2010年11月10日

トーリ・エイモス 6

さて、前回「魔女狩り」なんていう言葉が出ましたが、今回のこの記事は、宗教に未だ真の関心を持てないでいる人の目に(私も昔はそれを持てないでいたわけですが)、それこそ「魔女狩り」のように映るかも知れません。
でも、自分としては、ただ「事実」を確認するためのつもりのものであります。

トーリと薔薇十字

トーリ・エイモスはシャーマンと一緒にドラッグをやる人である

まず、「トーリ・エイモス 3」に一箇所訂正有り。恥。

さて、その訂正箇所と同じ事柄について、つまり、トーリが「経験した」と認めた「エクスタシー旅行の中でのルシファーとの48時間の熱い情事」について、トーリは別の場所で次のように言っている。
I was taking drugs with a South American shaman and I really did visit the Devil and I had a journey.
私は一人の南アメリカのシャーマンと一緒にドラッグをやっていて、その時に本当にデビルを訪問し、そして旅をしたのです。


結局、トーリもまた、ドラッグ(合法か非合法かは問題ではない)をやりながら何か "ある種の境地" に入ろうとするその種の人達 ------- ビートルズ以来のその種の路線にある人達 ------- の一人だということだろう。


トーリ・エイモスはグノーシス主義者である

Good Fight Ministries とローズの会話(「トーリ・エイモス 4」)にもあったように、トーリはグノーシス主義者である。推測ではない。自分で明言している。

あるインタビュー記事から
Q :  You're not welcome in Catholic countries.
あなたはカトリック諸国では歓迎されませんよね。

T :  But I'm not a Catholic, I am a Gnostic.
でも、私はカトリック教徒ではありません。グノーシス主義者です。


とは言っても、多くの日本人にとっては「グノーシス主義? 何それ?」であるか、「グノーシスも一つの考え方でしょ。キリスト教はただ、それが自分たちの教義と合わないというで反対しているだけでしょ」と思うだけだろう。


Joseph Campbell


上のインタビュー記事をもう少し続けてみると、トーリの口から Joseph Campbell (Wikipedia) という人の名が出て来る。トーリが傾倒している人である。
Q :  You're not welcome in Catholic countries.
あなたはカトリック諸国では歓迎されませんよね。

T :  But I'm not a Catholic, I am a Gnostic. In early Christianity, I would have followed the Gnostic direction. But I live today and therefore I believe in the power of the myths, in what Joseph Campbell called “the power of the myths”. In American schools you won’t learn much about these myths.
でも、私はカトリック教徒ではありません。グノーシス主義者です。キリスト教の初期の時代ならば、私はグノーシス派の指導に従っていたことでしょう。しかし、私は現代に生きています。それで、私は神話の力を信じています。ジョセフ・キャンベル言うところの「神話の力」を。しかし、アメリカの学校では、それらの神話についてはあまり学びませんよね。


Joseph Campbell という人は、映画『スターウォーズ』でジョージ・ルーカスに多大な影響を与えた人として、また『神話の力 The Power of Myth』という本の著者として、日本でも若干知られている人らしい。では、どんな考えを持った人なのだろうか。

彼についての或る記事の中に、私は私にとって懐かしいところの言い回しを見た。著書『神話の力』からの引用だそうである。
キャンベル:私が一般論として学生たちに言うのは、「自分の至福を追求しなさい」ということです。自分にとっての無上の喜びを見つけ、恐れずにそれについて行くことです。(…)

モイヤーズ:そう考えてくると、私たちは(…)世界を救う旅路ではなく、自分を救う旅に出かけるんですね。

キャンベル:しかし、そうすることであなたは世界を救うことになります。いきいきとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地がありません。生気のない世界は荒れ野です。人々は、物事を動かしたり、制度を変えたり、指導者を選んだり、そういうことで世界を救えると考えている。ノー、違うんです! 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです。


「懐かしい」というのは、私も昔、幾つかのニューエイジ思想に接していたからである。その一つは Osho、バグワン・シュリ・ラジニーシであった。Joseph Campbell の上の言葉は、Osho の言い回しをどれほど彷彿させることか!

