これを読む前に前回の「前置き」を読んでもらいたいです。
いや、大したもんじゃないです。役に立たないかもです。でも、一応。恐縮です。
何故なら、人間ほど、「先入観」「固定観念」「偏見」、これらを持ちやすいものはないからです。ほとんど「歩く固定観念」とでも呼びたくなるくらいに。いや、大したもんじゃないです。役に立たないかもです。でも、一応。恐縮です。
ほんとっすよ? 今「大袈裟だなぁ」と思った人は、ちょっと読んでもらった方がいいかもです。「前書き」を。いや、天地神明に誓って大したものじゃないけど。
でも、「先入観」「固定観念」「偏見」、これらに関しては馬鹿みたいにうるさくなけりゃ、クソうるさくなけりゃ、きっと真理なんて手にできないっす。今「うるさいなぁ、もっと気楽にやりたいんだよぉ」と思った人は、きっと真理向きじゃありませんです。恐縮です。
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引用文中の下線は管理人。
読点を数カ所、付加させてもらいました。
資料の入手に関しては最下段に付記しました。
読点を数カ所、付加させてもらいました。
資料の入手に関しては最下段に付記しました。
神の神秘的な都市
The Mystical City of God
The Mystical City of God
最後の晩餐
私たちが現在自宅で使用するコーヒーテーブルよりももっと低いテーブルの周りに座り、体を後ろにもたれて食事をするのが、ユダヤ人の習慣でした。主は、使徒たちの足を洗った後、現在の食卓のような高いテーブルを持ってくるように言いつけました。このことで、主は、下級の形式的律法に終止符を打ち、恩寵の律法である新しい晩餐を設立することになりました。このテーブル、つまりカトリック教会の祭壇で聖なる秘蹟が行われることを、主は希望されたのです。このテーブルは大変高価な布で覆われ、その上には皿と大きな盃ふうのコップが置かれました。その家の主人は、エメラルドのような宝石でできた皿と盃を提供したのです。全員が着席してから、主は種なしパンと葡萄酒を持って来させました。
主は心からの愛の言葉を使徒たちに話しました。御言葉は彼らの心の奥深くに達し、心を燃え上がらせました。御自身の神性と人性、救い、今祝おうとしている神秘の誓いについて申し渡しました。人々が相互に愛すれば、御子を愛する御父により愛されること、新しい律法と新しい教会の建設のため使徒たちを選んだこと、御母の崇高さと特権について、使徒たちの理解を更新させたのです。
我らの主キリストは、皿の上のパンを両手で取り上げ、永遠なる御父に心の中でお願いしました、「今、私が述べ、今後、教会で繰り返される言葉により、私が実際に真にこのパンの中に存在すること、私がこの約束を守ることを助け、許して下さい。」 この願いをしながら御目を天に上げている荘厳な様子は、使徒たち、天使たちと御母に、新しい深い畏敬の念を起こさせました。主は聖変化の御言葉を宣言し、パンの実質を御自身の真の体に変えられました。直ちに葡萄酒に対する聖変化の言葉を宣言し、御自身の真の血に変えられました。そして、永遠の御父の御声が聞こえました、「これぞわが愛子なり。我が喜び、世の終わりに至るまで我が喜びなり。我が子は人類の追放の間中、絶えず共にいるなり。」 同様の御言葉が聖霊により宣言されました。御言葉のペルソナの中のキリストの至聖なる人性は、御自身の体と血の秘蹟にこもる神性を恭しく拝みました。御母は一歩退き、聖なる秘蹟の中の御子を崇めました。御母の守護の天使たちや天の全天使たちと一緒に、エノクとエリアの霊魂も旧約の王たちや預言者たちを代表し、秘蹟の中の主の前に平伏しました。裏切り者を除く使徒たちと弟子たち全員はこの秘蹟を信じ、各人各様に謙遜と威厳を込めて崇めました。最高の司祭である主は、聖変化された御体と御血を両手で高く挙げました。この時、御母、聖ヨハネ、エノクとエリアは特別な理解を神から頂きました。どのように御体がパンの中に、御血が葡萄酒の中に存在するか、御体と御血が御霊魂と結ばれている故に生きている真の御子が現存すること、御子のペルソナが御父と聖霊のペルソナとどのように結合しているか、聖三位一体の一致の故に、御聖体は主の人性と共に聖三位一体であることを理解したのです。主のなさったことを司祭一人一人が再現すること、天地が崩れてもこの秘蹟は決して崩れないことも、御母を初めとする四人の深く理解するところとなりました。御母の理解は更に深遠でした。この秘蹟により、パンや葡萄酒の形色は変わらず、御体と御血も元のままであることがよく判りました。
