ラベル 悪霊 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 悪霊 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2010年12月13日

突然来るそれ

あ〜る日とつぜん お告げがあーるのー ♪
あ〜んなに神を 無視したけーれどー ♪

いや、そんなことはないね、という話。

霊界からの通信というものを見ていくと、接触して来た「霊」と接触された「人間」との間に、一つのパターンのようなものがあるような気がする。

どういうことかと言うと、
  1. 本当の神様から示現を受けるのは、大抵、それまでの人生の中で相当に信心深かった人であり、
  2. それに反して、悪霊からの通信を受けるのは、大抵、それまでの人生の中で無神論者であるか、宗教信者であってもあまり熱心でなかった人である、
ということだ。

*

例外はあるだろうか。

前者における例外。
つまり、教会に通うことに熱心な人でも、ある日、偽の「イエズス」(あるいは「聖母」「天使」etc.)の出現を受け、悪霊に騙される。そういうことはあるだろうか。------- 勿論、あり得る。否、ある。

では、後者においては例外はあるだろうか。
つまり、無神論者だったり、宗教信者であってもあまり熱心でなかった人のところに、本当に「本物の神様」が通信しようとして来ることはあるだろうか。

私は、まず無いと思う。
考えてみてよ。ふだんちっとも「イエス」に思いを向けない人のところに「イエス」が来るかい? ふだんちっとも「神様」と思わない人のところに「神様」が来るかい? 神様は「心の寛い」お方だから、何らかの意図のもとに、そのようなことをすることもあるかもって? いいや、私は、まず無いと思うね。

ふだん神様に心を向けることがまったく無いか、有ってもごくたまに、気紛れにであったりする人のところに、ある日ポッと、突然「イエスである」「天使である」と霊が言って来る。そのような場合は、まず悪霊からのものと思って間違いない。


例1) ヴァッスーラ・ライデン (Vassula Ryden)


この人がどんな状態の時に(どのような生き方をしている時に)最初の霊的通信を受けたかを、二つの記事が語っている。

まずは、彼女に好意的なサイトの記事から。
(ヴァッスーラ・ライデンは)10代から30年間も教会にほとんど行かず、宗教的無関心な生活を送っていましたが、1985年11月のある日、突然守護の天使ダニエルの訪問を受け、その後、知的幻視のうちにキリストからのメッセージを受けるようになりました。

次は、「ヴァッスーラの受けている『私的啓示』なるものは天からのものではない」と結論づけている記事から。(私はこれに同意する。)
ギリシャ正教会信徒であるヴァッスーラ・ライデン夫人はある出来事が身に起る以前には葬儀や挙式以外に教会に足を運ぶ事がなかったと言われる。

どちらの記事も「最初の霊的通信を受けた時に彼女は『宗教的無関心』の人であった」と言っている。宗教的無関心の人のところに、あ〜る日とつぜん ♪ 「天使」が、「イエス」が、語りかけて来るわけである。

そして、その「お告げ」を受けてから彼女は急に信心深くなるわけだが、やがてその彼女が主張し始めた事はどういう事か。彼女が「天からの声」「イエスの声」として人々に紹介しているのは、どういう内容のものか。
------- キリスト教界におけるある種の COEXIST のことなのである!
(詳しくは上に挙げた彼女に否定的な方の記事を参照してください。その記事が言っていることは正しいから。)


例2) モーリス・バーバネル (Maurice Barbanell)


シルバーバーチからの通信を受けた人である。彼は事の発端を自身で説明した文章の中で次のように語っている。
同時にその頃の私は他の多くの若者と同様、すでに伝統的宗教に背を向けていた。母親は信心深い女だったが、父親は無神論者で、母親が教会での儀式に一人で出席するのはみっともないからぜひ同伴してほしいと嘆願しても、頑として聞かなかった。二人が宗教の是非について議論するのを、小さい頃からずいぶん聞かされた。理屈の上では必ずと言ってよいほど父の方が母をやり込めていたので、私は次第に無神論に傾き、それからさらに不可知論へと変わって行った。

このように無神論的な人のところに、あ〜る日とつぜん ♪ 「高級」を自称する霊が通信して来るわけである。


*


さて、一番の問題は、上で言ったように、
「神様は『心の寛い』お方だから、何らかの意図のもとに、そのようなことをなさることもあるかも知れない」
と思う人も多いだろうということだ。

