2010年12月1日

アルベルト・ドレクセル教授

以下は、オーストリアのカトリック司祭、アルベルト・ドレクセル教授 (Albert Drexel, 1889 - 1977) が「イエズス・キリスト」から受けた(と称する)示現を書き留めた『信仰は従順より重要である(英 Faith Is Greater Than Obedience、独 DER GLAUBE ist mehr als GEHORSAM)』という本からの抜粋である。(日本語では本になったことはない。)

お若い頃晩年

今、カトリック教徒自身がわざわざ「と称する」と付加したのであるから、あなたも出来るだけ偏りのない目で読んで頂きたい。

カトリック教会自身は、この示現を公認も非公認もしていない。

今回もまた、「シルバーバーチ」や「マシュー君」が言っている事を念頭に置きながら読んで頂きたい。

私はこれをカトリック信仰の宣伝のためにするのではない。その手前のことである。もし「シルバーバーチ」や「マシュー君」が "嘘" を言っているなら、それらを信じるということは「悪霊について行く」ということになるからである。
(「シルバーバーチ」や「マシュー君」を人造、つまり人の手になるものではないかと思う人も多いようである。「マシュー君はイルミナティ側の作文ではないか」と。また、私が紹介しているカトリックの示現にしても同様である。「それらはカトリックの伝統主義派の作文ではないか」と。だが、私から見れば、これらは確かに「霊」からのものである。「霊」は在り、それからの通信も在るからである。)

ドレクセル神父は言語学や人類学の素晴らしい学者(教授)であられたようである。普通に考えれば、迷信深いタイプの人ではないだろう。

私は文中少し「管理人注」を付け過ぎたようである。過剰である。が、もったいないから消さない。カトリック教徒でない人は飛ばして読んでもらいたい。

1970年3月6日

私は、あなたがまだ若干の仕事、時間を必要とする仕事をしなければならないとあなたに話さなかっただろうか?

最初の仕事は、あなたが引き受けた仕事である。即ち、わが童貞母マリアを称揚することである。わが天の御父の摂理により、あなたは、天地の女王の特別の愛という価値ある援助者を得たのである。

あなたがこの特別の本のための適切な装丁を探すのに忙しかったことも私を喜ばせた。私はこの仕事(アグレダのマリアによる『神の神秘的な都市』の改訂版)に、その増大する配布に、そしてわが一にして真なる教会の信者達へのその効果に、祝福を与える。

管理人注: 前回皆さんにお見せした『神の神秘的な都市』のことを、この「イエズス」は「特別な本」と呼び、その配布に祝福を与えると言っているのである。ここに一つの「一致」がある。私はこの「連関と一致を探す旅」の中で、後日、別の霊的通信もまたこの本を高く評価していることをあなたに見せる。そこでもう一つの「一致」をお見せすることになる。そして私は言う。たいていの皆さんは「イエス・キリスト」と言えば聖書しか知らない。けれど、もしこれらの互いに一致する声が本当に真の天国からの通信だったら? それを聞くことは私達にとって素晴らしいことのはずだ。そして皆さんは「シルバーバーチ」や「マシュー君」などが提示する何かそれに似たもの(大光明霊団?)の声と私が紹介するそれらの声とを比較検討することができる。どちらが本当の天国からの声なのかと。どちらが「イエス・キリスト」の真の意向を伝えて来ているのかと。

厳しい試練がわが教会を襲っている。しかし私はローマのわが可視的代表者を強め、それを司教達に対してさえ知恵と堅固さで武装させる。

司祭達ばかりでなく司教達も、彼らの任務に関する違反や怠惰によって、時代の精神の影響下に入るであろう。彼らは聖なる使徒ペトロの後継者にのみ属している権限と同等のものを手に入れようとしている。

それ故、男も女も、不屈且つ冷静に戦い、祈ることが必要である。防衛し、信仰を堅く保ち、犠牲をし、そしてそのようにしながら、信者達の中で、また人々の中で、望み、信仰、そして信頼を維持しなければならない。私は正義のために迫害を忍ぶ祝福された者達を称讃しなかっただろうか?(マタイ 5:10) 私は言わなかっただろうか? 人々の前で私の味方だと宣言する者を、私もまた、天におられるわが父の前で、私はその者の味方だと宣言すると。(マタイ 10:32)

