2010年12月14日

スウェデンボルグは信ずべきものではない


ついでにスウェデンボルグ (Emanuel Swedenborg) について少し

彼はフリーメーソンだったという噂のある人である。が、それは「確認」はされていないのだろう。

私は彼については少しも研究していない。ただ、古本屋で『霊界日記』(角川文庫)という本を買ったことがあるだけである。彼の日記からの抜粋を集めたものである。その中に以下のような記述がある。


聖パウロに関して

パウロは使徒たちのなかでも最悪の者たちのあいだにいるが、このことを私は十分な経験によって知っている。福音を宣べ伝える以前に彼が捉えられていた自己愛が、そののちも彼のもとに残っていた。そののちの大半の時期もそうした状態にいたため、彼は自己愛と自分の本性とに駆り立てられて、騒乱の場にいようと願っていた。天界の最大の者になってイスラエルの部族をさばこうという目的から、彼はあらゆることを行なった。彼がそののちもそうした状態に留まっていたことは、非常に多くの経験から明らかだ。なぜなら、私はほかの者よりもっと多く彼と語りあったからである。実に彼はそうした者であるため、他生のほかの使徒たちは彼を仲間に入れることを拒み、彼を自分たちの一員と、もはや見なしていない。

私はそのことを、また以下の事実からも知っている。すなわち、彼はあらゆるものを支配しようとしている最悪の霊の一味のひとりと連合して、みずからの目的の達成のためにこの悪霊と誓約した。ほかにも多くのことがあるが、それを述べれば、あまりに退屈なものとなろう。パウロについて私が知っていることをことごとく述べるなら、何ページにもなるであろう。彼が〔「新約聖書」の〕「使徒書簡」を書いたことは、彼の内面もそれにふさわしい者だったという証明にはならない。なぜなら、敬虔でない者でも良い説教をし、「使徒書簡」を書くことができるからである。話したり書いたりすることと、その人間がどういう人間かということとは別なことである。このことはまた彼に〔天界から〕話された。さらに、彼はその「書簡」の中で、主が教えたことの一言も述べていないし、主のたとえ話の一つさえも引用していない。したがって、彼は主の生涯や主の説教から何も受け入れていない。このことも彼に話された。しかし「福音書」の中には福音そのものが存在するのである。

(151-152頁)


彼の「論拠」の全てはこうである。
私は十分な経験によって知っているから。
私はほかの者よりもっと多く彼と語りあったから。
彼について私が知っていることをことごとく述べるなら何ページにもなるほど、私は彼のことを知っているから。
私にはそれらのことを見ることが許されているから。

> 実に彼はそうした者であるため、
> 他生のほかの使徒たちは彼を仲間に入れることを拒み、
> 彼を自分たちの一員と、もはや見なしていない。

そもそも或る霊が何処にその身を置くかは天主様の定め給うところであって、「仲間の霊達がその霊を好むかどうか、仲間として認めるかどうか」なんて問題にもならないんじゃないですか? あなたの口振りじゃ、あたかも悪い霊もある程度自由に善い霊達の居る場所に出入りできるようではありませんか。

しかし彼は、他の箇所でこうも言っている。
霊も天使も、その資質、性質、状態に応じて自分に割り当てられた場所以外の場所に、どんな程度においても、また一瞬たりとも、いることはできないことが観察された。この割りあては一点の誤りもないほど精確なものであり、これは主の秘義に属している。
(24頁)
が、また同時に、他の箇所ではこうも言っている。
時おり ------- と言っても、かなり再三にわたり、ずるく立ちまわって天界へ、つまり天使たちとの交わりの中へ巧みに入り込むことが悪霊たちに許されている。というのは、そうすることで彼らは天界にいるからであり、また天界は分離した場所ではなく、天界にふさわしい資質や知性を身に帯びた社会だからである。内的な天界の天使たちがある種の状態におかれているあいだ、悪霊たちは善良さを模倣することによって、また天使であるふりをすることによって、時おり天界へ入れられる。天使たちは自由に彼らを受け入れる。しかし悪霊たち〔の本来の性質〕が発見される ------- これは彼らの不一致から生じる ------- と、彼らは天界から投げ出される。
(97-98頁)
世迷い言ですな。

> 彼が〔「新約聖書」の〕「使徒書簡」を書いたことは、
> 彼の内面もそれにふさわしい者だったという証明にはならない。

その逆のことの証明にもならない。

> なぜなら、敬虔でない者でも良い説教をし、
> 「使徒書簡」を書くことができるからである。

そして、敬虔な者は勿論、良い説教をし「使徒書簡」を書くことができる。

> 彼はその「書簡」の中で、主が教えたことの一言も述べていないし、
> 主のたとえ話の一つさえも引用していない。

それはあなたの「読み方」が浅いんじゃないですか?

そして私は、私が個人的に信ずる「ベイサイドの預言」の中に何度か聖パウロが登場することを申し述べておく。そこにおいては、勿論、彼は完全に天国の秩序に合致した聖人の中の聖人である!


聖母に関して

主〔イエス・キリスト〕の母であったマリアが見られた。彼女はやや背後に白衣を着て現われたが、ほとんど話さなかった。ただ、主について、こう語った。

「今、私は彼を神として拝しております。彼は私から生まれましたが、彼は神となられ、母親から受け継いだ人間性をすべて脱ぎ捨てました」

彼女は、主にあってはあらゆるものが神的であるという理由から、誰かが主を自分の息子と認めることに、真っ向から反対した

(163頁)


まず、ローマ・カトリックの信仰と秩序に従っていないあなたのところに聖母がお現われになることはありません。

聖母はイエズス様に関して「彼は神となられ」という言い方をなさることはありません。何故なら、イエズス様は最初から神であり、聖母もその事をよくご存知だったからです。

また、イエズス様は「母親から受け継いだ人間性」を単純に捨てたりはなさらないでしょう。それはイエズス様にとっても貴重なものであるはずです。

> 彼女は(…)誰かが主を自分の息子と認めることに、
> 真っ向から反対した。

おかしいですねぇ。聖母はベイサイドの預言ではいつも「私の御子 (My Son)」という言い方をなさいますし、おそらく他の私的啓示においてもそうですよ。

スウェデンボルグさん、誰か他の霊を「聖母マリア」と勘違いなさったのではありませんか?w