そのような人達はおそらくその「何らかの意図」、神様の何らかの意図について、こう考える。
「宗教的に不熱心な人の方が余計な擦り込みがないから、つまり地上の教会によって教義的なものが擦り込まれている度合が少ないから、神様は『隠されて来た本当の真実』を伝えようとする時、むしろそのような『心が白紙の状態に近い人』を選ぶだろう。少なくともそのような可能性も大いにあると思わねばならない。」
これに対し、私は「いや、無いね」と答える。

理由?
本当の神様からの通信は、それ自体「途方もない」と言うべき「恵み」だから。何らかの形でその恵みに「値する」人が、それを受ける。(それを判断するのは、勿論、神様側である。)
神様は、「憐れみ」によって、ある者に何かをお教えになることもある。けれど、神様に対する意識がまったくゼロ、あるいは殆どゼロの人のところには、通常、憐れみによってもお出ましにならない。神様に向かう何らかの真面目な心なり運動なりがまず先行して人間の側にある時にのみ、神様は接触される。

いろんな示現を観察しても、そういう構図しか出て来ないのである。

2010年12月9日

悪魔の憎悪 2

前のページからの続き


そのような「天主に属するもの全て」を憎み、
それらを取り除こうとして、
常に天主と人間を煩わす彼らだが、

そのたびに天主によって屈服させられ、

屈辱と共に追い払われる。


怒り狂った彼らは出て行き、
そして次に、何をするか。したか。

シルバーバーチの言う「大審議会」で
何を決議し、何をしたか。


色々あるだろうが、その一つは、より包摂的でグローバルな新宗教の創設と

新しい宗教観の樹立である。

その【目的】は、勿論、天主の御手から出来るだけ多くの霊魂を奪い、復讐することである。

その【手段】は、色々あるだろうが、主要な一つは「半真理」を語ることである。

彼らは「誠実さ」を装いながら、幻惑的な「霊」の高みから、しかし実のところその見かけの「高み」とは全く不釣合いな一般受けのいいだけの真理、 すなわち「半真理」を語るのである。

人間心理の一般的傾向を熟知した彼らは油断できない話者であって、本当の事と嘘を巧みに混ぜ合わせつつ、人の心を幻惑し、惹き付け、彼らの「暗いディベートの森」の中に誘い込み、迷わせる。

マシュー君

皆さん、ご注意。
霊的な事柄を判断するにおいて確かな「起点」や「基準」を持たない人は、危ないよ。「心に響いたので」というだけで選んでいたのでは、危ないよ。

また、物事を調査するにおいてこの世的な手法に長けている人達も、いつかは霊的な事柄にまともにアクセスしなければならないよ。人間とはそういうものだから。人間は「霊」なんだから。


*


さっき、「大審議会で何を決議し、何をしたか」という言葉を見て、多くの人は退(ひ)いただろうと思う。中には、自分が「知的」であることを確認する印、「苦笑」ってやつを、頬に浮かべた人も居るだろう。しかし、それははっきり言って自惚れってもんだ。------- 私は大真面目に言っている。



*


上の「イエス」の姿だけど、つまり「神界ではクリシュナその他の神々と仲良く COEXIST なさっているのです」とか「お若い頃はインドで修行なさったのです」とかいう話だけど、私も昔、宗教を広く探訪していた時には、「そうなのかな」程度のことは、やはり思ったさ。

そして、今も私の基本的な性質は変わっていない。ただの「探究者」としての心を今も持ってるつもりだ、根底に。だから、カトリック信者としては大胆?に、次のように言ったりすることができる。
もしそのような事が「真実」ならば、私は喜んでそれに席を譲ろう。この点については、カトリック教義に席を外してもらおう。何度も言うように、根本的に大事なのは「教義」ではなく、「真実」なのだから。
けれども、私が〈観察〉する限り、やはり上のような話は嘘だね。
カトリック系の示現、たとえばベイサイドの預言などは、カトリックの素朴な信者が見たらひっくり返りそうな事が書いてあるけど、その中にさえ「イエズス様はお若い頃インドで修行なさった」などという話は、全然、その影すら出て来ないからね。

