ベイサイドの預言
前回言ったように、私はこれらの内容を「ベイサイドが言っているから」というので信じているのではない。多くの人が想像するだろうように「頭から、一も二もなく信じている」のではない。私はただ「人は本来、このような啓示がなくてさえ、以下のような事を理解し、それに共感し、同意できなくてはならない」と思っているのみである。それほど、これらの内容は道理に適っている。いわば、少なくとも「人間学」の観点から、非常に道理に適っているのである。
(画像と下線は管理人)
あなたは、私からうけようとしている証を、聖ひつのなかにおさめなさい。 あなたは、純金の『あがないの場』をつくりなさい。長さは、二キュビット半、はばは、一キュビット半。あがないの場の両方に、槌で打った二つのケルビムを作りなさい。第一のケルビムを、このはしに、第二のケルビムを、あのはしにつくりなさい。ケルビムが、あがないの場の両方に、しっかりと付けられて、それと一体となるようにつくりなさい。ケルビムは、つばさを高くのべて、そのつばさで、あがないの場をおおい、かれらの顔は、たがいに向きあって、あがないの場に向けなさい。
- 出エジプト記 25:16-20
謬見に陥ってはならない
記念碑 (monuments) 、あなた方の聖像を、捨てないでください。多くの人によって促進されている「あなた方がしているのは偶像崇拝である。よって、あなた方はそれらを捨てなければならない」という謬見に陥らないでください。ああ、私の子供達、あなた方はあなた方の国旗には敬礼するではありませんか。あなた方はあなた方の世界の傑出した人々の像をブロンズや石で造るではありませんか。そうであるならば、どうして天国の有力者達のイメージをブロンズや石で造ることができないと言うのですか?- 1976年12月7日、聖母
取り去ってはならない
私の献身者たち、聖画や聖像を取り去らないでください。というのは、もしそれらを取り去れば、子供達の視線はこの世の物事に取られてしまうでしょうから。その時、私達は彼らにとって単なる記憶、単なる伝説になってしまうでしょうから。- 1970年11月21日、聖母
聖像を元に戻しなさい
私の御子の家、地上における彼の教会の聖職者達。子供達のために聖像を、信仰の記念碑を、元に戻してもらえませんか? 子供達には安定した基礎が必要なのです。彼らの精神は、心の内に感じつつ天国の人々の存在を知るためには、まだ十分に成熟していないのです。それらの聖像、記念碑が、私の御子の教会に戻されなければなりません。- 1979年7月14日、聖母
最初の状態に戻しなさい
我が子、そして我が子らよ、次のように知りなさい。私達は世界のあちこちの教会の中を覗いたが、これほど短い期間のうちによくもこれほどまでに我が教会、地上における我が家を破壊できたものだと非常に当惑し、人間の性質というものをほとんど理解しがたいような気になっている。あなた方は我が家を最初の状態に戻さなければならない。私達は、我が教会の中に聖像を戻すことを、主祭壇を戻すことを、そして人々が自分達の神を礼拝するために跪くことができるように、設備を元に戻すことを要求する。しかしまた、これは始まり過ぎず、他にも多くの事がある。我が司祭達、あなた方にはそれができる。そしてミトラをかぶった人達、あなた方はそれをしなければならない。さもなくば、あなた方は速やかに地獄に落ちるであろう。- 1985年8月21日、イエズス
聖ミカエルを戻しなさい
私の子供達、あなた方は平和と友愛を説きながらもう一つの宗教を樹立しようとしています。それは人間中心主義 (humanism) とモダニズムからなる偽の宗教です。これまでどれだけ多くの警告があなた方に与えられたことでしょうか。それらの勢力に対する警告、地獄から送られる勢力に関する警告が! 信仰の保護者としての、また私の御子の教会の保護者としての聖ミカエルを拒絶しているあなた方聖職者達、あなた方は彼を祈りの中に、また視覚の中に ------- すなわち彼の記念碑、彼の聖像を ------- 私の御子の家、教会の中に戻さなければなりません。- 1976年6月18日、聖母
家の中に聖像を置きなさい
