2010年12月31日

建物とその中の煙 2

プロテスタント


プロテスタント(の思想)に言っています。↑
しかし、どうか党派心で読まないでください。



参照
3. 上の二つを含むカトリックの考え方の分かり易い解説


いや、ほんとに閉店w


He that hath ears to hear, let him hear.
- Luke 8:8

Do you not yet know nor understand? Have you still your heart blinded? Having eyes, see you not? And having ears, hear you not?
- Mark 8:17-18

By hearing you shall hear, and shall not understand: and seeing you shall see, and shall not perceive. For the heart of this people is grown gross, and with their ears they have been dull of hearing, and their eyes they have shut.
- Matthew 13:14-15

He hath scattered the proud in the conceit of their heart.
- Luke 1:51

Thou hast hidden these things from the wise and prudent, and hast revealed them to little ones.
- Luke 10:21

Give not that which is holy to dogs; neither cast ye your pearls before swine, lest perhaps they trample them under their feet, and turning upon you, they tear you.
- Matthew 7:6

And whosoever shall not receive you, nor hear you; going forth from thence, shake off the dust from your feet for a testimony to them.
- Mark 6:11


グッド・バイ

これにて閉店

(更新の閉店、の意)

昨日で今年の更新は終わるつもりでいたが、やめた。
書き溜めていたものを今日一挙放出して、このブログ自体を終わることにする。
あまり推敲していない不完全な草稿みたいなものばかりだけれど(たとえ推敲しても私の能力には限界があるが)、この際そのまま出すことにする。
少しばかり心残りなのは、プロテスタントの人達のために「トレ・フォンターネ (Tre Fontane) の聖母出現」というのを紹介しないまま終わることだ。
私は、それは日本語ではまだよく紹介されていない、と思っていたから。
けれど、十分な紹介記事がちゃんとありました。偉いもんだ。
『黙示の聖母』 http://therese.fc2web.com/rome.htm
もちろん、こういうのを読んで右から左へと考えを変えてくれるとは、まあ、あまり思わないけれども。
しかし、あなたが恵みを、特別の恵みを受けますように。


それにしても、ちーちゃん(鬼束ちひろさん)、ごめん。ここのところ、いつの間にかちーちゃんとは関係のない記事ばかりになってしまっていた。けれども、それは「直接的な関係」は無いということであって、ちーちゃんも人間である限り、いつかは真理を知らなければならない。そう思って、私は今まで、何やらゴタゴタした記事を書き連ねて来たのです。
最近(今月)の鬼束。アメリカ帰りだそうである。
良くないと思う。妖気が取れていない。
(私もヘーキで言うけど。)
何故、今や魔術の国と化したアメリカなんかに。
また、そのVサインの出し方は何かな。
(知っててやってるとは思わないけど。)
またそれは、ちーちゃんがかなり霊媒体質の人であって、また、ほとんど自分のフィーリングだけを頼りにし、本を読んだり等の普通の「精神的」な探究などはあまりしそうになく、結果ますますフラフラと悪い霊に引かれる危険性が大になる、そのように見たからでもありました。だから私はここで極めて霊的な事を書くことを遠慮しませんでした。

けれども・・・結局、人に通じるのは「言葉」ではなく「祈り」なのだろう。
だから、私は「書く」ことから「祈る」ことに完全移行することにしよう。
(こんなことはけっこう昔から言っていて、その度に反古にしているのだが.. )


皆さんが「真理」にご関心を持ちますように。
ポンシオ・ピラトのように「真理? それは何だ?」と言いますように。
その決定的な疑問に打たれますように。いわば打ち殺されますように。

そして特に、物事の探索において地上的な手法に長けている人達、この世の闇、いわゆる「陰謀」------- 特に911とそれ以降において決定的に、私のような鈍い者でもさすがに気づくような形で浮上して来たそれ ------- を深く探究している人達、私は基本的にそのような人達の営みを「必要」と認め、僭越ながら尊重させて頂きます。
けれども、こう眺めていくと、やはりそういう世界からは「希望」が出て来んのです。少なくとも「十分」なそれは。

「闇の解析」は、ある程度「必要」です。911、フリーメーソン、イルミナティ、そのへんのことに気づいてないなんて、今時、やはりお話にもならないという気がします。それらに気づくことは、この時代、基本的な「必要」でしょう。

でも、その先は?

いくら「闇の解析」を進めても、「希望」は見えて来ないことでしょう。
少なくとも「希望」と呼ぶにふさわしい確固たるそれは。

人間には希望がなければなりません。希望を捏造したり幻想したりするわけにはいきませんが、しかし「希望が欲しい」という人間の願望に応えて、希望は確かに「存在」します。「個人的な思いの中で個人的に抱かれるそれ」を超えた形で、一種客観的な形で、裏付け、実体のある形で、それは「存在」します。
それはちょうど・・・若い頃の私がこう思った時 -------
この「世界」が詰まるところ「弱肉強食」の世界であって、且つその根底には「虚無」しかないものならば、私は少しも真面目に生きる気などせえへんわ。一方には善を為しても悲しく死んでいく人々が居て、他方には悪を為してもバレず、おいしい思いだけをして死んでいく人々が居て、且つそれ以上の事が本当に何もないなら、私は真面目に善を志向しようなんて思わへん。この世界、この宇宙の根底には、どうしても善悪原理が横たわっていて欲しいわ。そうでないと、ほとんどこの地面の上に立っているのも難しいわ。
------- 若い頃の私がこう思った時、宇宙がちゃんとこの願望に対応する「天国」と「地獄」というもの(実在)を用意してくれていたように ------- 宇宙はよくできたもんです ------- 捏造でも幻想でも「個人的」でも「心的投影」でもない実体的基礎のある「希望」を、宇宙はちゃんと用意してくれています。

しかし、
それはマシュー君ですか? 残念ながら、ノー。
シルバーバーチですか? 残念ながら、ノー。
神智学ですか? 残念ながら、ノー。
聖白色同胞団ですか? 残念ながら、ノー。
クリシュナムルティですか? 残念ながら、ノー。
Osho ですか? 残念ながら、ノー。
白光真宏会ですか? 残念ながら、ノー。
岡田茂吉ですか? 残念ながら、ノー。

イエズス・キリストです。
しかも、大事なことに、「マリアを通してイエズスへ」です。
(などと言うと、また「仲介は唯一…」と始まるかな、頭カッチン。)

