出エジプト記
第20章
1そのとき神は、次のことばをおおせられた、
2「あなたをエジプトの地から、どれいの家からみちびきだしたあなたの神である主は、私だ。
3私以外の、どんなものも、神とするな。
4自分のために、なんの彫刻した偶像も、つくるな、上は天に、下は地に、地の下は水のなかにあるものの、どんなかたちのものも。5それらの前にひざまずくことも、崇敬をしめすこともするな。私は、ねたみ深い神で(…)
第25章
8私がかれらのあいだに住めるような聖所をつくりなさい。9それをつくるには、私があなたに示そうとしている幕屋と設備との模型にならって、正確につくりなさい。(…)
17あなたは、純金の『あがないの場』をつくりなさい。長さは、二キュビット半、はばは、一キュビット半。18あがないの場の両方に、槌で打った二つのケルビムを作りなさい。19第一のケルビムを、このはしに、第二のケルビムを、あのはしにつくりなさい。ケルビムが、あがないの場の両方に、しっかりと付けられて、それと一体となるようにつくりなさい。20ケルビムは、つばさを高くのべて、そのつばさで、あがないの場をおおい、かれらの顔は、たがいに向きあって、あがないの場に向けなさい。(…)
第26章
1あなたは、幕屋を、十の幕でつくりなさい。その〔十の〕幕は、よりいとの麻、むらさきや紅のぬの、緋いろぬのでつくり、ケルビムをその上に織りだすこと ------- それは、たくみな機織人にまかせるしごとである。(…)」
私は、プロテスタントの人達とこの「偶像崇拝」というものについてそれほど議論を戦わせたいとは思わない。何故なら、こんなことを言うとカトリックの人達からさえ叩かれそうだが、私は、最終的には、「天主様、お言葉が足りませんでしたね」と思うからである。
「偶像崇拝するな」というのでなく「偶像神崇拝するな」ということであったならどれだけ良かったろうと思わずにいられない。
おそらくその当時、異教徒の間に、そしてイスラエルの民の間にさえ、多くの「偶像神崇拝」があったことだろう。だから当時は「いかなる像も造るな」と言うことがそのまま「どんな偶像神崇拝もするな」と言うことと「かっきりイコール」であったことだろう。この両者の表現の間に、現実的にはいかなる間隙もなかったことだろう。
しかし本来、「何か敬すべきものを形象に表わすこと」それ自体が悪いことである筈がない。それは上の天主様がモーセに命じて作らせたもうた「契約の箱」の上にケルビムがあることからも明らかである。形象あるいは表象それ自体が悪である筈がない。
しかし、多くのクリスチャンは思うのである -----
「悪いと書いてあるから悪いんだ。」
彼らは「なぜ悪いのか」を考えるふうでない。
「考える」ということの余地も必要もない、と主張するかのようである。
私は訊きたい。あなたは本当に、
「何故、偶像崇拝はいけないのか」
という「質問」が存在しなくていいと思っているのか?誤解しないで欲しい。私は「偶像崇拝は良い。構わない。問題とするに足らない」などと言っているのではない。
その「質問」があるべきだ、と言っているのである。
言葉を換えて言えば、次のようになる。
あまりにも多くの人が、話を「偶像崇拝は」とか「偶像崇拝を」と始める。
それがまつがい。決定的なまつがい。初発からのまつがい。
この問題は圧倒的に「偶像崇拝とは」でなければならない。
*
先日プロテスタント系の書店から買って来たクリスマスカードである。
(不正な印刷使用を防ぐために、画像は小さくした)
それは札幌の「北海道クリスチャンセンター」というプロテスタント系の団体の中の書店である。特に「プロテスタント」とは銘打っていないようだが、「あゆみ」というページを見れば、この団体がプロテスタント系であるのは明らかである。それがご覧のように頭に光輪を持ったマリアやヨゼフの姿の入ったクリスマスカードを販売しているのである。「エキュメニズム」なのか?
しかし私は、このようなプロテスタント系書店の状態を「矛盾」とあげつらって責め、カトリック側に勝機・優勢を運びたいわけでも、プロテスタントの信者さん達の間に仲間割れを作りたいわけでも、また、「今やあなた方の書店もこういうものを置いてカトリックに理解を示しているのだから、あなたも…」と誘いたいわけでもない。そんなことは非本質的なことである。そんな心の動きがあるとすれば、それは愚劣なこと、俗なことである。私の頭の中には一切「カトリック」「プロテスタント」という区分け(心理的な区分け)がない。大事なのは「真実」だけである。だから、このような表示によって、それについて「考える」ちょっとしたキッカケになればいいかな、と思っているのみである。
私は「心理的な区分け」においてでなく「即物的な区分け」において呼びかける ------- "プロテスタント" の皆さん、上のようなカードを売っているプロテスタント系書店は「偶像崇拝」という罪を犯しているわけですか? 直接的にそれを犯しているのでなくても間接的にそれに「与して」いるわけですか?
それとも、「エキュメニズム」の範囲内で許されることなのですか?
それとも、そもそも全く問題ないことなのでしょうか?
それとも、「問題ない」を超えて、むしろ「本来あるべき姿」なのでしょうか?
(私自身は、この最後のものに同意しますが。)
「考える」ことが、大事。
もちろんこの「考える」には「感じる」ということも含まれる。宗教云々に限らず、人間の知とは常にそのようなものである。知性だけの「知る」は、本当は無いのである。
*
「感じる」も含めて「考えて」みて。
イエス様のカード
(以下の写真はすべて合成である)
机の上に置いた。
これはまだ「カード」であろうか? 「偶像」ではなく?
それとも、これが既にして「偶像」なのか?
このようなカードが存在すること自体が悪なのか?
それとも、これが既にして「偶像」なのか?
このようなカードが存在すること自体が悪なのか?
壁に貼った。
「時々このカードを眺めてイエス様を思い出すことにしよう」という「意図」がここに明確にある時、「このカードは偶像になった」と見るべきなのか?
プロテスタント教会の礼拝堂の十字架の下に貼ってみた。
「信者は礼拝の時、これを見てイエス様のことを思うだろう」と予想される時(当然予想されるが)、場所が場所であるだけに、一層(完全に?)「このカードは偶像になった」と見るべきなのか?
一言、言わせて欲しい。
「阿呆くさ」
こういうコーサツはかなり阿呆くさいものである。
(私も好きでコーサツしているわけではない。)
問題の本質を捉えそこなっている。
(私も好きでコーサツしているわけではない。)
問題の本質を捉えそこなっている。
「カードのこれらの取り扱いにおいて、人間の心や霊にどれほど『悪い事』が起こるのか?」と質問することが、大事。そう質問して初めて人間にとって何か意味のある質問になる。「偶像崇拝だ!」ではなく、「そこにはどんな実害があるのか?」という質問がなければならない。大して実害も観察されないのにそう叫ぶのは、単なる空疎な掛け声を挙げているのと変わらない。
私はカトリックを防衛したくて理屈をこね「言い訳」を拵えているのではない。上のように実際的に考えて初めて神の言葉の真意を解せると信ずるからである。
神様のご命令だって「実際的」ということと離れてある筈がないじゃないか。
善きクリスマスをお過ごし下さい。