もしそのような話が真実なら、イエズス様はたびたび「人里離れた場所に退いて一人で祈った」ぐらいだから、別に「インドで瞑想」したことがあったって、さほど問題ではないだろうよ。もしそれが真実なら、天国はそれを認めたはずだ。イエズス様を「天主」の位置に置いたまま、同時に「お若い頃は確かにインドで修行なさった」と認めることだって・・・う〜ん・・・まあ、「全く不可能ではない」かも知れないからね。

でも、とにかく、カトリックの有力な示現すべてを見ても、そのような話は出て来ない。一切出て来ない。

だから、「そのような話は嘘である」と見る方が、順当、至当なんだと私は思うね。

そして、私達は考えるべきなんだ。
「『嘘』には『目的』がある」ということを。

そして、もう一つ肝心なのは、
「その嘘は単に人造なのではなく、霊界の生物から始まっている」
と知ることだね。

マシュー君のことなどでも、よく人は「裏にその筋のゴーストライターがいるんじゃないか」とか疑うよね。物事を調査するにおいてこの世的な手法に長けている人達も、基本的に霊的なことはあまりまともに信じられていなかったりするから、ついそういう方向性の解釈になるよね。そういう人達が見るのは、常に人間の「思想」だ。
けれども、私は、誰かがどこかでこう書いているのを見たが -------「マシュー君のメッセージを受けている彼の母親、スザンヌ・ワードさんが話しているのを動画で見たけど、嘘を言っているようには見えなかった」------- おそらくその通りなんだろうと思う。彼女はおろらく主観的には嘘はついていないだろう。つまり、私は「あれは全くの霊現象である」と思うわけ。

2010年12月7日

悪魔の憎悪 1

人は、「この世の悪」を調べる者のことは、なんにも言わない。むしろ、そのような事に従事している人達 ------- 警察、犯罪学者 etc. ------- のことを普通に認めるだろう。けれど、誰かが「あの世の悪」を調べているとなると、変な目で見たりするのである。私はそのような目を持った人のことを、かえってこう思うのである。「寝ぼけ眼(まなこ)の人」

何故なら、霊界にはそれは大きな「悪」が在るからである。実在している。
霊界に悪が在るのを認める人は少なくない。けれども、そのような人達でもその多くは、霊界における悪の「規模」と「実態」をまったく測定しそこなっているように私には思われるのである。(それはいわば「実測」でなければならない。)

だからこそ、私は、記事「アルベルト・ドレクセル教授」で、次のような、ちょっと見には奇妙に思われるだろうことを言ったのである。
「神を」ではなくむしろ「悪霊を」、「真理を」ではなくむしろ「非真理を」、調べた方がいい。
自画自賛になるが、その通りだと思う。

何故なら、概してこう言えるからだ。
  • 私達は大抵、気のいい、お人好しの、ボンヤリ人間である。
  • そして、悪いことに、「自分は『善とは何か』を知っている」と思っている。だから、そういうお人好しで自己過信の人が「善」だけを追えば、ついフリーメーソンの「自由、平等、博愛」という標語を見て「その通りだ」などと思ったりする。
  • そして、悪いことに、「自分は『真理とは何か』を知っている」と思っている。
    だから、そういうお人好しで自己過信の人が「真理」だけを追えば、つい神智学協会の「真理より高い宗教はない」(参照「神智学協会の標語」)という標語を見て「その通りだ」などと思ったりする。

そして、こうである。
  • そして、悪いことに、「自分は『宗教とは何か』を知っている」と思っている。
    だから、そういうお人好しで自己過信の人が「善」だけを追えば、ついシルバーバーチの「儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えとは何の関係もありません」(参照「シルバーバーチは悪霊である 3」)などという主張を見て「その通りだ」などと思ったりする。

しかし、見よ、
もしあなたが「悪」を少し研究するなら、
全体の眺望は全く違ったものになるであろう!