皆さんがいつか、いや、今直ぐにでも、それを発見なさいますように。


聖ルイ・デ・モンフォー著
『ロザリオの神秘』
エンデルレ書店
7net)(カトリック書店
在庫あるかなぁ。。


ちょっとした証し

まだ未信者の時
試しにロザリオというのを祈ってみよう」と
初めて祈った時、こうなりました。
ビックリ仰天。
この絵は、初めてホームページというものを持った時に、それを伝えようとして作り、実際使ったものです。でも、その話は何となく「自慢」的な感じを与えかねないし、また自分の心においても微かな自惚れの誘因になりかねないので、ほどなく削除しました。
けれどとにかく、神は在り、ロザリオの祈りには凄い恵みがあります。
示現の聖母がおっしゃる通りに。


ルルド、ファチマの物語を「まともに」読んでください。「詳細に」読んでください。「魂で」読んでください。(笑いますか? 知的な人々。)
先入観を一切排除して、文字通り「虚心坦懐」を実現して(言っておきますが、極めて困難です)読んでください。

ルネ・ローランタン著
『ベルナデッタ』
ドン・ボスコ社


M. D. ポアンスネ著
『聖ドミニコ』
サンパウロ
PAULUS shop)(7net



押し付けがましい(よく言われますw)


では、読んでくれた皆さん、ありがとうございました。

さようなら。
良いお年を。

聖白色同胞団

聖白色同胞団について興味深い本を読みました。
チベット永遠の書
【シャンバラ】極限の恐怖の果てに「生」の真理を見た
テオドール・イリオン (Theodore Illion) 著/林陽訳
聖白色同胞団を信じている人達は、これを読んでもう一度検討なさった方がいいと思います。すべてを最初から洗い直した方がいいと思います。
わたしは、彼らの目に見入った。目はきれいだが、陰気な光を放っている。知性、力などすべてのものが認められたが、ただ一つ「魂」だけが欠けていた!
さもありなん、です。

私は・・・まあ、この物語は真実だと思いますね。

岡田茂吉氏に関する疑問 5

◎ 彼は毛沢東のことを「非常に偉い」と言う
毛沢東というのは非常に偉い人です。だからむしろ毛沢東は共産主義を利用しているようなものです。あれでいくと早いですから、もう少し行ってソ連の力を借りなくても良いというときになると、ソ連を離れてしまいます。
(昭和27年11月1日)

◎ 彼はロックフェラーの中に善を見るようである
するとアメリカの非常な金持ちのロックフェラー(これは三代目だそうです)とか、カーネギーとか・・・ああいう人になると、今は金は使いきれないほどあるのだから、金持ちということのありがたみは感じない。それで「世界をいかにして平和にするかということばかり考えている。それにはどういう方法をとったらよいか、ということに苦心しているくらいだ」ということを言ってましたが、アメリカの金持ちを、ガリガリ亡者のように見られたくないというような気持ちなので、私は言ったのですが、アメリカの人は非常に金を儲け金を集めるということは、世界に正義を行ない平和を維持せんがためには大いに物質がいるから、その物質を得るにはたくさんの金がいるから、そういう意味でアメリカは大いに金を集めるというように考えていると言ったら、非常に喜んでました。将来ロックフェラーと会うようなことになるでしょう。
(昭和28年11月25日)

ロックフェラー三世で、今は孫になっているそうですが、よく知っているらしいです・・・にしても、あんまり金ができすぎてしまって、もう金などはいらないと言っているそうです。だから頭は始終世界を平和にして、人類をみんな幸福にさせるということしか考えていないというのです。それでロックフェラーだけでなく、アメリカの大きな金持ちというのは、みんなそういう考えを持っているそうです。
(昭和28年11月26日)

先方でも、ロックフェラー(いまは三代目で、孫の代だそうです)などがふだんから言っていることは、金なんかあってもしようがないというのです。それはそうでしょう。金は入り過ぎるくらいですから・・・。だから自分は世界を平和にし、多くの人を幸福にする以外にはなにも考えない。だからそのための方法はどうすれば一番よいかということを始終考えている。というようなことを言ってました。
(昭和28年11月27日)
ベイサイドの預言がロックフェラーを「悪の頭目」と名指ししたのは1975年のことである(参照)。それより22年前に岡田氏はこのように言っているわけである。(岡田氏が会ったのはネルソン・ロックフェラーであり、ベイサイドの言っているのはおそらくデイヴィッド・ロックフェラーであろうとも。)

◎ 彼はフリーメーソンに関して「良い」という言葉を使う
共産主義の元は、やはりフリーメーソンですね。マッソン秘密結社と言って、二千年前に出来た。世界を掌握するというんですね。それが中途で派に分かれた。フリーメーソンの方は、その中でごく良い方ですね。
(昭和26年9月11日)
ベイサイドの預言はもちろんフリーメーソンのことを「悪魔の会堂」としか言っていない。どんな意味でも「見どころがある」的なことは言っていない。
岡田氏は言うだろうか? 「それは下級の神霊だから主神の経綸が分かっていないのである」と。


彼についてはこれで終りにする。切りがないので。

とにかく、明主様信仰者はよくお考えになった方がよいと思う。



補足1

ただし ------- これはあまりカトリック仲間には聞かせられないことだが ------- 私は最終的に彼の「霊学」は多少評価させてもらっている。龍神、天狗霊、狐霊などは、彼の言う通り居るのではないかと思っている。まあ、それだけだが。


補足2

彼について次のような見方もある。
http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20080629

岡田氏の宗教に疑念を抱いている人であれば、これを読んで「あり得る」と思うかも知れない。しかし、この筆者「伊勢白山道」という人は、その方面で多数の著書もあり、支持者もあり、既に一つのプチ権威になっているようであるが、結局、私は彼の「霊覚」なるものを信用しない。部分的にはどうか知らないが、全体的には全く「信頼」しない。真理の把握は必ず全体として正しくなければならない。99の正しい事を言っていても1個の大きな「穴」があるならば、結局、それ全体が信頼に値しない。

何故なら、彼は「スウェデンボルグは本物である」と、とんでもない事を言っているからである。こんなに大きな「穴」を持っている人を信頼するわけにはいかない。

私には、「ここにもまた、自分の『霊感』なるものに頼って ------- 彼は『リーディング』を行なっているそうである ------- 迷っている者がいる」としか思えない。

人間は悪霊によって二重三重に騙されるであろう。伊勢白山道氏自身、ご自分の描いた岡田茂吉像と全く同じように、全く同じような形態で、悪霊に騙されている可能性が大いにある、と言わなければならないだろう。