御子の聖祭は続きます。御子は御聖体を割り、一つを頂きます。御自身を人間として認め、御聖体と聖血を敬虔に頂く様子は、我々に聖体拝領の仕方を教えただけではなく、人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれることを知らせています。主の聖体拝領により、タボル山での御変容の時のように、主の御体は短時間、輝きました。御母にはよく見え、他の三人には少し見えました。
主は御聖体と聖血を拝領し、永遠の御父を讃え、人間の救いのための犠牲として秘蹟にこもる御自身を捧げました。残っているパンの切れ端を大天使ガブリエルに渡し、御母の所に持って行かせました。大天使に大勢の天使が随行しました。御母は涙を流し、御聖体を恭しく拝領しました。その後で主はパンを使徒たちに手渡し、分け、配るように命じました。使徒たちも涙ながらに御聖体を拝領しました。使徒たちは司祭の権限を与えられ、聖なる教会の創立者となり、他の誰にもまして優先権を与えられたのです。主イエズス・キリストの御命令により、聖ペトロは御聖体をエノクとエリアに授けました。二人は大喜びして、将来、天国に入り、主なる神に御目にかかることを世の終わりまで待つよう改めて決心しました。心からいと高き御方に感謝した後、天使たちにより、二人の住居である古聖所に連れ戻されました。この奇跡により、主は、苦からの自然法と成文法を、御受肉、救世と人々との復活の中に組み入れることを示されたのです。これら全ての秘儀は、至聖なる聖餐の中に存在するからです。
元后の御言葉
ああ、私の娘よ、カトリック信者たちが石のように固くなった心を開き、聖体拝領の真の意味を掴むように心から希望します。御聖体の中に力と健康があります。悪魔に誘惑され、迫害されても問題ではありません。御聖体を頻繁に拝領することにより、信者は悪魔を克服できます。ルシフェルと部下の悪魔たちが御聖体に近づく時、地獄の拷問よりも怖い思いをします。教会の中に入り、御聖体が安置されている所にいると残酷な苦痛にさいなまれますが、人々を罪に誘惑し、滅びに導こうと一生懸命になっています。御聖体が市外を通る時、悪魔たちは怖さのあまり、逃げ回るのです。御聖体を敬虔に拝領する信者たちも悪魔にとっては苦手です。それでも悪魔たちは、信者に御聖体の有り難さを忘れさせ、無関心にさせ、世の中のことに気を配るように絶えずけしかけてくるのです。この目に見えない敵に対して、聖体拝領という武器を持って聖なる教会のためにあなたが戦うべしということは主の聖旨であり、私の意志です。罪を犯すカトリック信者たちを救うためには、敬虔に聖体拝領すること、次に私に取次を願うことが大変大事であることを肝に銘じなさい。又、御聖体に対し失礼な態度をとる司祭たちは、それを真似る信者たちよりももっと批難されるべきです。信心深く聖体拝領する人たちは、主の御体や御血を頂かずに殺された殉教者たちよりももっと大きな光栄を頂くのです。私はただの一回も御聖体を頂く価値はありません。私は原罪の汚れなく、セラフィム以上に愛徳を積み、全ての徳行に於て諸聖人以上の英雄的功徳を行い、私の全行為の意図は至高であり、私の習性も賜物も比較にならないはど高貴であり、御子に見習って苦労し、恩寵の功徳を受けない時は一時もありませんでしたが、これら全てを越えるのは「聖体拝領」です。聖体拝領するあなたは、いと高き御方を崇め、讃え、いつも主を受ける準備と何回でも殉教する覚悟をしなさい。
日本語訳 尊者アグレダのマリアの記録『神の都市』 甲斐睦興訳/昇る旭日の聖母会監修・発行 でも、申し訳ない、絶版である。 これはもともとカトリックの有志達が頑張って発行したもののようで、部数もそんなには多くなかったのだろう、今は「日本の古本屋」にも amazon にも、またおそらく公立図書館にも、見当たらない。(いつか何とかしたい) |
何とかなった! 最近、或るカトリック有志がこれをPDF化してくれた!
