2010年11月22日

宗教における第一次的なもの

さて、こう申し上げる。

「真理探究」においては、各宗各派の「教義」は問題ではない。
「事実」だけが問題である。霊的「事実」だけが。

言葉を換えて言うと、

ある既成宗教の「教義」が価値あるものとすれば、
それは、それが「事実」に合致している時である。

「教義」が先行するのでなく、「事実」が先行する。

当り前のことである。

「事実」に関する探索がなければならない。ある宗教、ある教え、ある教団・教会に対する「信じます」、つまり信頼は、あくまで「最終的」なものでなければならない。


キリスト教に関して、「事実」、霊的「事実」は、どこに見出されるべきものであるか。

聖書の中にか。
けれども、多くの人はこう思うのである、「聖書には、当然、人為が加わっているだろう」と。つまり、聖書は、教会権威が自分達に都合のいいように「事実」を歪曲あるいは捏造した部分も相当にあるであろうと。そう思う人達にとっては、既成宗教の「既成」、あるいは伝統宗教の「伝統」は、即ち「人為」を意味し、組織宗教の「組織」は、即ち「腐敗・堕落」を意味するであろう。彼らは聖書が「聖霊」によってよく護られたものであるという「可能性」については、ほとんど考慮しない。「教会なんて、事実をねじ曲げているに決まっている」と、ほとんど頭から信じて疑わない。そうであるから、彼らの中で霊的な事柄に関心のある者は、必然的に、「既成」「伝統」「組織」などとは成る可く無縁のところに「霊的事実」を捜そうとする。私は、これはある程度致し方ないと思う。

それ故、次のように言えるのではないか。
私達が、食品消費者として、時に第二次産業が産み出した「加工食品」に疑いを持ち、第一次産業の農場に自ら出掛けて行って自分の目で直接ニンジンを調べてみたくなるように、私達は宗教における「第一次的なもの」を調べてみる必要を感じるのである、と。

では、「宗教における第一次的なもの」とは何か。
ある人々にとっては、それは「霊能」「霊言」の類ではないか。マシュー君とか、江原啓之氏とか、シルバー・バーチとか、スピリチュアリズムとか、シャーリー・マクレーンとか、古くは宜保愛子氏とか、そのようなものに人々が目を向けるのは、その為ではないか。彼らはそのような場所に、宗教の第一次的な「資料」を見出す思いがするのである。霊的な「源泉」を感じるのである。私は、カトリック仲間には叱られるかも知れないが、これはある意味もっともなことで、自然なことであると思う。

では、「聖書の記述は、かなりの部分、人為であるに決まっている」と頭から思う人の為に、私はこれから、カトリック界における「霊言」の類を幾つか紹介しようと思う。そういうものが有るからである。多くの人にとってはキリスト教と言えば「聖書」であるが、それしか思い浮かばないのであるが、それは間違いである。「霊言」的なものが有るのである。教会はそれらをあまり表に出したがらない。しかし私は、それではかえって一般の人の霊的探究が進まないという気がするのである。

もっとも、「霊言」などという語を使うと、カトリック仲間からは非難轟々であろう。分かっておる。しかし、ここは少しご容赦頂く。問題は一重にその「内容」であるから。聖書だけでは信じられない人達のために、ある種の検証を始めよう。

私は、シルバーバーチにおける「霊言」とカトリックにおける「霊言」(の類)との擦り合わせを行なおうと思う。

しかし、「カトリック教徒が受けたと称するところの霊言など検討に値しない。それはその者らの脳髄に既に存在したところの教理なり教義などの反映に決まっている」と《断定》する人のことは、まあ、面倒は見切れない。
疑っても良い。けれども、「断定」する人のことまでは、面倒は見切れない。以下は、「彼にも偏見あり、我にも偏見あり」と自覚する人、彼にも疑いを向け我自身にも疑いを向け、真に公平であり真に精細な検証に努めようとする人の為のものである。

もちろん、「精細」とは言っても、相手は目に見えない霊的な事柄であるから、限界がある。故に「精細」とは、ただ私達の意気込み、姿勢のことを示すものとお考え頂きたい。

ついでに言えば、もし私達が、検証の試みの結果、「シルバーバーチは信頼するに値しない」とすることができるならば、必然的に、シルバーバーチからご自身の霊的旅を始められた江原啓之氏や、江原氏の「霊能」を全面的に認め、自らも「霊能者」であるとする美輪明宏氏のことなども、「人間的信頼は別にして、霊的信頼を寄せるには値しない」と言うことができるであろう。


私はここでも「誤解しないでください」と言わなければならない。私は、人間としては、江原氏や美輪氏のことをむしろ好きである。しかし、なおかつ「それはそれ」である。
私のこのサイトは「攻撃サイト」ではない。私がこのような事を言い、行なうのは、むしろ、江原氏の、美輪氏の、西園寺氏の、そして人々の、霊魂がかかっているからである。もし、 西園寺氏ばかりでなく、山川ご夫妻ばかりでなく、江原氏も、美輪氏も、その「霊能」を含めた全てにおいて、「アセンデッドマスターズ」(前回参照)とかいう高知能の悪霊集団にすっかりまるっと騙されているならば、それは気の毒だからである。

私は、「何が本当そうか」という『肯定的な旅』よりも、最も信頼できるものを見出す為に、「信頼し切れないものを捜し、落してゆく」という『否定的な旅』を提案する。言葉を換えて言えば、『消去法の旅』である。「〈何か〉を感じさせるものの中で、信じ切れないものを振り落としてゆき、最後に残ったものが信じられる(かも)」式の旅である。もちろんこの手法にも限界があるが、しかし選択肢が狭まるだけでも意義があると思うのである。

前置きが長くなったが、では、次回から始める。形態としては、単純な比較になる。「単純過ぎる。幾つかの〈解釈〉があり得る」と思う向きも多かろうが、まずは単純に眺める。「判断」を急がずに、まずじっくりと「観察」しよう。