今の時代は迫害に屈しない信仰告白者達を必要とする時代である! 今の時代は、信仰の聖なる火で燃え盛る霊魂達、世界中の至る所で小羊に従う聖なる教会の生徒達、強く、はっきりしており、純粋であり、多くの生ぬるさ、飽食、怠慢、臆病、腐敗、不毛、欺く者と欺かれる者などの存在にも関わらず、聖なる天使の導きの保護のもと、黙示録の婦人の勝利を見んと馳せ参じる者達を必要としている時代である。

管理人注: 「今の時代」とは、もちろん私達の今現在も含まれるだろうけれども、しかしこの示現が1970年のものであることを考えれば、特に「第二バチカン公会議」との絡みで言われたことであるだろう。「黙示録の婦人」については後日触れる。

1970年7月3日

善き霊魂であれ。そして、わが教会の動揺と崩壊寸前の有り様を見ても落胆するな。また、世界の秩序が転覆されても動揺するな! サタンとその悪魔的な影響力が史上かつてなかったほどに人類と教会に働きかけているというのは本当である!

しかし、天主の介入と聖霊の働きを通して、他のどんな働きよりも増して、天使達の助力、超自然的力の介入、善き霊魂達をもたらす働きなどが、一つも作られないとでもいうのか?

この働きは天主から起こるのである!

わが教会の全ての信徒達は、平和のうちに、また堅固な精神を持って、未来に進むように。サタンは荒れ狂うだろう。そして、信仰と彼ら自身の奉献から内的且つ外的に離れ去った司祭達が、彼のベスト・パートナーであろう。

管理人注: 物事はそう簡単ではないことに気づいて欲しい。ここにあるのはベイサイドと同じ筆致、そして『神の神秘的な都市』と似た筆致である。まず、彼にとっては、この「霊」にとっては、それはあくまで、どこまでも、「わが教会」なのである。それがそうでなくなることは決してない。しかしながら次に、彼は、その中に「サタンの煙」が混入していることを指摘し警告することをためらわないのである。

罪に一度も触れることのなかった無原罪のマリアは勝利するであろう。私と私の十字架に従い、忠実で、私の肉と血における私の現存を愛をもって信ずる私の群れは少なくなるかも知れないが、信仰、祈り、信仰と望みの告白、そして真理に対する愛は、最後には勝利するであろう。

嵐は猛威を振るうだろう! 自然においては、それは岩を割り、ダムを決壊させるだろう。しかし天主は全能である。真理は強力である。恩寵は豊かで、溢れんばかりである。それ故、私が置いた岩は終わりの日まで続くだろう!

1970年8月7日

私はあなたに聖なる天使達のことを話した。そして私は言う。この仕事はわが天の御父の摂理によって行なわれる仕事である。それは現在と未来の大いなる混乱と不安と破壊から、ローマのわが教会を救うためである。

教会の中に害毒をまく者達はその仕事を始めたが、祝福された召使いでありわが教会の羊飼いであるわが司祭達も同じく仕事を始めたのである。教会はこの仕事に霊的に参与している司祭達によって救われるであろう。この仕事は天にその起源を持つのである!

そして、天国と恩寵の神秘である超自然を否定することによって、彼らは自然を偶像化する。それ故、あなたが現代における最も大きな背教とその創始者について書いた本が出版され、広く伝えられることがわが願いである。(ドレクセル神父がテイヤール・ド・シャルダンについて書いた本『新しい預言者?』のこと)

管理人注: 『新しい預言者? テイヤール・ド・シャルダン ー その理論の分析』(1969年)。その中でドレクセル神父はテイヤールのことを否定的に書いている。「第二バチカン公会議後のキリスト教における、そして特にローマ・カトリック教会における現代主義あるいは新現代主義は、超自然的なものに全く背を向け、この世の事柄だけを偏愛する姿勢によってとりわけ特徴付けられます。これはヨハネ23世の言う『現代化』の偏った解釈と誤用です。テイヤール・ド・シャルダンの理論がその決定的な基礎となりました。彼は過去に背を向け、天主と超自然を一般的な進化論のプロセスと融和させ、信仰というものをオメガ・ポイントで終わる漸進的な発展の中に行動的に参加する事と宣言しました。その原理は世俗的事柄への人間主義的礼賛に寄与しました。」(参照
そして、恐ろしい事に、ベイサイドの聖母は、テイヤールが天主の真理を甚だしく歪め、その汚濁を世界中に広めたために、そして「神の人」(司祭)としての使命を裏切ったがために、今、永遠の火に焼かれている、と言っている。(参照

