰告白」を強要してみたりすることである。エクソシズムの儀式のことを言っているのではない。エクソシズムでも当然そのようなことをするけれど、というか、それはその種の行為の塊だけれど、それ以前に、霊の出現を受けたと報告する信者に、司祭が「今度その霊が現われたら聖水をかけてみなさい。信仰告白させてみなさい」というようなことを指示したりするということである。つまり、そこには「疑い」の精神がある。霊に関してはまずもって「疑い」なのである。そしてそれ全てが教会の指導のもとに進められる。(基本的、本来的、理想的には。つまり、他の社会と同じく、カトリック教会もなかなか理想通りには行かないことを認めないわけにはいかないが。)
何を読むのも結構だ。というか、仕方がない。人間には我があるから、止めてもその時はどうにもならないことの方が圧倒的に多い。(実例 - この中に「サンジェルマン伯爵は悪霊です」との指摘がある。正しい。しかし、抗議者のものの言い方にも難がある。若い子だろう。)
けれど、私達は、少なくとも以下に見るような「悪霊の能力」を -------「能力」という言葉には肯定的な響きがあるから、本当はあまり使いたくないが ------ 少なくとも「可能性」として、「あり得ること」として、「念頭に置いておく」ぐらいのことはすべきである。
前回、「霊界の生物である悪霊たちは、地上の人間たちのことを、具体的に、細かく、よく知っています」と書いたけれど、それは、悪霊とは以下のようなものだろうからである。「マシュー君」が実のところ何であるかを、このエクソシズムの中の悪霊がよく自白していると思うのである。Robert W. Pelton という人が書いた有名なエクソシズムの記録 The Devil and Karen Kingston を、日本の或る人が紹介したものである。
以前、「マシュー君」を愛好している人のブログに、この記事を紹介させてもらったことがある(上のブログの人ではない)。その人は読んだ。そして、言った。「なるほど、参考になりました。けれど、あなたが私にこれを紹介した意図が分かりません。」
信じられない反応だったが、そのような人のために、文中で下線強調することにする。
ロジャース牧師と悪霊の長い戦いが続いた。しかし、そのかいはなかった。悪魔はロジャース牧師の命令のことごとくにべちゃべちゃとしゃべって答え、大きな声で笑い飛ばすだけだった。
ロジャース牧師は戦術を変えてみることにした。この悪魔に何か書くように命令してみた。すると、意外なことにカレンはスラスラと何かを書きはじめたのである。決してうまくはなかったが、筆跡は、あえていえば、未来の人間が書いたような奇妙な文字だった。
"私は心霊のカウンセラーにして、つたなき綴り人だ。"
ロジャース牧師はその内容を見て、すぐに旧約聖書の「申命記」の第18章第10節〜12節を思いだした。
「それではおまえは、自分が心霊の相談相手だというのだな。奇跡の治療を施すことができるというのだな。また、死者と話すことができるというのだな」
「そうよ、もちろんそうよ。それに、ほかにもいろいろなことをしているわ。おまえも知っているように、こんなことは、実際、珍しいことではないわ。何万人もの人間が、おまえたちがいうところの降神術の会や交霊会に参加して、その後、この現象の立会人になってきているわ。
ええと、確か、おまえが親しくしていたはずのキリスト教司教のパイク(プロテスタントの有名な牧師。死ぬ前に降神術や霊媒に没頭する)でさえ、彼の死んだ息子と連絡をとりあっていたわ」
ロジャース牧師は驚いた。これまで幾度となく悪魔ばらいを行ってきたが、これほど霊界の一面を語ってくれた悪魔はいなかったからだ。
「人間というものは、生来、とてもだまされやすい。当然、人間が、死んでしまった愛する者や友だちと連絡をとりあえるはずはないわ。でも、この人間のだまされやすさが、私たちに好都合なの。全部をおまえに話してやろうか。
心霊主義というドアは、今や私たちの世界に大きく開かれたままなのだよ。おまえも知っているように、そのことを理解していない人間がいっぱいいる。たとえば、おまえたちのいうところの "幽体離脱" は、私たちのカによって、魂が肉体から分離された状態で歩きまわされているのだよ。
で、いずれ彼らは死に、私たちの仲間になるというわけさ」
ロジャース牧師は大きな風船玉のようになったカレンのほうを黙って見つめながら考えこんでいた。聖書に書かれていることはまぎれもない事実だったのだ。今、世界中で流行している心霊現象は、悪霊のなせる業なのだろうか。