参照「スウェデンボルグは信ずべきものではない

岡田茂吉氏に関する疑問 4

彼は「自分が地上にいる間に地上天国を実現する」というようなことを言いながら、実現しないままに逝ってしまった。

真山氏先ほどのお守りの科学的根拠というのは何でございましょうか。
明主様『光』という字を書くと、その中に光が入って行くのです。
真山氏それは教祖だけがおやりになられるわけで・・・・・・。
明主様そうです。それだけの能力を神様から与えられているのです。
真山氏その神様というのは・・・・・・。
明主様主神(すしん)といいますが、最高の神様です。最近のことですが、ある人にキリストがかかって、この神様によって救われてます。
中村氏『光』という字ですか・・・・・・。
明主様(お守り様をお見せになられ)
これを一枚六秒で書くのです。ですから、とても早いです。これを懐に入れた刹那から病気を治せるのです。
真山氏そうすると、いつも神様が教祖の体に宿っているわけでございますか・・・・・・。
明主様そうです。ここにいるのです。
真山氏教祖の『光』というのは、世界的には教祖お一人ということになるのですか・・・・・・。
明主様そうです。昔からないのです。人類始まって以来初めてです。
真山氏しかし教祖がなくなられると、後、救世教はどういうことになりますので・・・・・・。
明主様霊界から働きますから、何でもないです。
真山氏『光』の字を書く人はいなくなるわけですか・・・・・・。
明主様その時代になると、けがれのある人がなくなるから、必要ないわけです
真山氏では、そのときまでは教祖も生きられるというわけですね・・・・・・。
明主様そうです

(パリ・マッチ誌 1952年9月号に掲載されたレイモン・カルチェ氏 日本の旅の一部)
レイモン・カルチェ氏と岡田茂吉師との出会いについての記事

(…)

彼は教会設立も後継者も考えてはいない。
と言うのは彼の伝道は彼の地上生活、それは100年間だけなのだが、それが終わる前に完成すると思っているからだ

(…)

私が、キリストはラザルを生き返らせたと注目を促すと、岡田氏は何のためらいもなく、自分の弟子たちも死に対し、同じ力を持っていると答えた。
私はすぐ実際にやってみてくれと言って、気まずい場を作るのを心配し、言うのを避けた。

岡田茂吉: 1882年12月23日 - 1955年2月10日
彼は周囲の者に「自分は100歳まで生きる」と言っていたそうである。(90歳と言ったという説もあるが。) しかし、結局72歳で逝ってしまった。
「神様の御計画が変更になったのかも」と言う者もいる。

「キリストはラザルを…」の件だが、聖書によると、ラザロは死んで四日も経ってからイエス様によって蘇らされたのだ。ラザロの姉妹マルタの「主よ、もう臭くなっています。四日目ですから」という言葉が記録されている(ヨハネ 11:39)。私は「記録」と信じる。
しかし岡田氏は、そのようなディテールに触れないまま上のように答えるわけである。そしてもちろん、彼も、また彼のいかなる弟子も、ラザロの奇跡に匹敵するような奇跡は一度として起こしていない。(起こしていたら新聞に載るであろう。)

彼はラザロの蘇りの奇跡の「死後四日の経過」を信じていなかっただろう。葡萄酒の奇跡と同様「半信半疑」だったのかも知れない。あるいは良心的に見れば、自分にインタビューしている者が西洋人だということで気を使い、直接の言及を避けたのかも知れない。いずれにせよ「死後四日」を信じていなかっただろう。

彼はこう言っている。
「仮にも世界をリードしている文化国民を中心に、数億の尊信者が絶対帰依している、キリストともいわるる大聖者があり得ざる事をあるといって予言するはずはない。もし本当にないとしたら、単なる嘘つきという事になる。」
しかし「キリストの予言」とは言っても聖書の中の記述である。では、彼は聖書を高く評価しているのかと言えば、全然そんなことはない。彼はマリアの処女懐妊やモーセの海を割った奇跡やイエスのパンと魚の奇跡を「拵え事」と言い、葡萄酒の奇跡に関しては半信半疑で、ラザロの奇跡についてははっきりと言及せず、ただ彼にとって実感の持てる奇跡はイエスの病気治しの奇跡のみだったということであろう。また彼は、以上により当然のことながら、イエスの「復活」と「昇天」(それは新約聖書の、キリストの事跡の中心的なものである)を全く信じていなかったであろう。
しかし、以上これほど否定すれば、聖書の全てを否定したようなものである。彼は聖書の中から自分が信じられるものをピックアップしただけであって、実は「聖書は単なる嘘つき」と思っていたに等しいであろう。

私はキリスト者として「怒って」いるのではない。ただ、彼のそのような取捨選択がかなり「普通」のものだったと思うわけである。かなり一般人と同じようなものであったと。

岡田茂吉氏に関する疑問 3

◎ 彼は聖書を信じる。
一体、最後の審判なるものは事実あるであろうかを、まず決めるべきである。そうして仮にも世界をリードしている文化国民を中心に、数億の尊信者が絶対帰依している、キリストともいわるる大聖者があり得ざる事をあるといって予言するはずはない。もし本当にないとしたら、単なる嘘つきという事になる。
(昭和25年)

◎ しかし「部分的に」信じる。
信者の質問:
「新約聖書」によりますと、イエスが一片のパンをもって何千人に飽(あ)かしめ、なお余った・・・という話がありますがこれは、いかがでございましょうか。

明主様御垂示:
こういうことは一宗の開祖をよくするために後世の人がつけ加えた拵え事でしょう。・・・キリストは偉い人には違いないが、力がなかった。

(昭和23年)
「聖書」は旧新約ともに本当のことは書かれてない。ある程度までは本当だがその先はまだ発表の時ではない。(…)旧約のモーゼも偉いが逃げるとき海を干して渡ったとあるのなんか嘘です。
(昭和23年)

「その先はまだ発表の時ではない」などと勿体をつけてはいるが、おそらく彼はただ信じられなかっただけだろう。彼が彼として「実感」の持てる奇跡は「病気治し」だけだったのかも知れない。彼が聖書のどの部分を信ずるか、どの部分を信じないか、その判断は、おそらくかなり恣意的なものだったろう。

魚とパンの増加の奇跡は実際に起こっただろう。それは四つの福音書すべてで証言されている。(マタイ 14:13-21、マルコ 6:30-44、ルカ 9:10-17、ヨハネ 6:1-15)

岡田氏は(また世の多くの人も)「このような事は一宗の開祖をよくするために後世の人がつけ加えた拵え事」と簡単に思うわけだけれども、まず自分自身をその「後世の人」の位置に置いてよく考えてみるべきなのである。その時、あなたはあなたの愛する教祖の御事を世に広めんとして「一片のパンをもって何千人に飽(あ)かしめ、なお余った」などという話をわざわざ捏造して人々に話すだろうか? 教典に載せるだろうか? そうすることによってより多くの人の心を惹き付け得ると?