我が御母はこれまで、世界中至る所で彼女の子供達を集めてこられた。誰も、自らの自由意志で倒れない限りは、倒れることはないのである。我が子らよ、祈りの不寝番を保ちなさい。あなた方の家の中に記念碑を、聖像を置きなさい。準秘蹟を身に着けなさい。何故なら、世界を荒廃させるために今荒れ狂っている悪からの影響を打ち消すために、恵みが必要だからである。- 1976年6月18日、イエズス
王国についての知識
私の子供達、私達は、多くの人々の家の内部を見る時、不快になり、落胆し、消沈します。私の子供達、今「多く」と言いましたが、それはまさに夥しい数にのぼります。私達はそれらの家庭の中に多くの欠けを見ます。家庭生活は悪化し、腐敗しています。私達は、家庭生活の骨組みが少しずつ崩壊して行くのを見ています。私の子供達、これらの家庭の多くの中に、もはや規律はほとんどなく、神聖さに至っては全くありません。その教育は、控え目に言って、低劣です。あなた方はあなた方の家の中に、聖画、礼拝のための対象、聖像を取り戻さなければなりません。それらを通してあなた方の子供達が、永遠の王国の存在、またそこに住む霊魂達についての小さな知識を受け取るために。私の子供達、あなた方がそうしない限り、あなた方の子供達は一人また一人と、あなた方の手の中から、次いで御父の王国から、失われてゆくでしょう。
- 1975年8月14日、聖母
神聖な像
私の子供達。あなた方はあなた方の家庭に、また私の御子の家に、記念碑を、神聖な像を戻さなければなりません。あなた方の子供達は今、サタンの作品の上にその視線を投げています。それらは霊魂を破壊するものです。あなた方の家庭に全ての神聖な記念碑、聖像を取り戻しなさい。- 1973年10月3日、聖母
過去に与えられたもの全て
あなた方は過去に与えられたもの全てのものを利用しなければなりません。準秘蹟、記念碑、聖像。私の子供達、あなた方は、人間本性の中に留まっているなら、誘惑を受け、試みられるでしょう。多くの人は信仰から脱落するでしょう。多くの人は、取り返しがつかなくなるところまで、彼らの霊魂を売り渡してしまうでしょう。- 1978年2月1日、聖母
聖遺物
罪をあらゆる機会を避けよ。祈りの不寝番を続けよ。あなた方が多年の間、あなた方の子供から、またあなた方の家族から隠してきたかも知れない全ての準秘跡を集めよ。私は「隠してきた」と言う。多くの者がその家庭から、聖遺物のどんな利用も斥けてしまったからである。あなた方の子供達は、彼らがその上に留まらなければならない道を思い出す「よすが」としての聖像と聖遺物を持っていなければならない。あなた方のドアの外の世界は今やサタンの世界である。多くの者はやがて心の悲しみのうちに、天国への道に復帰しようとしても今やあまりにも遅い、と悟るであろう。多くの者にとっては復帰する時間がないであろう。我が子らよ、あなた方の家族に覚悟を決めさせよ。- 1978年2月1日、イエズス
持っていなければならない
記念碑、あなた方の聖像、それらはあなた方の家庭になければなりません。というのは、家庭の中にそれらを保つ人は、皆、救われるでしょうから。[管理人注1]- 1971年2月1日、聖母
聖職者に接触しなさい
しかし、私の子供達、私はあなた方に重ねて言います。私が過去あなた方に助言したように、あなた方は準秘蹟を身に着けなければならず、またあなた方の家庭に記念碑を、聖像を保っていなければなりません。また私は、あなた方の母として、次のこともあなた方に頼みます。地上における私の御子の教会の外見を保とうするするこの努力において、降参したり諦めたりしないでください。あなた方は声をあげなければならず、あなた方の小教区の聖職者に接触し続けなければなりません。記念碑、聖像は残らなければなりません。
- 1979年7月25日、聖母
無知
私の声に耳を傾け、私の助言を受け入れる人は、皆、救われるでしょう。私の子供達。記念碑、聖像を、あなた方の家庭から投げ捨ててはなりません。それらは崇拝の対象ではないのです。私の子供達、私達はあなた方が持っているそれらの記念碑に起因して立ち起こる全ての不満と意見の不一致を見ています。しかしあなた方は理解しなければなりません、偶像や像を崇拝しているとして挙げられる告発の声は、しばしば無知から来るのであると。
私の子供達。そうである理由はただ、彼らが信仰を持っていないということなのです。あるいは信仰を失ったということなのです。それで、彼らは理解することができないのです。彼らのために祈りなさい、私の子供達。あなた方は目の見えない人のことを責めたり罰したりはできません。そうではなく、あなた方は、その人が光に向かう生き方というものを理解し、それを生きることができるよう、その人を助けようとしなければなりません。もしあなた方がその人を見捨てるなら、その人は失われます。