Osho
福音書には「実を見て木を判断せよ」という言葉があるが、彼と彼の教団の堕落ぶりは、脱会した彼の弟子の一人が書いた「ラジニーシ・堕ちた神 --- 多国籍新宗教のバビロン」に詳しい。

しかし、結論的に言ってしまうが、これらは勿論、反キリストの勢力である。あるいはこう言おう。これらは勿論、反キリストの勢力をその源泉(幽現の別なく)に持つものである。

日本においても、そして欧米においてさえ、上のような言葉(Joseph Campbell の、あるいは同様の Osho の)は、大抵、善いもの、人間を励ますものとしか思われないが、しかしはっきり言う、彼、あるいは彼らは、False Prophet、あるいは False Teacher である。


Joseph Campbell や Osho などのそのような主張が間違っていることを、私達はどのように確信できるのだろうか。それは、カトリックで「聖人」と呼ばれている人達の生涯をよく調べることによって、である。私としてはそう申し上げたい。カトリックを信じていない人でも、それを調べることはできる。

彼らの生涯の中には、しばしば、神からの、聖母からの、あるいは天使からのとされる「示現」がある。そこには、それ自身が言うところの「天が人間に求めていること」が明示されている。

そして、それを読めば、それが本物(真理)であるか否かは一時脇に置いても、それが私達に求めている事とニューエイジ思想が私達に勧めている事が正反対であることが、はっきりと、且つ容易に「分かる」のである。つまり、それらの示現が、私達に、ニューエイジ的な「ハッピーな生き方」などは勧めても求めてもいないということが、はっきりと、容易に分かるのである。

それら示現は、聖人たちに、あるいは聖人たちを通して私達に、「祈れ。犠牲をせよ」と言い、時には「苦しみの価値」を強調する。そして勿論、福音書と声を揃え、「己れを捨て、己が十字架を取って主に倣え」と言う。
「自分の至福追求が一番! それをすれば全てがうまく行く」などという声は、そこには一切ない。
それ故、それら二つの思想、それら二つの道は、相容れない

だから、それら二つのどちらが「本物」であり「真理」であるかは別にしても、私達は次のように言うことができる。
A が本物であれば、B は本物ではない。B が真理であれば、A は真理ではない。
「その両者はただ "力点の置き方" が違っているに過ぎない」と言う人がいるならば、その人は目の見えない人である。

では、どちらが本物(真理)なのだろう。もちろん、この問いに「証明」や「証拠」はない。このような事柄は「探究」の分野であったり「恵み」の問題だったりする。けれども、もし私達がそれら聖人たちの生涯に「真理の輝き」を感じ、また天からのそのような声に「天からのもの」としての「真正さ」を感じることができるならば、従ってニューエイジ思想の偽(ニセ)なることをよく感じることができる、ということになるのである。

「示現」などというものはそれを受けたと称する者自身の無意識(潜在意識)の反映であり得る、と言うのだろうか。確かに。しかし、その疑問を解消するために役立つものが、一つある。それは、回心の恵みや超自然的な治癒等の「奇跡」である。
「声の真実さ」に「奇跡の真実さ」が伴えば、その出来事の真実さは私達の心の中で増大するだろう。そしてその時、私達は「真理の在処」を見つけるだろう。

私はまず、ルルド/ファチマをよくお調べになることをお勧めする。
【概要】 ルルド ファチマ

しかし、ちなみに嘆けば、この世の闇の部分に関して眼識のある小石泉牧師でさえ、ルルド/ファチマをよく調べない、よく見ない。
理由はもちろん色々あるのだろうが、一つは「ルルド/ファチマには聖母が出て来るから」なのではあるまいか。それで、そこでどんなに奇跡が起きようと、どんなに超自然的治癒が起きようと、検討しない、検討できない、検討したくない、検討する必要を感じない、ということになるのではあるまいか。
神の神秘力が働く場所には聖母マリアなどは「居てはならない」というわけであろうか。
おお、しかしそれら示現を虚心坦懐に読まれたし! 神は神秘である。そして人間は、神秘の前にはもう少し頭(ず)を低くしていなければならない。