あなたがそう考えるのだとしたら -------「人の心」というものについてそのように「理解」し「予想」するのだとしたら ------- あなたは馬鹿である。多くの人はそんな途方もない話は信じないのだから。

あなたが福音書にある魚とパンの増加の奇跡を本当に捏造された話なのだと信じたければ、残る道は一つである、すなわち「昔の人は『多くの人はそんな突拍子もない事を容易には信じない』ということを予想できないほど馬鹿だったのだ」と結論することだ。しかし、私は断言するが、2000年前の人達とてそんな事も予想できないほど馬鹿ではない。彼らは「こんな話はほとんどの人が信じない」と分かっていながら、ただ真実に忠実であるために、ありのままに聖書に書いただけである。それは本当に起こったのだ。

ちなみに、福者アンナ・カタリナ・エンメリックが受けた示現の中にも、その奇跡が真実のものであったことを伺わせる場面がある。ヘロデが主に次のように尋問している。
お前が盲人の目を開いたとか、ラザロを死からよみがえらせたとか、数尾の魚で数千人を食べさせたとかというのは本当か? ------- 何故返事をせんのか。
Is it true that thou hast restored sight to the blind, raised up Lazarus from the dead, and fed two or three thousand persons with a few loaves? ------- Why dost thou not answer?
Ist es wahr, hast du Blindgeborene sehend gemacht, hast du
Lazarus von den Toten erweckt, mehrere tausend Menschen mit wenigen Broten gespeist? ------- Warum antwortest du nicht?


彼は「昼の文明を創造する私としては、一切が分るのは当然である」「これほど絶大なる力をもつ私としたら、何ものも分らないはずはない。信者はよく知る通り、如何なる事を聞かれても、私は答えに窮した事はない」等と言った筈である。しかし彼は、聖書にある奇跡話のどれが「真実」で、どれが彼の言うところの「拵え事」かを判別するにおいて、実際、自分自身でも迷いがあったようである。(これが前回の最後に言った「聖書の奇跡について彼の判断が揺らいだ例」である。)
もし奇蹟が迷信であるとすれば彼(か)のキリスト教も迷信という事になろう。何となればキリストが水を葡萄酒に化し、数十人分の量がたちどころに甕(かめ)に満ちたという事や、盲の眼が開き、跛行者の足が立ったりする等の話は立派な奇蹟である
(昭和23年)
そうして次に言いたいのは宗教史上顕著とされている彼(か)のキリストの奇蹟である。盲の眼を開き、足蹇(なえ)を立たせ、悪人から鬼を追い出し、集った数十人の信徒に水を葡萄酒に化して飲ませた事なども、葡萄酒の件だけは後世誰かが作ったものであろうが、その他はもちろんあったに違いない。
(昭和23年)

このように、葡萄酒の奇跡が本当にあった事なのかどうか、判断が定まらないのである。


彼は自分の力を次のように表現する。
キリストなんかは、奇跡によって病気を治したと、バイブルに書いてますが、それはあったに違いないが、キリストご自分だけで、弟子は出来なかったですね。というのは力が小さかったんですね。ところがメシヤ教(引用注: 世界救世教の以前の名称)の方は、私の弟子がキリストくらいのことをやっているんですからね。そうすると、力の大きさというのは、全然比較にならないんですからね。
(昭和26年)
そこで観音力と言って(引用注: = 観音力はあるが)、阿弥陀力とか釈迦力とかキリスト力なんてありやしないのです。また、力というものは制限がないのです。無限のものです。だからこの頃キリストと同じような奇跡を信者が行うが、そうすると力という点ではキリストは私の弟子くらいしかなかったのです。
(昭和27年)
私に与えられている神力は最高級の神霊であるから、絶対力といってもいいくらいのもので、この力は本当に揮われた者は昔から一人もなかったのである。かのキリストにしろ、言い難い話だが割り合い弱かったのは事実がよく示している。即ちキリストの行なった奇跡といってもご自分だけのもので、弟子達にまで分け与える事はできなかったのである。
(昭和27年)

言うべき事が二つある。

一つは、彼の主張の大雑把さ、がさつさである。彼はしきりに「キリストは自分の力を弟子達に分け与えることができなかった。しかるに私は…」式の主張をするのであるが、彼はまず聖書の『使徒行録』を読んでいないのだろうか。それとも読んでいながらこのような物言いができるということなのだろうか。『使徒行録』の中にキリストの弟子による奇跡が一つでもあれば、「キリストの行なった奇跡といってもご自分だけのもので、弟子達にまで分け与える事はできなかった」などと言わないのが良識であり礼儀であり、更には「公平さ」というものである。岡田氏はそのような事も分からなくなるほどご自分の何かに酔っぱらっていたのだろうか。

そう、酔っぱらっている。
彼はある時一人の者に自分の姿を写真に撮らせたが、できあがった写真が非常に神秘的なものだったというので、次のような言葉を口から発している。

「この時写ったのが空前絶後ともいうべき霊写真で」
「(他に比べて)私の霊写真の何という素晴しさだ」
しかしながら、それがどんなに不思議な写真であろうとも、人類の幸福に直結しないものであるならば、もう少し醒めた目を持っていて欲しいものである。何であれ写真一枚に「空前絶後」などという語を当て嵌めるのは、いささか舞い上がり過ぎというものだろう。ちょうど彼を教祖と仰ぐ或る教団の信者達が、ある頃「金粉が出た。ダイヤモンドが出た」と言っては無邪気に感激していたのと同じような「単純さ」が、彼の心の中にあったのではないか。
そして、彼の言葉の端々にしばしば観察されるのは、「他に比べての自分」という彼の自意識である。

言うべき事のもう一つは、「私の弟子がキリストくらいのことをやっている」だの「力という点ではキリストは私の弟子くらいしかなかった」だの「キリストと同じように奇蹟を行なう者が数十万できている」(参照)だのというのは、明らかに酷い誇張だということである。岡田氏の宗教は立教以来何十年経っているというのか。彼の弟子のただ一人でもキリストの力を持っていれば、今頃その評判は世界に鳴り響いている筈ではないか。しかし実際は、この狭い日本においてさえ評判になっていないのである。(それどころか、彼を教祖と仰ぐ複数の教団から「被害者の会」が立ち上がっている始末である。)


キリストが病者を常に瞬時に癒したことを言わないあなたは公平さに欠ける人である。

岡田茂吉氏に関する疑問 2

彼は聖母の処女懐妊を否定する

私はクリスチャンとして、カトリック教徒として、「聖母の処女懐妊を否定するのはケシカラン」と言いたいのではない。ただ「その主張は真実ではない。それは実際起こったのである」と言いたいのである。そこをお間違えなく。

注)文中の「明主様(めいしゅさま)」とは信者が彼を呼ぶ時の呼称である。
信者の質問:
マリアは処女受胎してイエスを生んだと申しますが・・・

明主様御垂示:
これは嘘ですよ。もしあるとしたら世界は破裂しますよ。

(昭和23年12月28日)
イエスは、ヨセフとマリアの二人の間に出来た子供です。
聖霊に感じて身ごもったというのは作り事なんです。
そんな馬鹿な事はないんです。
(昭和26年12月25日)
これは「完全否定」、いかなる留保もない否定と言っていいだろう。