- 1977年9月28日、聖母
崇拝対象ではない
我が子らよ。私は、彼らが地上の我が教会の中で、天使達を、その聖像を、「それは不敬である、それは崇拝対象になっている」と言いながら外に投げ捨てていることを知っている。もちろんそのような考えは真理ではない。しかし彼らはそのような態度を取るのである。これが、私が「位階において最高の地位にある人達でさえ、その多くは、我が教会の基礎部分に穴を空けながら掘り進むネズミのようだ」と言う理由である。彼らもまた裁かれるであろう。- 1985年7月25日、イエズス
聖像、聖遺物
現代的な彫刻と異教的な創作物のために聖像と聖遺物を投げ捨てることをしてはならない。あなた方の子供達の無垢を護れ。あなた方は最も注意深く、彼らが受ける訓育を、宗教と宗派の両方において彼らが受ける訓育を、見守らなければならない。我が子らよ。私は、地上における我が家、我が教会において、離教と分裂を望まない。未信者を転向させよ。あなた方の信仰を曲げてはならない。異教、ああ、悲しむべきことに、我が家において異教が容赦され許容されている! ああ、聖職者達、あなた方は私を再び十字架につけようというのか?
- 1979年9月7日、イエズス
視覚的効果
私の子供達。私がかつてあなた方皆に与えた助言、あなた方は常に準秘跡を身に着けていなければならないという助言を思い出しなさい。あなた方の家庭に記念碑を、聖像を保持しなさい。それらは急速に投げ捨てられています。サタンはあなた方から超自然に関する知識を奪いたいのだ、と知りなさい。そして更に、彼らはあなた方の前に懐疑論者、嘲笑者、そして真理を今も探してはいるが一向にそれを見出さない知識人等を置くことによって、自分達の存在をカモフラージュしたいのだ、と知りなさい。あなた方の子供達を、溢れている全ての悪から護りなさい。子供達があなた方の家から出発する時、準秘蹟によって彼らを護りなさい。彼らの心に毎日信仰を呼び起こすものを保ちなさい。そして、あなた方がその目的を達成するために、あなた方の子供達の心に信仰の真理を保たせるであろう聖像が、その視覚効果が、役に立つのです。
- 1976年11月22日、聖母
洗脳だと? [管理人注2]
救われるでしょう
多くの奇跡と不思議なことが地上に起こるでしょう。しかし、それらはサタンからのものであると知りなさい。霊をテストしなさい。サタンは彼の計画を長く隠していられません。ですから、私の子供、そして私の子供達、彼を恐れてはなりません。恐れは悪魔の道具です。さあ、準秘蹟を身に着け、家に聖水を備え、聖像を、記念碑を置くことによって、彼を妨害する準備をしなさい。というのは、私はあなた方に約束しますが、家の中に記念碑を、聖像を置く人は、皆、救われるでしょうから。- 1977年8月13日、聖母
破壊されないであろう
全ての準秘蹟が身に着けられねばならず、家の中に置かれねばならない。記念碑、聖像が、家庭と教会に置かれねばならない。何故なら、そうすれば、それらは懲罰の試練の時に倒れないだろうからである。家の中に我が記念碑を保つ人は、皆、破壊されないであろう。- 1973年3月25日、イエズス
斥けてはならない
ああ、私の子供達、世界中に天国からのメッセージを送ることを続けてください。ペースを緩めないでください。最後までやり通してください。そうすれば、あなた方は救われるでしょう。あなた方の家庭の中に、そしてあなた方の子供達の上に、準秘蹟を保ってください。それらはあなた方の鎧です。天国の有力者達の記念碑、聖像を、斥けないでください。それらの記念碑を家の中に保つ人は、皆、救われるでしょう。- 1976年12月31日、聖母
悪魔的な計画
祈りなさい、私の子供達、この蛇があなた方の家に入って来ないように祈りなさい。家をあなた方の記念碑で、あなた方の聖像で護りなさい。邪悪な勢力が、あなた方の人生から準秘蹟についての全ての知識、また超自然に関する全ての知識を奪おうと、結集しています。それは地獄から上がって来た悪魔的な計画です。- 1977年8月5日、聖母
保持しなさい