「バカな人間たちは、本当に死者と直接話していると信じているのよ。そう、私はおまえにこのことをいってしまおう ------- 彼らは死者と直接に話しているのではないの」
「では本当は、だれが、または何が、これらの人々と話しているのだ?」ロジャース牧師はたずねた。
「おまえはその質問に対する答えを知っていると思うが……。お互いにだますのはやめよう。それをやっているのは、私たちの仲間だし、彼らは、死んだ男や女の真似をしているだけなのだから。死んだ人間を真似るというのは、私たちにとってこの世でいちばん簡単なことなんだから。その死が最近のことでも、何世紀も前のことでも、いっこうにかまわない。
おまえも知っているように、私たちの世界では時間など無関係だからね。それに私たちには、死者とごく親しかった人しか知らない多くの事実を暴くことができる。暴くことによって、私たちは生きている人々を信用させ、スムーズに私たちの(心霊の)集会に引きこんでしまうことができるのさ」
この悪魔の話を聞きながら、サター牧師はひとつだけ聞いてみたいことがあった。それは彼の教区のなかで流行しているウィジャー盤(映画「エクソシスト」の主人公がこの霊界ゲームによって悪魔にとりつかれる。日本では「コックリさん」がこれにあたる)についてである。
多くの人々が、この霊界との通信ゲームに熱中していたからだ。
サター牧師は、注意深くそのことを質問してみた。
「ウィジャー盤も同じさ。福音書著者の友だちさんよ」
すぐに返事が返ってきた。この悪魔は、サター牧師の抱いている疑問を少しもいやがっている様子はなかった。むしろ自慢しているようだった。
「おまえもよく知っているように、これをおもしろ半分に使っている者もいる。もっとも、真剣に使っている者もごく少数だがいる。だが、どちらもこのウィジャー盤からメッセージを受けようとしているのさ。
多くの人々は、これで霊の世界と直接に連絡をとりあったと思いこんでいる。私たちの世界に引きずりこまれていることも知らずにね。そして、私たちが彼らのなかに入りこむのに、少しも恐れを抱いていないのだよ。むしろ、私たちからカをもらうことを歓迎している。私たちのためにドアを開けて待っているというわけさ」
そこまで語ると、この年老いた悪霊は、突然、話すのをやめた。
「マシュー君」を信じている人達、あるいは現在書店の「精神世界」のコーナーを賑わしているチャネリング関係の本を信じている(あるいは心惹かれている)人達は、くどいようだが、少なくとも上の内容が真実である「可能性」ぐらいは、常に念頭に置いておかなければならない。(押し付けではなく勧めである。)ロジャース牧師は戦術を変えてみることにした。この悪魔に何か書くように命令してみた。すると、意外なことにカレンはスラスラと何かを書きはじめたのである。決してうまくはなかったが、筆跡は、あえていえば、未来の人間が書いたような奇妙な文字だった。
"私は心霊のカウンセラーにして、つたなき綴り人だ。"
ロジャース牧師はその内容を見て、すぐに旧約聖書の「申命記」の第18章第10節〜12節を思いだした。
「占いをする者、卜者、易者、魔法使い、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。主はすべてこれらのことをする者を憎まれるからである」聖書は、心霊現象、占星術などの占い、黒魔術、白魔術などの魔法を、数千年も前から危険なものとして厳しく禁止していた。そこでロジャース牧師は、慎重にこの悪魔に問いかけてみた。
「それではおまえは、自分が心霊の相談相手だというのだな。奇跡の治療を施すことができるというのだな。また、死者と話すことができるというのだな」
「そうよ、もちろんそうよ。それに、ほかにもいろいろなことをしているわ。おまえも知っているように、こんなことは、実際、珍しいことではないわ。何万人もの人間が、おまえたちがいうところの降神術の会や交霊会に参加して、その後、この現象の立会人になってきているわ。
ええと、確か、おまえが親しくしていたはずのキリスト教司教のパイク(プロテスタントの有名な牧師。死ぬ前に降神術や霊媒に没頭する)でさえ、彼の死んだ息子と連絡をとりあっていたわ」
ロジャース牧師は驚いた。これまで幾度となく悪魔ばらいを行ってきたが、これほど霊界の一面を語ってくれた悪魔はいなかったからだ。
「人間というものは、生来、とてもだまされやすい。当然、人間が、死んでしまった愛する者や友だちと連絡をとりあえるはずはないわ。でも、この人間のだまされやすさが、私たちに好都合なの。全部をおまえに話してやろうか。
