2010年12月31日

黙示録の婦人

アルベルト・ドレクセル教授」において「後日触れる」としていた「黙示録の婦人」について。

1. ドレクセル神父への示現の中で「イエズス」はこう言った。
今の時代は迫害に屈しない信仰告白者達を必要とする時代である! 今の時代は、信仰の聖なる火で燃え盛る霊魂達、世界中の至る所で小羊に従う聖なる教会の生徒達、強く、はっきりしており、純粋であり、多くの生ぬるさ、飽食、怠慢、臆病、腐敗、不毛、欺く者と欺かれる者などの存在にも関わらず、聖なる天使の導きの保護のもと、黙示録の婦人の勝利を見んと馳せ参じる者達を必要としている時代である。(1970年3月6日)

2. そして黙示録はこう言っている。
黙示録12:1-5
また、天に大きなしるしが現われた。一人の女が太陽をまとい、その足の下には月を踏み、その頭には十二の星の冠を戴いていた。この女はみごもっており、子どもが生まれようとしていたので、その苦しみと痛みのために泣き叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現われた。それは、七つの頭と十本の角のある巨大な赤い竜であった。その七つの頭には七つの冠を戴き、その尾で天の星の三分の一を掃き寄せて、それを地上に投げつけた。この竜は、子を産もうとしている女の前に立っていた。子どもが生まれたら、それを喰い尽くすためであった。この女は男の子を産んだ。この子は鉄の杖を持ってすべての国民を治めることになっていた。この子は、神のみもとに、その玉座に引きあげられた。

この「女」についてカトリック信者が何と言うかは、少しキリスト教を知っている人なら先刻承知である。そう、それは聖母マリアのことである。

黙示録の言葉は「象徴的」なものであって、故に「多義的」であろうか? そうかも知れない。事実、この「女」に関しても、「それは教会を指すのだ」という意見が、カトリックの神学者などの間にもあるようである。しかし、私は違うと思う。この場合は、ズバリ、聖母のことであると思う。ドレクセル神父への示現の中の「イエズス」が言うように、「黙示録の婦人 = 聖母」であると。

その通りに、古来からカトリック絵画は、以下のように聖母を描いている。聖母は月を踏んだり十二の星の冠を戴いたりしている。















けれども、プロテスタントの人達にはいくらこのような絵画をたくさんお見せしても、「それはカトリックの勝手な解釈に過ぎない」と言われるのがオチであろう。

ではここで、例のやつに行きたい。つまり、人間の精神的な「解釈」とは少し質の違うもの、それとは一線を隔てたもの、このサイトのポリシー(?)であるところの「宗教における第一次的なもの」を見ていきたい。すなわち、誰か今まで、黙示録が言う「太陽をまとい、その足の下には月を踏み、その頭には十二の星の冠を戴いている女」をその目で見、しかもそれが聖母であるという「示し」(示現)を受けた者はあるのだろうか?

これに関して、私は、私が無知なせいかも知れないが、二つの例しか知らない。聖母出現で最も有名なルルドとファチマでも、示現を受けた子供達はそのような形象での聖母は見なかったようである。しかし、二つある。二つでは不足だろうか。それは「不思議のメダイ」と「グァダルーペの聖母」である。

不思議のメダイ
Miraculous Medal

一つは、カトリック信者なら誰でも知っている、非常に有名な示現である、いわゆる「不思議のメダイ」におけるそれである。19世紀の修道女、聖カタリナ・ラブレ (St. Catherine Labouré) に聖母が御出現になり、「不思議のメダイ」の製作と配布を御指示なさったものである。以下、「みこころネット」さんから引用させて頂く。
そして卵の形をした枠が聖母の周りを取り囲んだ。その枠の内側に「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼むわれらのために祈り給え」という金の文字が書かれていた。

カタリナの使命を明らかにする声が聞こえた。
「この型に従ってメダイを刻印させなさい。そのメダイを身につける人は皆大きな恵みを受けるでしょう。メダイは首にかけなければなりません。信頼をもってメダイを身につける人には恵みがたくさんあるでしょう。」
その声が消えると、その絵が反転して裏側が現れた。大きなM字の上に横棒がありその上に十字架が立っている。Mの下には二つの心臓、イエズスの聖心とマリアの御心があった。イエズスの聖心には棘の冠がかむらせられ、マリアの御心は剣で刺し貫かれていた。十二の星が全体を取り巻いていた

つまり、聖母(それが聖母であれば)御自身がそのようにメダイのデザインを事細かに指示されたのである。そうして出来たのがこの「不思議のメダイ」である。

右の裏面の写真に「十二の星」がある。

まあ、正確に言えば、十二の星が取り囲んでいるのはマリアを表わす「M」だけではなく「全体」だが、しかしとにかく、この十二の星が刻印された準秘蹟を人類に与えたのは「聖母マリア」なのである。

このメダイは霊験あらたかなようである。このメダイを身につける者は、聖母が「恵みがたくさんあるでしょう」とおっしゃったように、実際、回心等の多くのお恵みを頂くそうである。これはまた、カトリック教会において「準秘跡」でもある。

今、「霊験あらたか」などという言い方をしたのには、訳がある。私はどうしても、その言い回しを自分の中に持っている人達を、ここで一度牽制しておきたかったw。こう言いたかった。
「神が単に思想の事でなく、現におわすものならば、霊験あらたかなものの一つや二つ、あっちゃいけませんか。」
「霊験」は、悪にとっては「危険」となるようである。
「気をつけろ。メダイについてのその話は、すべて本当のことだ。部屋に置くな。危険を呼ぶぞ。」(参照

グァダルーペの聖母
Our Lady of Guadalupe

彼女は「月を踏んで」いる。

1531年12月12日、メキシコのインディオのマントに浮き出た超自然的な絵ということである。詳しくはやはり「みこころネット」さんの記事を見てください。

次のように考える人も多いだろうと思う。
「この聖母は何故褐色の肌をしているのか。それはカトリック教会が新大陸の先住民たちを改宗させるために彼らと同じ肌の色のマリアをこしらえたからであろう。つまり、この聖母が褐色の肌をしていることこそが、この絵が人造のものであることを証(あかし)している。」
まあ、それはそれとして承っておく。けれども、そのように思う人は、自分がそのような推測のためにこのような事を信じないのではないということにも醒めておく必要がある。そのような人は、聖母が白い肌と青い目を持っていたらいたで、今度は別の推論を立てて信じないのである。心の真相においては、「推測」のために信じないのではなく、ただ初めから心に持っている「結論」のために信じないのである。それぐらいのことはご自分で分かっていてください。


以上の二つが、私がカトリック界に見つけることのできる、「黙示録の婦人 = 聖母」であることを示す「宗教における第一次的なもの」である。