私の子供達。あなた方の生活の中に、聖像を、記念碑を、全ての準秘蹟を保持しなさい。というのは、それらは、あなた方の子供達の霊魂の内に、光を打ち立てるでしょうから。あなた方の神の敵、永遠の御父の敵、また真理の敵である彼らは、一つの理由のために、あなた方からそれらを取り上げようとして配置についているのです。あなた方の聖なる人達、聖人達の存在に関して、そのリアリティーを奪おうとしているのです。人間は、そのイマジネーションと思考の中で、目に映じない世界の存在を理解することが難しいのです。永遠の御父にお許し頂かない限りは、難しいのです。それは特別なお恵みなのです。
- 1975年11月1日、聖母
戻さなければならない
聖像、記念碑が、神の家の中に戻されねばならない。何故なら、目と心を通して入ってくるものが、霊魂の汚染にも啓発にもなるからである。純粋で神聖な思いを、常にあなた方の心に入らしめよ。何故なら心は、邪悪な霊達が侵入する主要ポイントだからである。- 1973年11月24日、イエズス
神性を表わす物
準秘蹟を身に着けよ。記念碑、聖像、神性を表わす物を斥けてはならない。何故なら、それらのものを家に保つ者は、皆、救われるだろうから。まことに、まことに、私はあなた方に言う。あなた方が引き返さない限り、あなた方の国は大懲罰を免れないであろう。- 1974年5月30日、イエズス
修道院から外される聖画
私の修道院で、聖画や聖像が取り外されました。とても悲しく思います。子供達は私のことを忘れました。子供達は全てを忘れるでしょう。聖画、聖像は、神の家に、また人々の家に、戻されなければなりません。- 1973年12月7日、聖テレジア
死の天使は通り過ぎる
記念碑、聖像は、あなた方の家庭に保持されなければなりません。いにしえの時代にそうであったように、死の天使は、家に記念碑を保持している人々のところは通り過ぎるでしょう。- 1977年5月18日、聖母
惑わされている子供達
覚えておきなさい、私の子供達、「去る者は日々に疎し」ということを。だからこそ、私達の聖像はあなた方から取り去られ、サタンの建造物に取って変わられたのです。去る者は日々に疎し!そして今日、果してどれだけの人が、その心の中に私の御子を持っているでしょうか? あなた方の子供達のうち、どれほど多くの子が、惑わされていることでしょう? どれほど多くの者が、既に深い穴に落ちてしまったことでしょう? 禍い、禍い、私の言葉に耳を傾けず、それに沿って行動しなかった両親は禍い! あなた方は苦悶の涙を流して泣き叫び、歯ぎしりすることでしょう。しかしその時はもう遅いのです! もう遅いのです!
- 1974年10月6日、聖母
レプリカ
最も大きなバリアは聖職者達の知的なプライドです。多くの犠牲によって彼らがひとたびそのバリアを取り払えば、そして祈りに戻れば、彼らの目から盲目が取れ、それまでの自分達の歩みの間違いを認識するでしょう。祈りなさい、私の子供達。彼らのために沢山祈りなさい。祈りの力は、御父と共にあって偉大です。記念碑は神の家に戻されなければなりません。
〔ヴェロニカ - 聖母は聖像のことを言っておられます。〕
子供達は彼らの視線をその上に投げることのできるしっかりした作りのレプリカを持っていなければなりません。というのは、目から入ったものは心に入るからです。そして心に入ったものは成長し、再びそこから出て来ます。しかしあなた方はいったい、あなた方の子供達がそこから罪と堕落と神の知識の喪失を受け取るもの以外の何を、あなた方の子供達に与えて来ましたか。自分の家庭、その家の中に記念碑を保つ人達は、皆、救われるでしょう。
- 1973年9月7日、聖母
そしてやはり、ここでもこの際、悪の側からの照射も受けよう。
(こうしなければならないのは、本来「残念」なことであるとしても。)
まいど、「イルミナティの極秘指令」から。
- カトリック教会の守護者ミカエルを、ミサ中であるか否かを問わず、すべての祈祷から、完全に削除せよ。ミカエルのすべての像を取り除け。
- 神の母や、聖ヨゼフに対する聖歌を廃止し、プロテスタントの歌に換えよ。それは偶像崇拝であると言え。
- すべての像と天使の絵を取り除け。われわれの敵の像を周囲に置いておく必要が、どこにあるか。
- すべてのラテン語典礼、信心、歌を止めさせよ。それは、神秘と崇敬の気持ちに導くから。