わが一にして真なる教会の破壊はまだ終わらず、これからも続くであろう。危険と破壊は、ローマのわが可視的代理者が決断の言葉を発するまで増大するであろう。その日が来るまでは、腐敗と留まるところのない混乱の毒がその破壊を続けるであろう。

管理人注: 教皇様の「最後の決断」とは何か? 私はフランスの神秘家マリー-ジュリー・ジェニーが言ったとされる事を思い出す。彼女によれば「ある時一人の教皇様が、最後の瞬間に彼のポリシーを翻し、聖職者達に荘厳なアピールをする。が、彼は従われない。反対に、司教達の会議は更に大きな自由を要求し、もはや教皇には従わないと宣言するだろう」ということである。そして、私のもとに届いた情報によると、ある時、日本のカトリック信者がバチカンにトリエントミサを求めた際、日本のある司教は「トリエントミサをするならバチカンから離れる」と言ったそうである!

それ故、あなた方全ては、わが童貞母マリアの仲介の御力に強く信頼して、祈り続けるべきである。何故なら、聖なる三位一体の力によって彼女は、サタンとその悪魔的な群れ、また彼に仕える人間の下僕と協力者達に対する征服者として作られたからである。

管理人注: 私はこの事(聖母は悪魔の群れに対する征服者として作られた)についても『神の神秘的な都市』から引用することができる。真正な示現たちは互いに非常によく「一致」するのである。

あまりに多くの信者達が、天主の不忠実な召使いとなってしまった不幸な司祭達の影響を受けて、この素晴らしい御母マリアから背を向けてしまった。これは彼らの倒壊というだけではなく、彼らの人生における謙遜の徳、純粋さ、そして敬意の倒壊である。これらの可哀想な欺かれ裏切られた被造物達は、公然と、あるいは心の中で、天の御父を捨て、忘れている。私がそれを通して祈れと世界と人々に教えたところの天の御父をである。

1970年9月4日

ますます多くの司祭達がわが童貞母マリアに背を向ける。そして、数え切れない数の信者達が教会の不忠実な息子達の誘惑に従っている。それ故、彼らは全永遠を失う大きな危険の中にあるのである。

管理人注: プロテスタントの少なくない人達の心の中には「カトリック = 聖母マリア」という図式が存在するであろう。けれども、現実はこうなのである。カトリック自身がそれから離れているのだ。これを知ってあなた方は「好ましい方向性」と思うだろうか? しかし、私は保証して言うが、そうではない。決してそうではない。霊的真実はこの「イエズス」が言う通りであろう。宗教においては「教義」は問題ではない、「事実」だけが問題である。そして、聖母に関するこれは「事実」であろう。私は「教義」のことを話しているのではなく、私が今まで〈観察〉して来たところの「霊界事情」のことを話しているのである。

しかし他方、信者の多くや他宗派の者達がマリアに振り向き、彼女を称揚することに貢献していることは、聖霊の神秘な御働きの印ではないだろうか?

熱心な祈りは、聖なる童貞マリアを讃える聖地から天へ、絶え間なくのぼってゆく。償いの意向を持った真実の祈りは、そのような場所におけるものでも、神を喜ばせる。そうだ、そのような場所でのそのような祈りがしばしば助力と癒しを得るということは本当である。天の御父は人の心を見通し、聖霊はその思いのままに吹く。(ヨハネ 3:8)

霊魂の内において起こる神秘は人間の肉体における可視的な神秘よりも更に偉大であると考えよ。

現在ほど、そしてこれから来る未来ほど、祈り、犠牲、償いが極めて必要とされる時代はかつてなかった。私の使徒と弟子達の時代以降、教会がこれほど大きな危険の中にあった時代はかつてなかった。そしてその理由は、教会の敵達が教会の内部にいるからである。彼らの破壊行為は公然と行なわれ、且つ善の名のもとにおいて行なわれている。