カトリック側の示現を見る前に、岡田氏が自分自身のことをどう言っているか、その口吻を見ておこう。
従って、私に在られます神霊は最高の神位であるから、これ以上の神様は世の中にないのであるから、他の神様に頭を下げる意味はないので、何よりも信者が日々顕わしている奇跡がそれを証拠立てている。その奇跡たるやキリストの顕わした奇跡以上の奇跡が常に顕われているので、私の弟子でもキリストに比べてなんら劣るところはないのであるから、この一事だけでも私の神格は想像つくはずである。
(神人合一)
故に昼の文明を創造する私としては、一切が分るのは当然である。
(…)
これほど絶大なる力をもつ私としたら、何ものも分らないはずはない。信者はよく知る通り、如何なる事を聞かれても、私は答えに窮した事はない
(私の光)
人類を救いたいとの熱情に燃える余りか、表現がずいぶん思い切ったものになっている。「いいんですか。大丈夫ですか」と心配になるくらいに。


霊的な事にはどだい現代科学で言う「証拠・証明」はあり得ないが、以下、カトリックの示現を掲げる。

1. ベイサイドの預言
わが子らよ。私は、わが本性 (nature) に対する、またわが聖父と聖霊におけるわが神性に対する非道行為に関しては、苦しみのうちに、忍耐のうちに、そしてまだなだめられ得る心と共に、受け入れもしよう。しかし、わが御母に対する暴虐に関しては、私は大目に見ないであろう! わが降誕についての知識を退け、その偽善のうちに、また真実を拒絶するその態度のうちに、わが御母の地位の低下を受け入れるあなた方よ!
永遠の聖父は、彼女が生まれる以前から、私があなた方の世界に入るための容器となすために、わが御母を選びたもうたのである。わが御母は罪なしに孕まれた。彼女は罪の汚辱を、人類がその最初の両親から受け継いだところの原罪を知らなかった。彼女は、時の始めから、永遠の聖父の御旨のうちに、私があなた方の世界に入るための汚れのない容器として定められたのである。
わが御母は通常の女性ではない。過去のおいても然りである。彼女は終生童貞であった。わが御母は痛みなしに、また赤ん坊の声が彼女と彼女の浄配ヨゼフを起こすまでは私の降誕を知ることなしに、私を産んだのである。わが御母は、わが降誕の前にも後にも男性を知ることがなかった。わが御母は、いにしえの書に書かれている通りに、終生童貞であった。ああ、信仰薄き者よ、あなた方はどれほど彼女の地位を低めれば気が済むのか!
(1977年5月14日)

私はあなたの神としてあなたに臨み、この事を明確にすることを望む。私はわが家庭の中にいかなる兄弟姉妹も持たなかったのである。わが御母は終生童貞なるマリアであった。この事は天国からの超自然的な徴(しるし)であった。そして、光のうちにある人々だけが、わが御母の存在を、そして地上における一にして真なる教会の確立において彼女が演ずる役割を、完全に理解するのである。
(1987年10月2日)

2. 福者アンナ・カタリナ・エンメリックへの示現
わたしは神のお告げの祝日にちょうど神のお告げの視幻を見た。それはマリアが結婚して間もないころで、かの女はナザレトの家にいたが、ヨゼフは不在であった。かれは自分の荷物を取りに二頭のろばを曳いてチベリアデに向かっていた。

家にはアンナとその碑、それにマリアと一緒にいた二人の乙女がいた。アンナは新しい家具を備えつけていた。

夕方になると一同は低い丸いテーブルを囲み、立ったまま祈ってから野菜を食べた。アンナは長い間家の中であちらこちら働いていたが、マリアは階段を上って自分の部屋に帰った。そして長い白い羊毛の祈祷服を着て帯をしめ、黄がかった白いベールを頭にかけた。

すると召使が入ってきて腕の多いランプに灯を入れて出ていった。マリアは低い机を壁の傍から持ってきて部屋の真中においた。その上に小さな丸いひじ当てをおき、手を机に支えながら、寝所に背中を向けてひざまずいた。部屋の扉は右側にあり、床の上にはじゅうたんが敷いてあった。マリアはべールを顔の前に垂れ胸の上に手を組んだ。

かの女はこうして長い間非常に熟心に祈っていた。救世の約束の王について祈り、その来臨に際して幾分かかかわり合いを持つことを願って、天を仰ぎ、われを忘れて長い間ひざまずいていた。それから頭を胸にたれてさらに祈った。

マリアがふと自分の右の方を見た時、そこにブロンド色の髪をなびかせた光り輝くひとりの青年を認めた。それは大天使ガブリエルであった。その足は地についていなかった。天使は光と輝きに充ち満ちて上の方からマリアの方へ降ってきた。建物は隅々まで光にあふれ、ランプはまったくうす暗くまばたくばかりであった。天使は話しかけた。マリアは答えたが顔を上げなかった。天使がふたたび語ると、マリアは天使から命じられたようにベールを上げて天使を見た。そして言った。「わたしは主の婢です。あなたの仰せのようにわたしになりますように。」

その時マリアは深い脱魂状態にあった。居間の天井はもはや見えなかった。

家の上には光雲が漂い、一条の光線が開けた天まで伸びていた。この光の源に至聖三位の姿があった。マリアが「仰せのようにわたしになりますように。」と言った時、翼に蔽われ、人の容貌をもった聖霊の姿が現れた。そしてその胸と手から三本の光線が流れ出てマリアに降り、かの女の胎内で一つになつた。その瞬間マリアはまったく透明に輝き、不透明なものは、夜がこの光の奔流の前から遠のいていったかのようになった。(引用注: 日本語がちょっと変ですが、そのまま引用しました。)

天使が光と共に消え去ってのち、天からの光の中から、緑の葉のついた無数の白いばらの蕾がマリアの上に降り注いだ。マリアはまったく自己のうちに没入し、人となった神の御子を、自分自身のうちに小さな人間の光の形で見つめていた。

この神秘が起こったのは最夜中頃であった。

しばらくしてからアンナと他の婦人達が入ってきたが、マリアがわれを忘れた脱魂状態にあるのを見てまた出ていった。

かの女は立ち上り、壁の方の小さな祭壇の前に行き、そこでしばらく祈り、明け方になってやっと横になって休んだ。マリアはちょうど十四才を少しこえたぐらいであった。マリアは救い主を宿した事を知った。また救い主はその国の人々の王となるが、その王国はこの世のものではなく、人類救済のために苦しみかつ死ななければならないという事も知った。

