2010年12月5日

悪魔の恐れ

『神の神秘的な都市』について以前紹介した中に、次のような一節があった。
元后の御言葉
ルシフェルと部下の悪魔たちが御聖体に近づく時、地獄の拷問よりも怖い思いをします。教会の中に入り、御聖体が安置されている所にいると残酷な苦痛にさいなまれますが、人々を罪に誘惑し、滅びに導こうと一生懸命になっています。御聖体が市外を通る時、悪魔たちは怖さのあまり、逃げ回るのです。御聖体を敬虔に拝領する信者たちも悪魔にとっては苦手です。それでも悪魔たちは、信者に御聖体の有り難さを忘れさせ、無関心にさせ、世の中のことに気を配るように絶えずけしかけてくるのです。

そして次は、カトリック教会におけるエクソシズムの記録の一節である。
注) これは翻訳である。翻訳者は日本語を多少荘重に?w仕立てた。けれど、エクソシズムの実際の場面では、悪魔は叫びつつ、呻きつつ、荒れつつ、これを言ったに違いない。
悪霊の自白
ミサと聖体拝領はお前達カトリックにとって二つの重大な事柄である。全ての神秘家、そして全ての聖母出現さえも、その二つには場所を譲らなければならない。聖なるミサは莫大な価値を、想像など及びもつかない価値を持つ。キリスト自身が、充満せる彼の恵みの全てを携えて祭壇に上がる。我々はそれを非常に憎む。今でもミサが正しく捧げられた場合、我々はその場から逃げなければならない。我々は正にその開始時点から、灌水式の時点から、逃げなければならない。そして比喩的に言えば、その時我々はただ隙間から、おどおどと見ていることができるだけである。しかし今では正にその反対で、現代風のミサでは我々はそこら中で踊り回り、果ては... 言いたくない。

「悪魔/悪霊はそれほどまでに聖体の秘跡を恐れている」という事を言うにおいて、上の両者は見事に「一致」しているのである。


「どのみちカトリックの世界から出て来たものではないか。一致するのは当然だろう」と言うのか?

しかし、それはやはり少しカンタン過ぎる判断なのである。

何故ならば、人はそのように言えるためには、尊者アグレダのマリアがその神秘的な視覚・聴覚で受けたと称するものが本当に彼女の過去の焼き直し、つまり彼女の潜在意識の再生産に過ぎなかったかどうかが「精査」されなければならないし、またそれと共に、エクソシズムとは何なのか、そこで起こっている事は何なのかが「精査」されなければならないからである。

つまり、上のような文献、記録、その世界は、果して「教義的な世界」と言えるだろうか。これらの世界にどれほどカトリックの「教義」が関わっているのか。
確かに、これらの舞台に登場する人達 ------- 尊者アグレダのマリア、そしてエクソシズムを執行した司祭達 ------- の脳裡には、勿論、カトリック的世界があっただろう。けれども、人はその潜在意識の一隅にカトリック教義を持っているからと言って、これほどまでの「幻覚・幻聴・幻想」を持つものなのだろうか。

人はあまりにカンタンに考え、「想像」し、そして酷い場合には「断定」すらするけれども。

しかし、本当は「精査」されなければならないのである。

しかし、「精査」など出来ないのである。少なくとも今の科学では出来ない。

それが白であるか黒であるか、どちらとも言えないのである。
あなたの意見は証拠づけられず、私の意見も証拠づけられない。

しかし、私としては、これらの世界はカトリックの「教義的な世界」とは少し違ったものである、道を一本隔てたものである、と申し上げる。これらは「教義の反映」ではなく、純粋に霊的な「現象」であると。「宗教における第一次的な資料」、「霊的な源泉」であると。(参照「宗教における第一次的なもの」)

だからこそ、「一致」を拾っていくに値するものである、と思うわけである。

尊者アグレダのマリアの『神の都市』は最近PDF公開された。CLICK!