2010年12月29日

偶像崇拝 4

出エジプト記

第32章
1モイゼがなかなか山からおりてこないのをみた民は、アアロンをとりかこんで、「われわれの先頭をあゆんでくれる神をひとり、作ってください! あのモイゼ、われわれをエジプトの地からみちびきだしたあの男は、どうなったか、われわれにはわからないのだから!」といった。2アアロンは答えた、「あなたたちの妻、むすこ、むすめたちの耳につるしてある金の環をはずして、私のところにもってきなさい」。
3そこで人々はみな、金の環を耳からとりはずして、アアロンのところにもっていくと、4アアロンは、かれらの手からそれをうけとり、鋳型のなかにとかして、鋳物の小牛をつくったが、人々は、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの地からみちびきだした神である!」といった。

何故「小牛」だったのか。
雄牛を崇拝する信仰自体は古代世界では決して珍しいものではなく、例えばメンフィスでは豊穣の神、聖牛アピスを守護神として奉っていた。サカーラにある王家の墓では、地下に埋葬された石棺の中から防腐処置を施された約60頭もの雄牛が発見されている。その各々が生神として扮せられており、傍らには双子の処女が殉葬されていた。こういった風土での信仰が金の子牛のインスピレーションの源泉となったことは容易に察せられよう。 Wikipedia「金の小牛
そうなんだろうと思う。つまり、まったく何も無いところから「神」のイメージとして「牛」を選ぶなどということは、いくら古代の人達でもあり得なかっただろう。やはり先行する異教の伝統における神のイメージが、少なくとも「頭のどこか」にあって、それがその際に浮かび上がって来たものだろう。またそれは、おそらく、民の心が悪霊によって干渉され、誘導され、そのように発想してしまったということでもあるだろう。


前々回と多少重複するが、もう一度。

旧約のその時代においては、神のイメージを造形しようと思っても、神が形を取られたことはなかったから、造形しようにもそのしようがなかった。
だから、無理に造ろうとすれば、「神ならぬもの」の造形になる他はなかった(上のように)。
だから、天主様としては、御自分の民に異教神信仰を厳禁しようとすれば、また邪霊のつけいる隙から御自分の民を護ろうとすれば、「とにかくいかなる像も造ってはならぬ」と命じるのが、手っ取り早いというか、最も効果的で、直截的で、分かり易かろうと思われたのであろう。

けれども、新約の時代においては、神はある意味で形を取られたのである。
つまり、「イエス・キリスト」において。
そして、「イエス・キリスト」は正しい神であるから、そのイメージを造形しても「偶像」とはなりようがなく、また邪霊につけいる隙を与えることにもならないと私は思うが、どうだろう。

少し「実際的」に考えてみよう。
どなたか、カトリック教会が、謂われる所の「カトリックの偶像崇拝」によって、「悪しき実」を実らせているのを見た人はいますか?
え? カトリック聖職者の性的スキャンダル? 「偶像崇拝なんかしているからそんなことになるのよ」ですって?
でも、果して、それらの事態が「カトリックの偶像崇拝のせい」と見るあなたの「連関見ぃ」は確かですか?


私としての第一の解答は、前回も言ったが、これである。
その像が正しい信仰対象あるいは崇敬対象を表わしており、それを指しており、それに向かっており、且つ、それに手を合わせる人が「これは本来物質であり、ただそれら対象の形見である」と理性によって了解していさえすれば、像を仰ぐことも、像に手を合わせることも、何の問題もないものである。
しかし、人々はこんな言い方をしたりする。
「彼らは像を信仰対象にしている」
私は驚いてこう言う。
何だって? 「信仰対象」に? ノー、そんな事は「できない」。
たとえ誰かに強要されようと、たとえ命をカタに脅されようと、そんな事は「できない」。しようと思っても、「できない」。
I CANNOT do such a thing.
何故か? ------- 私の「理性」がそれを許さないからだ

勿論、私が特別に立派な「理性」を持っているからではない。全然違う。
私だろうと、誰だろうと、相当おかしな人でない限り、カトリック信者にはそんな事は「できない」のである。「像を信仰対象にする」などということは。

あなたは人間の心を知らないのか? ◎◎信者だというだけで、自分の隣人がそんなに常軌を逸した人間だと思うのか?