以下、エクソシズムにおける悪魔の自白である。前にも言ったが、これは翻訳文である。文章だけを見ると、あたかも悪魔がそれなりに落ち着いて話しているかのような印象を受けるかも知れない。けれども、エクソシズムの実際の場面では、悪魔は叫びつつ、呻きつつ、荒れつつ、これを言ったに違いない。

彼らはミサと聖体を憎む
ミサと聖体拝領はお前達カトリックにとって二つの重大な事柄である。全ての神秘家、そして全ての聖母出現さえ、その二つには場所を譲らなければならない。聖なるミサは莫大な価値を、想像など及びもつかない価値を持つ。キリスト自身が、充満せる彼の恵みの全てを携えて祭壇に上がる。我々はそれを非常に憎む。今でもミサが正しく捧げられた場合、我々はその場から逃げなければならない。我々は正にその開始時点から、灌水式の時点から、逃げなければならない。そして比喩的に言えば、その時我々はただ隙間から、おどおど見ていることができるだけである。しかし今では正にその反対で、現代風のミサでは我々はそこら中で踊り回り、果ては... 言いたくない。

下のあそこ〔下を指す〕にいる我々は、多くの教会で毎日捧げられるこのいけにえを憎んでいる。天主の家の多くでは、もはやミサが正しく執り行なわれていないというのは本当である。以前、古いやり方でミサの犠牲が捧げられていた頃は、我々にとっては正に気も狂わんばかりだった。それは、この十字架上のキリストの犠牲の更新が、それがなければ何千という単位で失われ我々に加わる筈であった霊魂達の救済のために、実際にその罪を一掃し、素晴らしい恵みを与えるからである。

彼らは聖母を憎む
しかしルシファーは上のあそこ〔上を指す〕にいる彼女を憎んでいる。その偉大な婦人が自分が望むもの、またあの冠を戴いた頭の中で考えているものを手に入れたりすると、彼はいつも激しく怒り狂うのだ。

彼らは告解の秘跡を憎む
そのようにして告解者は、偉大な、また致命的な(悪魔達にとって)罪の許しを受けるのだ。「EGO TE ABSOLVO(私はあなたを許す)」... ああ、我々はいかにそれを憎んでいることか! 今日においても我々はそれを憎んでいる!

彼らはロザリオ、十字架、僧服を憎む
〔エクソシストの方を向いて〕 我々はお前達を見ることができない。お前達が晴れの日もどんな天候の日にも大きな十字架の付いた大きなロザリオを輝かせながら持っている時、お前達を見ることができない。我々はそれを見ることができない。お前達の誰かが輝く十字架が付いたその冠(ロザリオ)をその僧服に付けてそこに居る時、我々はそれを見ることができない。我々はそれを見ることができない。我々はそれらを憎む! 我々はそれらを憎む!

彼らは司祭のストラを憎む
〔電光石火の早業でベルゼブブは司祭の一人からストラを引き剥がす〕

司祭: ストラは私のものだ。お前のものではない。いと祝せられたおとめの御名によりて続けよ!

ベルゼブブ: 我々は、もしできるなら、どれほどの悪魔的な喜びを感じつつ、全てのストラを引き剥がし、地獄へ引き降ろし、燃やすことか! お前は、我々が全ての司祭と司教のストラと帽子を放り投げて山にし、それに火を点けることができたら、どんなに喜んで踊るかを想像できるか? そうできたら! 我々悪魔はあらゆる隅で一斉にそれらに火を点けるだろう。それは地獄の中に地球まで真っ直ぐ立ち昇る煙を生じさせるだろう。もしこのことが起こったら、我々はもう一つの祝宴を持つことだろう!



だから、こうなのです。
シルバーバーチ
シルバーバーチは、その方面に関心のある人達の間で、もう何十年もの間、一定の安定した評価を得ているものである。既に「古典」の一つである。私自身も昔、それを読んで、「今一つピンと来ないなぁ」と思ったばかりで、それがよもや悪霊から来ているなどとは、ついぞ思ったことがなかったのである。けれど、時代もいよいよ大詰めになって、この「悪霊による稀代の大嘘」もとうとう暴かれ、化けの皮が剥がされるというわけである。



つまり、
シルバーバーチとマシュー君
ということです。

マシュー君も同族です。


上の等式で一番大事なのは、
当然、二番目の「仮面」です。
「偽装」の段階です。

一番上の怒った狼だけなら、
誰も寄って来ません。


(次回に続く)

2010年12月5日

悪魔の恐れ

『神の神秘的な都市』について以前紹介した中に、次のような一節があった。
元后の御言葉
ルシフェルと部下の悪魔たちが御聖体に近づく時、地獄の拷問よりも怖い思いをします。教会の中に入り、御聖体が安置されている所にいると残酷な苦痛にさいなまれますが、人々を罪に誘惑し、滅びに導こうと一生懸命になっています。御聖体が市外を通る時、悪魔たちは怖さのあまり、逃げ回るのです。御聖体を敬虔に拝領する信者たちも悪魔にとっては苦手です。それでも悪魔たちは、信者に御聖体の有り難さを忘れさせ、無関心にさせ、世の中のことに気を配るように絶えずけしかけてくるのです。