アンナは特別の恵みによってこの事を心の内にマリアと分ちあっていた。

エルサレムでは婦人は神殿に入れないがナザレトではいまは違う。かの女自身が神殿であり、至聖なる神がその中に住まわれたのである。

マリアはイエズスを受胎した後、いとこのエリザベトを訪問できるのを楽しみにしていた。かの女はヨゼフと共に南に向かって旅に出た。二人は遠い道のりを非常に急いだ。
(…)
ヨゼフはすぐ帰りたかったが、なお八日間程留まっていた。かれはまだマリアの受胎の事を何も知らなかった。婦人達もその事については黙っていた
(…)
時折わたしはマリアの胎内に栄光を見たが、その中心は書き表わせぬ程明るく輝いた焔であった。わたしはエリザベトにもこの栄光を見たが、その輝きはマリアほどには明るくなかった。

星の輝くある静かな夜、月光をあびて、ヨゼフはザカリアに見送られてナザレトへの帰路についた。まず一同そろって祈ってから、ヨゼフは荷物を持ち、二人は旅行用のマントを頭から被った。そして非常に静かにまた快活に別れを告げた。二人の婦人も少しばかり一緒についていった。そして言葉につくせない程の心地よい夜を味わっていた。

ヨゼフはナザレトの自分の家にはいった。アンナの召使が一切の世話をして帰った後ヨゼフはいつも一人であった。

ザカリアもまた自分の家に帰った。

マリアとエリザベトはいつものように祈りそして働いていた。夕方になると二人は庭を歩き、涼しくなった時には近所を散歩した。ふだんは九時頃床につき、かならず日の出前に起きた。マリアはヨハネの誕生まで三か月間エリザベトの所に滞在し、ヨハネが割礼を受ける前にナザレトへ帰った。

ヨゼフは途中までマリアを迎えに出て、マリアが妊娠している事を始めて知った。しかしかれはそれを口に出さず、心の疑惑と戦っていた。この事に早くも気付いたマリアは真面目な様子で考え込み勝ちになったので、ヨゼフの不安を一層募らせた。しかしマリアが故郷に帰って来てから天使がヨゼフに現れ、かれを安心させた。

3. 尊者アグレダのマリア への示現
黙想に耽る聖マリアの部屋に人の姿をした天使たちが入りました。木曜日の夕方でした。謙遜な王女は、聖ガブリエルの見分けがつきましたが、伏し目にしました。聖なる天使は自分の女王に対し、深く御辞儀をしました。アブラハムが天使にお辞儀したように、人間が天使に礼を尽くすという昔からの習慣がこの日から変わったのです。御言葉の人性により、人性が神の威厳にまで引き上げられたので、人間は養子の地位をもらい、天使たちの兄弟となりました。天使が福音史家聖ヨハネにより崇められるのを拒否したのです。

聖なる大天使は挨拶しました、「めでたし聖寵充ち満てるマリア、主は御身と共に在します。御身は女の内にて祝せられ給う」。この挨拶を聞いて聖マリアは当惑しましたが、混乱していませんでした。当惑は、自分が最も卑しい者と思っていたのでこのような礼辞を考えていなかったことと、どのように応対してよいか考え始めたからです。その時、神が神の御母として聖マリアを選んだことを聖マリアの心の中に話されたので、ますます驚いたのです。天使は主の宣言を説明します、「恵まれた方、恐れるな。御身は主の恩寵を得た。見よ、御独り子を懐胎し、出産し、イエズスと名付くべし。御子は偉大にして、いと高き御方の御子と呼ばれるべし。」

この新しい未聞の秘儀の真の価値を理解できる方は、私たちの思慮深く謙遜な女王以外にはいません。聖マリアがこの秘儀の偉大さを実感すればするほど、もっと讃嘆の気持ちが起きました。聖マリアは自分の謙遜な心を主に挙げ、教えと助けを願いました。いつもの恩恵や内的高揚は中止されたので、普通の人間と同じように、信望愛をもってあたるしかありませんでした。聖マリアは聖ガブリエルに答えて言いました、「私はどのようにして妊娠するのでしょうか? 私は男を知りませんし、知ることができません。」 この時、聖マリアは乙女の誓願を結婚前にも結婚後にも主に対して行ない、主に祝福されたことを無言で主に話しました。

聖ガブリエルは答えました。 「私の女主人様、男の協力なしに御身を妊娠させることは、神にとって容易なことです。聖霊が御身の上に留まり、いと高き御方の力が御身を覆います。聖者中最も聖なる方が御身より産まれ、神の御子と呼ばれます。御覧なさい、従姉妹エリザベトも長年の不妊の後で男児を懐妊して、今は六か月目です。神にとり不可能なことはありません。産まず女を妊娠させる御方は、御身を御自身の御母とし、しかも御身の乙女を保持し、純潔を増大されます。」

4. アルベルト・ドレクセル神父への示現
わが一にして真なる教会は、司祭達によって再興されるであろう。そして、知りなさい、そこでは若い司祭達による新しい世代が育つであろう。そしてこれらの司祭達は背教した聖職者達によって追い払われるけれども、聖人達の霊的な生き方に引き付けられ、自らを公然とキリストの僕であると言うであろう。彼らは自らの聖職と使命を常に身に付ける習慣を持ち、人間の尊敬と世の愛を持たない。彼らは既に二、三の場所で訓練されており、彼らは三つの性質によって特徴付けられる。祈りの生活によって、彼らの聖体に対する愛と熱愛の炎によって、そして永遠の童貞母聖マリア (the eternal Virgin Mother Mary) 、御償いの御母に対する信心と崇敬とによってである。これら三つの要素は、この若い世代の司祭達に聖人の成功を運ぶであろう。そしてわが一にして真なる教会を、新しい輝きと偉大な力を持ったものとして立ち上がらせるであろう。
(1976年5月7日)


「示現」ではないが、一種の霊的通信として。

5. エクソシズムの記録
アムステルダムにおける聖母出現「すべての民の婦人」についての悪魔の自白
アムステルダムから出たこの本を、一度最初から最後まで読んでみるがいい。その中にある小さな絵は多くの教会の中に飾られている。それには次のような言葉が添えられている。「あなたの霊を今遣わしてください etc.」。そして最後に「かつてマリアであられたすべての民の御母が、わたしたちの執りなし手でありますように」。この最後のセンテンスをよく考えてみなければならない。「かつて ... であった」... 彼女はもはやそれではないのか? 我々がフリーメーソンと共にこのフレーズをひねり出したのだ。これは我々の大成功だった。彼らはその物語を聖人達の生涯に似たものとして仕上げることが必要だと考え、幾つかの生涯のあれこれを模倣した。しかし同時に、彼らは常に教会がモダニズムにもっと近づかなければならないことを強調した。我々はこの本に教会の出版許可を取り付けることにさえ成功した!〔笑う〕ハ! ハ! 我々はこれによって全くの成功を収めた!
また、この本ではほとんど常に、「天主の御母」でも他の似たような称号でもなく、「婦人」について語られる。そして絵には「かつてマリアであられた」だ、ハ! ハ! 「かつて ... であった」... もはや彼女を信じない教会のためだ。
多くの者達ために、彼女は「かつてそれであった」のだ。彼女の処女性 (virginity) を疑問視する者達のために、そしてそれを望まない者達のために......そこに地獄があるためにだ。