プロテスタントの人達(の一部?)は「偶像崇拝」という語について深く考えないために、「それは偶像崇拝であると言え」と言うイルミナティのお先棒を結果的に(主観的には善意に違いないが)担がされているわけである。
否、残念なのはプロテスタントの人達ばかりではない。ベイサイドの聖母が嘆いている通りである。
本当に、
プロテスタントの人もカトリックの人も、
ご丁寧にも天国と地獄が、それぞれ反対方向から、
一方は愛情と悲しみから、他方はまったき憎しみから、
しかし見事に同じ事を教えてくれているのに、
さっぱり反応しない! (by 管理人)
プロテスタントの人もカトリックの人も、
ご丁寧にも天国と地獄が、それぞれ反対方向から、
一方は愛情と悲しみから、他方はまったき憎しみから、
しかし見事に同じ事を教えてくれているのに、
さっぱり反応しない! (by 管理人)
[管理人注1]
以降、同様の言い回し、「〜する人は、皆、救われるでしょう」が頻出する。
しかし人間というものは、いつも言葉というものを表面的に受け取る。「実際」との絡みでそれを受け取ることが少ない。
たとえば、「カルメルのスカプラリオを身に着け毎日ロザリオを祈る人には救いを保証します」という聖母の言葉があったとしよう。すると、これを見た人はこう考える、「スカプラリオを身に着け毎日ロザリオを祈りさえすれば、他の事はどうあっても、救われるのですか。変ですね」。私は、「おお、人間よ、あなたはどうしてそんなに言葉というものを簡単に受け取るのか」と思う。
まず、あなたがそのような勧めを受け入れ、それに従うということ自体が、あなたにとっては一つの山である筈である。小さくとも ------- あなた自身はよく気づいていないかも知れないが ------- 一つの山である筈である。すなわち、あなたはなかなかそれに同意しない。それに同意し、それを越え、前に進み、実行することをしない。あなたは「そうだ。当り前だ。それが私の意志なんだから」と言うだろう。しかしとにかく、理由の如何を問わず、それはなかなか起こらない。
しかしそもそも、こういうことは「やってみなければ分からない」的なところがあるのである。人はそれをやりもしないうちからその効果を「知る」ことはできない。あなたは、自分がカルメルのスカプラリオを身に着け毎日忠実にロザリオを祈り続ければ自分がどうなるか、自分の霊魂にどんな影響を受けるかについて、それを実行するまでは「知る」ことはできないのである。------- これは「実際的」な問題、そして事柄なのだ。
「家に聖像を持ちつづける人は、皆、救われます」という言葉にしても同じである。そう簡単なことではない。一人の人がある宗教を信じ、聖像を持つことに同意し、聖品を売っている店に足を運び(あるいは今時ならその世界のネット・ショップを覗き)、数多くある聖像から良いと思うものを選び、買い、家のどこかの部屋に設置する ------- という過程は、実際はなかなか一人の人の人生の上に実現するものではないのである。そうして、そのようなことが自分の人生に実現していない人が、それに従ってみた時の効果をあらかじめ「知る」などということはできない。勝手な「想像」ができるだけである。
だから、ただ言葉の表面を見てブツクサ言い、自らは体験しようともしていない事を「変ですね」などと即断するのは、大いに間違っている。
[管理人注2]
現代の多くの親は言う筈である、「それは悪く言えば子供達への『洗脳』である、『擦り込み』である。それでは子供達が可哀想だ。子供達は親の造形物ではない。人格を持った一個の人間なのだ。彼らには自由があるべきである。自分の道に関する選択権がある筈である」と。
私はここではこれについて深い議論をするつもりはない。ただ、一つのことを指摘させてもらう。それは、「子供達は放っておかれても ------- 人はそれを『自由』な状態と言うかも知れない ------- 常に世間から、社会から、好むと好まざるとに関わらず、洗脳と言えば洗脳、擦り込みと言えば擦り込みを、実際受けるのである」と。子供は「開いた窓」のようなものである。あなたが親として少し積極的にその窓に善いものを提供しなければ、あなたに代わって「自由な社会」が別のものを提供するだけの話である。
特に「視覚効果」というものが人間の霊魂に与える影響を過小評価することはできない。大人だって日々日常的に、それを通して、言ってみれば「擦り込み」をされているのである。