そして次は、カトリック教会におけるエクソシズムの記録の一節である。
注) これは翻訳である。翻訳者は日本語を多少荘重に?w仕立てた。けれど、エクソシズムの実際の場面では、悪魔は叫びつつ、呻きつつ、荒れつつ、これを言ったに違いない。
悪霊の自白
ミサと聖体拝領はお前達カトリックにとって二つの重大な事柄である。全ての神秘家、そして全ての聖母出現さえも、その二つには場所を譲らなければならない。聖なるミサは莫大な価値を、想像など及びもつかない価値を持つ。キリスト自身が、充満せる彼の恵みの全てを携えて祭壇に上がる。我々はそれを非常に憎む。今でもミサが正しく捧げられた場合、我々はその場から逃げなければならない。我々は正にその開始時点から、灌水式の時点から、逃げなければならない。そして比喩的に言えば、その時我々はただ隙間から、おどおどと見ていることができるだけである。しかし今では正にその反対で、現代風のミサでは我々はそこら中で踊り回り、果ては... 言いたくない。

「悪魔/悪霊はそれほどまでに聖体の秘跡を恐れている」という事を言うにおいて、上の両者は見事に「一致」しているのである。

*

「どのみちカトリックの世界から出て来たものではないか。一致するのは当然だろう」と言うのか?

しかし、それはやはり少しカンタン過ぎる判断なのである。

何故ならば、人はそのように言えるためには、尊者アグレダのマリアがその神秘的な視覚・聴覚で受けたと称するものが本当に彼女の過去の焼き直し、つまり彼女の潜在意識の再生産に過ぎなかったかどうかが「精査」されなければならないし、またそれと共に、エクソシズムとは何なのか、そこで起こっている事は何なのかが「精査」されなければならないからである。

つまり、上のような文献、記録、その世界は、果して「教義的な世界」と言えるだろうか。これらの世界にどれほどカトリックの「教義」が関わっているのか。
確かに、これらの舞台に登場する人達 ------- 尊者アグレダのマリア、そしてエクソシズムを執行した司祭達 ------- の脳裡には、勿論、カトリック的世界があっただろう。けれども、人はその潜在意識の一隅にカトリック教義を持っているからと言って、これほどまでの「幻覚・幻聴・幻想」を持つものなのだろうか。

人はあまりにカンタンに考え、「想像」し、そして酷い場合には「断定」すらするけれども。

しかし、本当は「精査」されなければならないのである。

しかし、「精査」など出来ないのである。少なくとも今の科学では出来ない。

それが白であるか黒であるか、どちらとも言えないのである。
あなたの意見は証拠づけられず、私の意見も証拠づけられない。

しかし、私としては、これらの世界はカトリックの「教義的な世界」とは少し違ったものである、道を一本隔てたものである、と申し上げる。これらは「教義の反映」ではなく、純粋に霊的な「現象」であると。「宗教における第一次的な資料」、「霊的な源泉」であると。(参照「宗教における第一次的なもの」)

だからこそ、「一致」を拾っていくに値するものである、と思うわけである。

尊者アグレダのマリアの『神の都市』は最近PDF公開された。CLICK!

2010年12月2日

エクソシズム ビデオ三本

「悪魔/悪霊に対する関心」ということにおいて最も正しいことを言っているのは、ドキュメンタリービデオ『アンネリーゼ・ミシェルのエクソシズム』の中に出て来た若い神父様の次の言葉だと思う。

現在でもアンネリーゼについて語ることはドイツではとても難しいことです。何故なら「悪霊が存在する」という現実に対して否定的な態度がまだあるからです。このようなことは人々を恐れさせます。これはクリスチャンにしても同様です。彼らは恐れ、どう考えてよいかわからず、しばしばこのような主題に対して嫌悪をもって反応します。そしてアンネリーゼのことを引き出しの中にしまっておくためにあらゆることをし、その問題を自分の心の中から締め出そうとするのです。

他方では「刺激的な出来事」に興奮する人達がいます。彼らは憑霊を描いた映画を見るのが好きなのです。しかし彼らはそのような奇妙で想像力を刺激する映像と霊的な現実とを結びつけることがありません。悪霊と罪の問題とを結びつけて考えることがないのです。