「福者カタリナ・エンメリックへの示現」と「尊者アグレダのマリアへの示現」の間に、不一致が一つある。それは、聖ヨゼフのエリザベトの家での滞在日数である。前者では八日間となっているが、後者では三日間となっている。
しかし、聖母の滞在期間はどちらも約三ヵ月間となっている。

しかし、それよりも私の心に響くのは、前者も後者も等しく「聖母は深い祈りの内にある時に大天使聖ガブリエルからのお告げを受けた」と言っていることである。庭掃除をしている時にでも粉を挽いている時にでもなく、祈っている時にである。私は、さもありなん、と思う。天使がこれほど重大な事を告げる時、家事仕事をしているマリアを呼び止めてそうすることはない。必ず彼女の心が集中的に神に向かっている時である。


証明、いわゆる科学的証明は一切できないけれども、また、「神様はどうして心の処女性ばかりでなく肉体における処女性までもこれほど重視されるのか」の問題はさて置くけれども、聖母マリアが終生童貞であられたのはただ単純に事実である、と申し上げる。

肉体の処女性を別にすれば、高齢のエリザベトもまた天主様の御旨により、特別の恩寵によって洗者聖ヨハネを孕んだのだ。聖書にはそう書いてある。ならばどうして岡田氏は、聖母の処女懐妊を信じられなかったのか。エリザベトのことさえ信じられなかったのか。どうして神を信じる人がそれらを信じられなかったのか。岡田氏にとって神は「全能」ではないものだったのか。「地球が破裂する」とは。

神信仰者としては、こう思うのがむしろ普通であると思う。
神は全能であられるのだから、もしその必要をお認めになりさえすれば、地上世界の通常の秩序を破ってでも「特別の出来事」を起こすことがおできになる。そしてその時、世界は決して破裂しない
しかし彼はそのように単純に思うことができなかったのである。

私は、彼は「マリアの処女懐妊はなかった」とその「霊覚」をもって「知っていた」のではなく、ただ人間としてそれを「信じられなかった」のだと思う。何故なら、聖書に書かれた他の奇跡について、彼の判断が揺らいだ例があるからである。それは次回書く。

尊者アグレダのマリアの『神の都市』は最近PDF公開された。CLICK!

岡田茂吉氏に関する疑問 1

明主様信仰者へ、そして被害者へ

世界救世教の教祖 (1882 - 1955)

このシリーズは岡田茂吉氏の宗教に少しでも触れたことのある人達のためのものです。ですから、それ以外の人は、お読みになるなw

と言っても読む人は読むのだろうから、少し弁解。
「岡田茂吉氏に関する疑問」などという言葉は、普通のカトリック教徒の口から出るものではない。カトリック信仰から見れば、岡田氏の宗教などただただ「異教」なのだから。「疑問」も糞もない。(汚い)

しかし、私はあえて素朴な「探究者」として書く。そうすることにはある種のメリットがあると思うからである。カトリック仲間には少し許してもらいたい。

「ある種のメリット」とは、彼の宗教に苦しんだ人、また今も苦しんでいる人のために、参考程度のものを供することである。そのためには、私は全くカトリック信者として書くわけにはいかない。全くカトリック信者として書くなら、
岡田茂吉氏はイエス様が唯一の神であることを否定している。
よって、彼は偽預言者である。
この二行でおしまいである。だが、これだけでは、上記の人達の心に少しも響かない。どうしても、彼らと同じ場所にある程度(ある程度、であるが)身を置きつつ、書かないわけにはいかない。


本論に入る前に、白光真宏会の五井昌久氏とこの岡田茂吉氏に起こった霊現象の興味深い類似のことを挙げておく。それらはあまりに似ているので、私は過去、五井氏を疑うに至り、しかし岡田氏のことはまだ信じていた時点で、「五井氏のこれは岡田氏のものの猿真似ではないか。悪霊が岡田氏のそれを猿真似して五井氏を騙したのではないか」と思っていたものである。

その類似とは、両者とも
1. 自分は「神人合一」に至った、
2. 自分は神様から「如意宝珠」を頂いた、
3. 自分は「観音様」と深い縁がある、
と言っていることである。奇妙なことに、この三点がピタリと一致している。

しかし、その奇妙さはともかく、果してこれらを豪語する人達は本当にそのような者達なのだろうか。私は既に五井氏が白色同胞団の霊を識別できなかったことを指摘した(参照1参照2)。五井氏についてはそれで十分である。
では、岡田氏はどうか。私は今、カトリックの神から光を受けつつ岡田氏のことを改めて見る時、実は五井氏のみならず岡田氏もまた、その「霊覚」なるものが極めて怪しい人物であった可能性を感じないではいられないのである。


私は、岡田氏の言説の真偽を「直接知る」ことはできない。私は霊界を覗くことはできないのだから。
彼の言っている事は、たとえばこうである。(正確な引用ではないが)
イエスは「素盞嗚尊(すさのおのみこと)の霊統の神」である。「霊統」とは霊的な家系のようなものである。そして、その素盞嗚尊は古代の或る時、邪神に負け治安を見出すという罪を犯した。そのため伊弉諾尊(いざなぎのみこと)によって追放され外国に渡った。それがユダヤの起こりとなった。彼はそこに住んで十二人の子供を生んだ。その中から出た子孫の一人がイエスである。イエスは自分の先祖(素盞嗚尊)が日本で犯した罪の贖いをした。彼の贖罪の根底にあったのはそれである。
しかし、このような事の真偽を誰が見分け得ようか、「直接知り」得ようか。

彼のこのような言説を一笑に付すのは容易い。けれども、私はそうしない。それはこの場の趣旨ではない。私はできるだけ素朴且つ公平な目をもって見たい。
けれども、そうはいえ、彼の展開する霊界に関する説はあまりにも見極め難く、否、「難く」ではなくて文字通り「不可能」であって、どうにもならない。
だから私はここから目を外す。別の視座から別の手法をもって見ようとする。

