2010年11月27日

尊者アグレダのマリアが受けた示現 1

私の長たらしい前置きの次に掲げるのは、カトリックの「尊者アグレダのマリア (María de Ágreda)」が聖母によって見せられたヴィジョン(幻視)を書き留めた『神の神秘的な都市 (The Mystical City of God)』という本の一節である。
もちろん、聖書以上のものではない。が、カトリック教会はこれを「信仰に矛盾しないもの」として認めている。(この本は最近PDF化された。CLICK!

前置き

キリスト教徒というのは「教義的な人達」である。
たとえば、「プロテスタントか、カトリックか」が(他の宗派もあるが)、とても気になる人達である。それが重要と見える。

けれど、私は思う。
以前も書いたけれども、「真理探究」においては、本当は、各宗各派の「教義」は問題ではない。「事実」だけが問題である。霊的「事実」だけが。ある既成宗教の「教義」が価値あるものとすれば、それは、それが「事実」に合致している時である。「教義」が先行するのでなく、「事実」が先行する。「事実」に関する探索がなければならない。ある宗教、ある教え、ある教団・教会に対する「信じます」、つまり信頼は、あくまで「最終的」なものでなければならない。当り前である。

「事実」が探られなければならない。赤子の目をもって。
けれども、私達の目はあまりに「理屈」に汚されてしまっている。私達はあまりに過去に学んで来たものの「蓄積」を通して対象を見る。対象を見ているようでありながら、実はその「蓄積」を通して、いわば対象を「翻案」しつつ見る。現在そこにあるものをそのまま見るのではなく、必ず自分の「過去」を通して見る。つまり「記憶」を通して。記憶の中の「構造物」を通して。そして、多くの人には、それが悪いこと、私達の目を「曇らせる」ものであることが分からない。

しかし、そこを何とかして欲しい。これを読む時、なるべく「理屈」で汚されていない目を回復しつつ(私達だって旅の最初の頃はそのような目を持っていた筈だ)読んで欲しい。過去に学んで来たもの、今自分の脳の中に「蓄積」されているものを一時脇に片付けて、読んで欲しい。大丈夫、健忘症にでもならない限り、後でなんぼでも取り返せるから。心をなるべく白紙にして、赤子の如きものにして、読んで欲しい。

プロテスタントの人達は、もしそのような「赤子の目」が一時的にでも回復されていなければ、この示現が含むカトリック的要素 -------「聖母」「祭壇」「秘跡」「権能的司祭」------- を見て、直ぐに「カトリック」と思うことだろう。おそらく殆ど「自動的」に抵抗を覚えることだろう。しかし、もう一度言うが、何度でも言うが、これは「事実」の問題なんだ。「カトリック」云々ではなく、「プロテスタント」云々ではなく、「事実」の問題だ。「これは何だ? 事実か?」ということ、それだけが大事だ。そういうプリミティブな、原初的な目を持つことが、意外と大事だ。

それに、人はこういうのを読んで直ぐに「カトリックだ、カトリックだ」と言うけれど、私の理解に従えば、これは「カトリックの宣伝」ではなく「カトリック教徒を教えるため」のものなんだ。「対外的」なものではなく「対内的」なものなんだ。勿論、人類一般に教えるものでもあるだろうけれども、しかし先ずは、第一には、「カトリック教徒を教えるため」のものなんだ。カトリックの示現というのは、どれもだいたいそのようなものだ。プロテスタントの人達を嫌がらせるためではなくw、「カトリック教徒を教えるため」のものなんだ。

何故か?
カトリック教徒自身が「分かっていない」からだよ!

カトリック教徒は(私も含めて)霊的な「事実」、天的な「事実」を、聖書や教理を通して言葉では教えられてはいても、そしてそれを一応は「信じて」はいても、事はなにぶん非常に霊的・神秘的・超自然的なことなので、普通人間には想像すらつかないことなので(これを分かれというのが可哀想になるくらいに!)、本当には分かっていない、本当には「理解が及んで」いないからだ。「全然」と言っていいくらいに。(もちろん私も含めて。)

だから、間違っちゃいけない。人はたとえば「聖体」と聞いて直ぐに「カトリック!」と思うだろうけれど、カトリック教徒自身がその「御聖体」の何たるやを「分かっていない」んだ。神秘的なこと霊的なこと超自然的なことが「よく分からない」という点では、実はカトリック教徒も一般の人達とそうは変わらないのさ。中には「聖変化」を大して信じていない者もいるだろう。だから、天国が、福音書に追加し、教理に追加して、いろいろと教えてくるわけだ。

「福音書は足りない。それには不足がある」というわけじゃない。そうじゃない、決して。しかし天国としては、人類があまりに「分からんちん」なので、いわば「実際上の必要」のもとに、いろいろと教える必要に「駆られる」んだ。追加的に教える必要に。何故なら、天国は人類の行く末を心配しているからだ(まあ、マシュー君もそうだろうけどねw)。それが福音書から後の時代における天国からの干渉・介入、つまり啓示・預言の類の意味だよ。(もちろん、中には偽物のものもあるけど。見分けなくちゃならないけど。)

まあ、以上すべて、「私の理解に従えば」の話ではあるけれど。

しかし以上により、『神の神秘的な都市』を読む時も(読むとは限らないよね。読んでくれたらありがとう!)、「対象」(本の内容)のことだけではなく、是非、自分の「目」のことも、少し気にして欲しいんだ。

書き過ぎた。ページを改める。
そして、『神の神秘的な都市』のアップは明日にする。ごめん。