あなたは実際のカトリック信者の心をどれほど知っているのか?
そして、聖母マリアの御像がこれまでどんな「悪い事」をしたのかね。
信仰者のこのような行為、このような姿勢が、
いったい世界にどんな「悪」を為したのかね。
いったいどんな「害悪」を流したというのかね。
「妄想」じみたことを思っているのは、むしろあなた方の方ではないのか?

マリア様の御頭に冠は載ってるわで、そりゃ、ハタから見て「女神扱い」に見えるというのは、私にも分かる。けれども、とにかく私達カトリック教徒の内面においては、「イエズス様に向かう心」と「マリア様に向かう心」はハッキリと違っている。We worship the Son and honour the Mother Most Blessed.
私達は理性によって「イエズス様は天主であり、聖母は被造物である」と知っている。------- ここからどんな「悪」が出て来るというのか?

あなたが、カトリックの別の要素が世界に悪を為しているのだと考えるならば、それはそれで、また別の話である。しかしとにかく、「混然とした印象」でモノを見ることは避けた方がいいと思う。アレもコレも「ゴッチャ」にしつつモノを見てないか? そうだとしたら、それは少しも「見る」ということではない。


そう。おそらく人々は、物事を混然とした印象で受け取っている。
たとえば、カトリックの誤解されて謂われる所の「偶像崇拝」を嫌う人は、同時にカトリックの含む「権威」「ヒエラルキー」のことも嫌うことが実に多いようである。悪くすれば、人はその中に下のもの(写真)と似たようなものをさえ「感じる」のである。
しかし、「権威」それ自体、「ヒエラルキー」それ自体には罪はない。もしそれら自体が悪いというのなら、今直ぐ自衛隊からもそれらを取り払うべきである。
(しかし人間は「それ自体」ということを考えることが苦手なのである。ほとんど常に「イメージの連なり」の中で生きている。)

そして、もし天国にも「権威」やら「ヒエラルキー」やらがあったなら、あなたはどうするのか? 「いや、結構です」と言って出て行くのか?
私の観察するところ、天主様は確かにある種の「権威」である。もちろん「愛」でもあるけれど、同時に「裁き」を行なうお方でもある。「宇宙法則」などではなく「御人格」である。「権威」である。
これが真実だとして、真実だった時に、ではあなたは「いや、権威的なのは嫌いです。結構です」と言って離れるのか? 「神」から?
それは狂気の沙汰である。

「権威」にも「秩序」にも善性のものと悪性のものがあるということである。
両者は確かに、「権威」である限り、「秩序」である限り、外形上似ているところがあるかも知れない。しかし、同じではない。


そして第二の解答。それは、毎度毎度で申し訳ないが、「ベイサイドの預言」の中に存在する。「ベイサイドが言っているから」ではなく、私には、ベイサイドの言っている事が最も自然で分かり易く、そして正しいと思える。

第一の解答は、
像は「形見」であることを「理性」によって了解していさえすれば、それに手を合わせることに何の問題も悪もない。
いうことであった。

第二の解答は、こうである。
「必要な弁えがありさえすればそれは問題ない」ということを超えて、それは必要である。ほとんど絶対的に必要、不可欠である。
信者の家に、そして勿論教会に、それを置くのが天の意向、天主様の御意向、御旨である。
それは「理解され、許される」べきものではない。全く違う。反対に、それを置かないことこそが、天の御旨に沿わないことである。
多くの人は驚くだろう。私がとんでもないことを言っていると思うだろう。が、それが真実である。私は「保証」する。

キリスト者は、プロテスタントであれカトリックであれ、いわゆる「教理」というもので「頭カッチンカッチン」の傾向がある。けれど、何事も柔らか頭で、そして「自分の頭」で考え、そして「心」で探ってみるべきである。
教理ばかりでなく、物事を「実際的」に「観察」し「探る」ことも必要である。
言葉を超えて、言葉以前に、直接モノを見よ、深く見極めよ、というところである。人間としての「心のひだ」が深くなければならない。(偉そう。ごめん)


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