心霊主義というドアは、今や私たちの世界に大きく開かれたままなのだよ。おまえも知っているように、そのことを理解していない人間がいっぱいいる。たとえば、おまえたちのいうところの "幽体離脱" は、私たちのカによって、魂が肉体から分離された状態で歩きまわされているのだよ。
で、いずれ彼らは死に、私たちの仲間になるというわけさ」
ロジャース牧師は大きな風船玉のようになったカレンのほうを黙って見つめながら考えこんでいた。聖書に書かれていることはまぎれもない事実だったのだ。今、世界中で流行している心霊現象は、悪霊のなせる業なのだろうか。
「バカな人間たちは、本当に死者と直接話していると信じているのよ。そう、私はおまえにこのことをいってしまおう ------- 彼らは死者と直接に話しているのではないの」
「では本当は、だれが、または何が、これらの人々と話しているのだ?」ロジャース牧師はたずねた。
「おまえはその質問に対する答えを知っていると思うが……。お互いにだますのはやめよう。それをやっているのは、私たちの仲間だし、彼らは、死んだ男や女の真似をしているだけなのだから。死んだ人間を真似るというのは、私たちにとってこの世でいちばん簡単なことなんだから。その死が最近のことでも、何世紀も前のことでも、いっこうにかまわない。
おまえも知っているように、私たちの世界では時間など無関係だからね。それに私たちには、死者とごく親しかった人しか知らない多くの事実を暴くことができる。暴くことによって、私たちは生きている人々を信用させ、スムーズに私たちの(心霊の)集会に引きこんでしまうことができるのさ」
この悪魔の話を聞きながら、サター牧師はひとつだけ聞いてみたいことがあった。それは彼の教区のなかで流行しているウィジャー盤(映画「エクソシスト」の主人公がこの霊界ゲームによって悪魔にとりつかれる。日本では「コックリさん」がこれにあたる)についてである。
多くの人々が、この霊界との通信ゲームに熱中していたからだ。
サター牧師は、注意深くそのことを質問してみた。
「ウィジャー盤も同じさ。福音書著者の友だちさんよ」
すぐに返事が返ってきた。この悪魔は、サター牧師の抱いている疑問を少しもいやがっている様子はなかった。むしろ自慢しているようだった。
「おまえもよく知っているように、これをおもしろ半分に使っている者もいる。もっとも、真剣に使っている者もごく少数だがいる。だが、どちらもこのウィジャー盤からメッセージを受けようとしているのさ。
多くの人々は、これで霊の世界と直接に連絡をとりあったと思いこんでいる。私たちの世界に引きずりこまれていることも知らずにね。そして、私たちが彼らのなかに入りこむのに、少しも恐れを抱いていないのだよ。むしろ、私たちからカをもらうことを歓迎している。私たちのためにドアを開けて待っているというわけさ」
そこまで語ると、この年老いた悪霊は、突然、話すのをやめた。
また、その上で、前回私が簡単に列挙してみたような諸「事実」を、もう一度よく見、考えてみなければならない。(同上。)
*
冒頭で「ある人が紹介したものである」と書いたが、その「ある人」とは鬼塚五十一氏である。最初にそれを言わなかったのは、鬼塚五十一と聞いて「咄嗟に反応」する人が多いだろうからである。人間においては、この「咄嗟に反応」というのが常にイケナイ。それはその人の中に一定の(固定的な)反応パターンが出来上がってしまっていることを意味する。感情的好悪の反応が回路のように出来上がってしまっていることを意味する。その時、人は半ば自動人形である。
とにかく、このエクソシズム記録の「紹介」に関しては、紹介する人が鬼塚氏であろうと他の人であろうと、大差はなかったであろう。
その鬼塚氏の著作とは、『サタンよ去れ! 戦慄の悪魔ばらい』(学研)というものである。雑誌『ムー』との関連で出されたものらしく、その装丁は島村菜津さんの『エクソシスト急募』(参照)など比較にならないほどにヒドイ。
原書と同じく、現在絶版である。が、amazon で中古品が安く手に入る。
原書は、全文かどうかは分からないが、ネット上に PDF がアップされている。
http://joestallard.com/download/The_Devil.pdf
最初に言うべきだったかも知れないが、この Karen Kingston のエクソシズムの文献的信頼性については、それ自身が「これは本物のエクソシズムの記録である」と謳っているだけであるようである。アンネリーゼ・ミシェルのエクソシズムのように、あらゆるエクソシズム記録が匿名性を排してくれれば助かるのだが、そうも行かないようである。(つまり、私はこれを「記録」と信じているわけだが。)