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英語訳 The Mystical City of GodMary of Agreda (Author) Fiscar Marison (Translator) amazon ネット上にもアップされている。 http://www.sacredheart.com/MysticalCityOfGod.htm http://www.themostholyrosary.com/mystical-city.htm (PDF) |
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「カトリック信者たちが石のように固くなった心を開き、
聖体拝領の真の意味を掴むように」
「御聖体に対し失礼な態度をとる司祭たち」これらの言葉から、この示現が、世の中に溢れている な人達が思うような「カトリック教理を神秘的に焼き直して宣伝しようとするもの」などではないことが分かるでしょう。カトリック内部の或る部分を非難、あるいは嘆いているわけですから。前回「対内的なものである」と言ったのは、この意味です。
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シルバーバーチとの関連で
以下、全ては、「もし上の示現がその時の事実をその通りに映したものであるならば」という前提に立ってのことですが・・・
もし、そうであるならば、
シルバーバーチは、
地上の人間はあまりに永いあいだ教えを説く人物に関心を寄せすぎ、超人的地位に祭り上げて、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。
わたしたちはもう、そんな、しょせん人間にすぎない者を超人的地位に祭り上げることはいたしません。
わたしたちはもう、そんな、しょせん人間にすぎない者を超人的地位に祭り上げることはいたしません。
いくら立派な地位(くらい)ではあっても、本来まったく関係のない地位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽すゆえんとはなりません。父なる神の右に座しているとか、"イエス" と "神" とは同一義であって、置き替えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。
などと言っているわけですが、それは当たらないことになります。何故なら、この示現には「崇めました」「平伏しました」などという言葉がありますから。だいたい「祭り上げる」という言葉自体が、かなり悪意のあるものです(まあ、訳語ではありますが)。「イエス」がどうのという彼の表面上の「理屈」「議論」の裏に、その奥に、彼の「権威嫌い」の心性が透いて見えるかのようです。
(彼にとってのその「権威」とは何ですか? ------- イエズスの権威です! 彼はイエズスが嫌いです。「マスター・イエス」は好きであり、「よく知っている」のではあってもw。)
また、この示現によって、「ミサ」においては「儀式 = 単なる儀式」ではなく「儀式 = 人間に霊益を与えるもの」であることが分かります。
また、この示現によって、「教会」も「ミサ」もイエズス様が「設立」されたものであり、ミサで使われる祭壇・祭器もイエズス様が指示されたものであり、そして「今後、教会で繰り返される言葉」、つまり「聖変化の言葉」なども、イエズス様が「宣言」なさったものであることが分かります。
もう一度言えば、これら全ては「もし上の示現がその時の事実をその通りに映したものであるならば」という前提に立ってのことです。それはそうです。そして、この示現が本物であるという「証拠」はありません。
しかしながら、もし「神」というものが在るとすれば、それは人間にとっては「神秘」なものでありますから、つまり人間にはなかなか捕捉できないものですから、私達はともかく「仮定法」というものをあまり拒否しないで、隠れた物事を探らなければなりません。(「手探り」を嫌がる人には真理は探究できません。)
で、もしこの示現が真であるとすれば、シルバーバーチの「祭壇に何の意味がある」だの「祭壇がいったい宗教と何の関係がある」だのといった言葉(参照「シルバーバーチは悪霊である 3」)は、一般には通りのよいものだとしても、実はとんでもないものだということになります。
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さて、ベイサイドの時と同じ質問をします。
シルバーバーチが「よく知っている」という「イエス」と、この示現の中の「イエズス」は、同一人物(同一霊)ですか???
シルバーバーチは、
私はあなた方が想像する以上にイエスと「親密な関係」にある
イエスはあなた方の「スピリチュアリズム」や「交霊会」を高次霊界における大審議会の主宰者としての立場から指揮・指導している
祭壇に何の意味がある
教会というものは、霊魂が未だ「本当の真理」に開かれていない人々のための幼稚なオモチャという以外には何の意味もない
教義も、教典も、儀式も、祭礼も、祭壇も、祭器も、聖歌も、僧服も、それら全て、一切合切、教会から削除してよい
と言っています。その彼が「よく知っている」という「イエス」と、上の情景の中の「イエズス」は、同一人物(同一霊)ですか???
*
上の示現にはこう書いてあります。
(御子が)御聖体と聖血を敬虔に頂く様子は、我々に聖体拝領の仕方を教えただけではなく、人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれることを知らせています。これを覚えておいてください。これと「一致」する他の示現を、私はなんぼでも挙げることができますから。
しかし、ここでさえ言えるのは、シルバーバーチが「よく知っている」と言う「イエス」は「カトリックの司祭達がミサを捧げたからといって少しも嬉しくは思わない」(参照「シルバーバーチは悪霊である 3 」)人ですから、従って、「人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれ」たりはしないということです。
同一霊ですか? しつこいけど。
*
私は「カトリック教徒」というより
一介の「探究家」です。
大したものではありません。
でも、性質としてはそうです。
だから上のような資料も読みます。
(大部分のカトリック教徒は
このようなものを読みません。)
しかし、とにかく、もう
「カトリック教徒だからそう言うのだ」
と言われても構いません。
そのようにカンタンに片付けられても構いません。
私はここで大声を出すことにします。
一介の「探究家」です。
大したものではありません。
でも、性質としてはそうです。
だから上のような資料も読みます。
(大部分のカトリック教徒は
このようなものを読みません。)
しかし、とにかく、もう
「カトリック教徒だからそう言うのだ」
と言われても構いません。
そのようにカンタンに片付けられても構いません。
私はここで大声を出すことにします。
シルバーバーチ!
この大嘘つき野郎!
この大嘘つき野郎!