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これは1961年から1965年にかけてスペインのガラバンダルという小村で起こったいわゆる「ガラバンダルの聖母出現」でのもの(写真)である。出現を受けた四人の少女のうちの一人、コンチータ・ゴンザレスに、天使が聖体を授けた場面である。天使はいつもは(この出現が続いていた期間の他の全ての時には)少女たちに人間の目には見ないかたちで聖体を授けていたが、この時に限っては、人々が「見て信じる」ために、一つの「小さな奇跡」として、人間の目に見えるかたちでそれをコンチータに授けたのだった(語尾を「授けたとされる」としようか。どうでもいいか)。何もない空間からホスチアが現われ、コンチータの舌の上に乗っているところが、上の写真である。
しかし、これを見た時の私にとっては、「本当にこのような不可思議な事が起こったのか。何かの勘違いではないのか」、あるいは、「このガラバンダルの聖母出現と言われているものは、天の啓示として真正のものなのか」ということなどは、あまり問題にはならなかった。この写真を見たことで、私は、「カトリック教会には『聖体』という何かとても特別なもの ------- 特別に見られているもの、特別に扱われているもの ------- があるようだぞ」と気づいたのである。それは、私にとってはとても大きな、決定的な気づきだった。
その頃の私は、プロテスタント教会の聖餐式は既に見ていた。
そこでも人々はパンとブドウ酒を受ける。
プロテスタント(バプテスト派)の聖餐式
けれども、それは見たところ、明らかに形式的儀式だった。「形式的」などと言うと、プロテスタントの人達にとっては心外かも知れない。もちろん、それはそれ自体においては(カトリックの同胞のために言うが、私は下線を付した。すなわち限定的表現である)特に悪いというものではなく、キリストの愛と犠牲を想起する「よすが」としては「心ある儀式」にもなり得るだろう。けれども、そこにあるパンはキリストの体を「象徴する」ものであって、それ自体はただの物質であり、そこにあるブドウ酒もキリストの血を「象徴する」ものであって、それ自体はただの物質なのであった。それらはそれら自体、特別に神聖というわけではないのだった。けれども、カトリックにおいてはそうではないようであるのを、私はまずガラバンダルによって知ったのである。(実は記憶が曖昧なのだが、たぶんそういうことだったろうと思う。)
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次いで、カトリックの聖書を購入してみた。
フランシスコ会訳 マタイ 26:26
私は驚いた。こんな説明(小見出し)はプロテスタントの聖書にはなかった。これは明らかに重大事項を示していた。ガラバンダルの世界にあるもの、その中での「聖体」の扱いと一致するものだった。それは重大な事柄であった。
けれども、福音書の本文においては、これに関する特別の記述はない。カトリックの聖書においてさえ、「わたしを記念するためにこれを行ないなさい」とあるのみである。
それが本当に「記念」でしかない行為ならば、むしろプロテスタントの聖餐式の方がしっくり来るわけだが・・・
「記念」
しかし「記念」というけれども、本当にそれがただ「象徴的な記念行事」でしかないものならば、私は ------- 私は実際的な人間だが ------- どうしてもあまりそれを重んじる気にはなれないのだった。「単なる記念でしょ? 言ってみれば形式的儀式でしょ? それ自体特に悪くはないとしても、しかしその目的が『イエス・キリストの御事を想起する』ということであれば、別にこの儀式でなくたって、いわゆる『黙想する』ということでもいいわけでしょ?」と言いたくなるのだった。
そしてこう思った -------「その程度のものを、イエス様はあの厳粛な場で、あのように重々しく(おそらく重々しく)命じられたのだろうか?」
そして、私は私の直観によって、「そうではないだろう」と思った。
一番古いキリスト教会
「考えてみれば、カトリック教会は一番古いキリスト教会だ」と私は思った。
「それ故、キリストの指示なさったもの、あるいは意味なさったもの ------- 言葉の真意であれ、儀式形式であれ ------- が最もよく保存されている可能性のある教会は、カトリック教会ではないか?」
「あり得ることだ」と私は思った。
ペトロ
あなたはペトロである。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。よみの国の門も、これに勝つことはできない。わたしはあなたに天の国のかぎを授けよう。あなたが地上でつなぐものは、天においてもつながれ、あなたが地上で解くものは、天においても解かれるであろう。カトリックの聖書はこの箇所に「首位権の約束」という説明(小見出し)を付している。私の直観にとっては、その説明は自然なものに思えた。このイエス様の言葉は、この先高々数十年しか生きないであろうペトロ個人に与えられるものとしては不自然である。この言葉は、この先遠い未来にまで及ぶ何かの「継続」を意味している。教会のトップの権威の継続、すなわち「教皇」と言われる人間の、否、その地位の権威の継続のことでなくして何だろうか。私の直観は私にそう告げた。
マタイ 16:18-19
神秘事
私は探究者として、宗教に単なる「精神的教え」を求めていたのではなかった。第一に「神の実在」を確かめなければならなかった。「信じます」という主観的な信仰?だけでは足りなかった。私がプロテスタントに物足りなさを感じていたのはそのためだった。何か客観的に把握できるもの、「物証」に近いものが必要だった。つまり、ある種の神秘事、奇跡のようなものがである。神が現実に在ますならば、神が人間の世界に干渉する神秘事の一つや二つ、あって当然である、と私は思っていた。
そして、私はそれを、まずルルド/ファチマの中に「見た」のである(ガラバンダルもそうかも知れないが、しかしガラバンダルは教会によって公認も否認もされていなかった)。私のカトリックに対する確信は、それで固まったと言って良かった。
ルルドの聖女 聖ベルナデッタ
では、あとは御自分自身で「探究」して下さい。(冷たい...w)