かつて私の使徒達の中に一人の裏切り者が見つかった。しかし今、裏切り者は増加した。背教の毒は司祭になろうとしている人達の心に徐々に染み込む。価値のない召使いが神を誤って把握するこの時代は禍いである。彼らは彼ら自身を恐ろしい冒涜の罪の中に落としている。

実に、地獄に仕える彼らがわが教会を打ち負かすことは不可能であろう。何故なら、それはわが教会だからである。しかしそうであれ、教会は大いなる混乱に襲われるであろう。そして信者は迫害に苦しむであろう。

信者の数は減少するであろう。しかし、彼らの恐れを知らない信仰告白は、世の光のように輝くであろう。そして、三位一体の天主の力と恩寵によって祝福されるであろう。

天主の教会がその神聖性を奪われた地方では、ミサ聖祭は個人的な場所で捧げられるであろう。

しかし、知れ、確かに知れ。マリアは、不忠実な人々によって中傷され見捨てられて来たが、忠実な信者を特別の保護によって勝利に導くのである。

祈れ! 聖なる天使達の力に信頼して祈れ! 彼らは至る所におり、光に溢れ、サタンとその協力者達の計画に対抗している。


このへんにしておきます。更に読みたい方は、コチラ

英語訳(抄訳)

ドイツ語(全文)

参考(英語)


Faith Is Greater Than Obedience, DER GLAUBE ist mehr als GEHORSAM


心の カンタン な人は、こう思う。

「カトリックの伝統主義派のものでしょ」

それで、おしまい Y(・_・)Y チーン

電子レンジみたいな奴ら
ちょーカンタン

そういうのが
物事を「理解する」ことだと思ってる。


いやいや、非難はやめよう。
キリスト教徒らしからぬことだ。


森田玄・きくちゆみ御夫妻、
山川紘矢・亜希子御夫妻、
そして西園寺昌美氏。

もし「ベイサイドの預言」に見る、
『神の神秘的な都市』に見る、
そして今回のドレクセル神父への示現に見る、
このような「御神霊」(上の人達のためにあえてこの語を使う)が
「真のイエス・キリストの御神霊」なのだとしたら(前提/仮定)、
教会や祭壇には大して(あるいは、何ら)意味はない」などと
言っているそれら、「イエスを知っている」と言いつつ
そんな事を言っているそれらは、すなわち「悪霊」なのです。
決まってるじゃないですか!

決まってないの? では、言い換えます。
 「皆さんにおいても、少なくともその『可能性』ぐらいは
大いに疑わなければなりません」と。

「悪霊」と言っても「黒く」見えるとは限りませんので。
「悪く」見えるとは限りませんので。
彼らは「光の天使」にも「知恵の天使」にも化けますので。
正に「手八丁口八丁」ですので。
「詐欺の海千山千」ですので!

私はいたずらに恐れているのではありません。
それが「事実」なのですから・・・


「霊界のことはいろいろに考えられる。不思議な世界なので。」
ですって?

ああ、しかし、私は申し上げたい。
「悪霊を」調べた方が良い、と。
「非真理を」調べた方が良い、と。

「神を」ではなく「悪霊を」、
「真理を」ではなく「非真理を」、
調べた方がいいです。

「信ずる」ではなく「疑う」ことをすべきです。
私は宗教信者にしてこう言います。
「疑うことは大事です」

世界の信頼性を追うよりも、
世界の危険性に気をつけた方がいいです。
現界に対してはそうしてるじゃないですか。
現界に関しては「陰謀」を思うでしょう?
なんで霊界にもそれがあると思わないんです?
世界の「信頼性」ばかりを追うと、
私達の探究の旅は甘くなります。

山川紘矢・亜希子御夫妻などは、
お二人とも東大出で、
私から見ると正におばけみたいに頭のいい人達ですが、
しかしまた、なんという「純真」な人達でしょう!
イノセント過ぎます。
決して侮辱するために言うのではありませんが、
それにしても「お人好し」「甘ちゃん」です。
もう少し「疑う」ということもお覚えになった方がいいです。


演説、終り。

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