「悪魔/悪霊に対する関心」が〈正しい路線〉に乗れば、あなたは「神」を見出せる。少なくともその「キッカケ」にはなる。聖書には幾つかイエズス様による「悪魔祓い」の話が出て来るが、それが絵空事でも何でもないということが分かるからだ。

その意味で、怖がりな人もできるだけ見て欲しい。


エクソシズム(御受難会司祭)


エクソシズム(ディスカバリーチャンネル)



エクソシズム(イエズス会司祭)



こういうのを見て小賢しいことは言わない方がいい。
人間の「知性」なるものに自惚れないことだ。

プライドのお化け、人間よ。

2010年11月7日

実在

私は思う。人は「神とか悪魔とか霊的世界とかは実際存在するのか」という問いを余所にしながら(不問に付しながら、脇に置きながら)「宗教を論ずる」などということは、本当は(全的には、十全には)ただの一歩も、ただの一寸もできないのだ、と。
けれど、世の中には、霊的世界を信じない人の「宗教論」が何と多いことだろう!

いわゆる「魔女狩り」との関連で言及されることの多い16〜17世紀のフランスの人、アンリ・ボゲ (Henry Boquet) が著わした有名な『魔女論』(1602年)の中に、次のような一節があるらしい。

「そればかりか、魔法にかけられた人の口や肛門から、針や蹄鉄、石、紙が出てくることもある。」
ジャン-ミシェル・サルマン著『魔女狩り』(創元社)

しかし、人は思う、「魔女狩りに少なくとも確かに利用されたものなら、悪い本に決まっている。また、これは400年前の、人々が迷信深かった時代の本である。この本もその時代の人々と等しく、迷信と狂信に埋まっているに決まっている。その時代の人々は、私達のように理性的に観察したり、緻密に検証したり、合理的に考えたりはできなかったのだ。これも歴史の流れであり、責めることはできないが、率直に言えば彼らは劣っていたのだ」と。

けれど、自惚れた現代人よ、実のところ大して優秀でもないだろう現代人よ、キリストの言う「盲目」に全く当て嵌まるだろう現代人よ、それでいて完全に鼻高の現代人よ、ちょっと待て。私達の時代にも全く同様の証言があるのだ。

アモルス神父は取材中、私に、ぎょっとするものを見せてくれた。
彼はホールケーキ大の箱を差し出した。10年来、神父が手を焼いている修道女が、口から吐き出したものが入っているという。箱には日付を記した白封筒がぎっしりと詰め込まれていた。封筒の中には、40cmもある鎖、ロッカー用と思われる鍵、プラスチック製のドラゴンやワニ、そして4cmもある釘やヘアピンが数え切れないほど入っていた。全部で2kgはあっただろうか。


「まるで、吐き出すそばから口もとでこれらが生み出されているかのように見えました。それに、これだけ硬く尖ったものを吐いたにもかかわらず、直後に彼女の口の中を調べても傷一つないんです。」(神父談)
(出版社の人々よ、装丁をもう少し考えてもらいたい!)

私達は「宗教はどうの」と論ずる前に、否、少なくともせめてそれと同時に、「不思議なこともあるものだ」ぐらいは思うべきではないのか。

そして、その「ある」は、何らかの「実在」ということである筈である。
他にどのような種類の「ある」があるのか。
ぼんやりと考えているのは、私達現代人も同じではないのか。

2010年10月14日

ルシファーは実在するか

「ルシファー」なんて言ったって、日本人の多くにとっては「キリスト教の概念」に過ぎない。あるいは、人類思想史を調べることが好きな人なら、「それはキリスト教以前の伝承から存在する」と言うかも知れない。しかしどちらにせよ、それは「概念」なのだ。

「概念」の面、「思想」の面しか考えない人は、己が心を決して次の質問に向けない -------「それは実在するのか?」

しかしあなたは、「それはキリスト教が言ってることだ」と言って片付ける代りに、「キリスト教の言ってるこれは本当なのか? それは現実に沿ったことなのか? それは実在か?」と問うこともできる。

そしてそうする時、それは真にあなたにとってあなた自身の問題に、そして現在の問題になる。

アンネリーゼ・ミシェルのエクソシズム 1/6〜6/6 連続再生