その手法とは、このサイトで既にやっているように、カトリックの示現との「擦り合わせ」を行なうということである。

しかし、「擦り合わせ」が可能であるためには、主題が同じでなければならない。岡田氏が「Aは黒である」と言い、カトリックの示現が「Aは白である」と言っているケースを選ばなければならない。「イエスは素盞嗚尊の子孫である」などという説に関しては、カトリックの示現は「イエスは素盞嗚尊の子孫ではない」とは言っていないw。それはキリスト教にとってはあまりにも突拍子もない説であって、あまりにも離れ過ぎており、いわば袖さえ触れ合わないから、「擦り合わせ」の対象にもならない。

では、岡田氏が「Aは黒である」と言い、カトリックの示現が「Aは白である」と言っているケースはあるのか。

あるのである。一つ決定的なものがある。
それは聖母マリアの「処女懐妊」についてである。

ページを改める。次へ

建物とその中の煙 1

さて、次は、主としてプロテスタントの人達に向けて書くのである。

もっとも、私も経験上、人の心は「言葉」などではなかなか動くものではない、ということを知っている。人の心は、動く時には動くし、動かない時には動かない。全ては、その人の人生航路と、そしておそらく、神の恵みによるのである。だから、あまり力こぶ作って語ることは、しない。(かも)

一回目は、既に書いたのである-------「カトリック」。カトリックの真実について気づく人は、その記事の簡単な表示によってすら気づくだろう。


今回はこう叫んでみよう。

あなたはこれまで一度でも、サタニストが
プロテスタントのパンを黒ミサのためにとっておけ
と言っているのを聞いたことがあるか???

誤解しないで欲しい。私はこれを「カトリック教徒」としての立場から言ってるのではない。上の質問は、かつて「探究者」であったところの私を打った質問である。私は自分で言うが、この質問にドンと打たれることこそ正常なのであって、打たれることがないなどというのは、どこかおかしいのである。それほど、事の真実は、これによって単純明快に、明々白々に暗示されているのである。
(「明々白々に暗示」などという言い方は矛盾した言い方なわけだが、まあ、そういうことだろう。それほどのものが、ここにあるのである。)

上の質問は「疑惑」である。いわばポジティブな形態での「疑惑」である。世間の一部では今、ネガティブな形態での「疑惑の追及」が盛んである。しかし、見受けられるところ、ネガティブな方面では大いに頼もしいそのような疑惑追及の獅子達も、ポジティブな方面に関してはさっぱりのようである。このような場所に潜むこれほど大きなシグナルを容易に見逃すようである。彼らは自らを「追及者」と認めるだろうが、しかし実のところ物事間の「整合性」というものをさほど「追及」しないようである。

カトリック教会のミサにおける「聖体奉挙」


宗教における第一次的なもの」達、すなわち「示現」達は、
「聖体」について次のように叫んでいる。

その前に、私としての前置き

私はなにも、「不思議話」が大好きで、ここにこのようなものを並べようというのではない。皆さんが ------- シルバーバーチやマシュー君を含めた皆さんがw ------- あまりにも「聖書や教会組織の中には神由来ではないもの、人由来、人造、人為によるものが、それは沢山あるだろう」と深く、そして広く信じておられるようだからである。

結構である。私もまた「教会の中には人造・人為のものはない」などと言うつもりはない。それどころか、私は「第二バチカン公会議」を・・・いや、言うまい。けれども、さっき「広く信じておられる」と言ったが、要するに「範囲の測定」ということがことのほか大事である、ということなのである。つまり、カトリック教会ならカトリック教会の、どの部分が、どこからどこまでの範囲が、神由来のものであり、あるいは人由来のものであるか、ということを見極めることが、非常に大事なのである。そして、そのための一助として、以下の示現を掲げるということなのである。そういう意味合いである。

そしてまた、あなたが「神」というものはおられ、またそれは「法則」ではなく「人格」であると信ずるなら、あなたにはおそらく、このような示現を即座に斥ける理由はないだろうからである。あなたは「聖書を調べたい」と言うのか。しかし聖書というものは、大幅に、アブラハムやモーゼその他の預言者たちが神から受けたと称する「通信」から成っているのである。あなたはそれをどのように「調べたい」というのか。私は言う、宗教とは畢竟「神から人への通信」から成っていると。あなたにとってはそれが主要な関心でなくてはならない。それが視界に入っていなければならない。それを度外視するか脇にどけるかしたような「検証」は片手落ちである。そのような姿勢では、あなたはどんな宗教的な真理も発見することはないだろう。------- しかし、世の中には「聖書を調べる」ということにおいて、あるいは「キリスト教を調べる」ということにおいて、どれほど「地上的な目」がのさばっていることだろうか!

神の神秘的な都市
御聖体に対し失礼な態度をとる司祭たちは、それを真似る信者たちよりももっと批難されるべきです。参照
ドレクセル教授への示現
司祭達ばかりでなく司教達も(…)時代の精神の影響下に入るであろう。(…)天国と恩寵の神秘である超自然を否定することによって、彼らは自然を偶像化する。参照
ベイサイドの預言
現在、私の御子の家にさえ、人類に悪魔の教義をもたらしている多くの神学者達がいます参照
多くの者が、わが体(訳注:御聖体のこと)を、不敬としか呼ぶことのできない方法をもって与えている参照
エクソシズムでの悪魔の自白
しかし今では正にその反対で、現代風のミサでは我々はそこら中で踊り回り、果ては...参照

これらを読んで、
「ああ、カトリックの『聖体』というものは、確かに何か非常に特別なものに違いない」
と思わないとしたら、
あるいは少なくとも
「特別なものかも知れない
ぐらいのことを思わないとしたら、

私は「カトリック教徒」としてでなく「探究者」として言うが、
あなたは目の見えない人である。

しかし、上の引用を読んだあながが直ぐに気づくように(あなたがこれらを信ずれば)、カトリック教会の真実(奥の真実)を伝えようとすると、それを十全に伝えようとすると、必ず同時に、何かしら現在のカトリック教会の難局の部分をも晒さねばならないというのも事実である。

要するに、聖職者達は「超自然」とか「聖性」とかが分からなくなった。そして、「分からない」のであるから必然的に、それを尊ばない。彼らはたとえ人間的には良くても、神様事に関する霊的な視覚を失った。ということだ。

最近の例。2010年11月23日(火)、カトリックさいたま教区司教座聖堂である浦和教会では、司教の臨席のもと、というか司教の指導の下で、主聖堂にて演芸会(落語)を行なった。最も酷い例ではあるが。
霊的盲目は聖職者だけに留まらない(参照

これは、確かに、カトリック教会の「恥」の部分である。「ていたらく」の部分である。情け無い部分である。

では、何故このようなことになったのか? その「原因」は?
それは、大雑把なことを言うようで申し訳ないが、一言で言えば、パウロ六世教皇様もお認めになったように、
「教会のどこかの裂け目から『サタンの煙』が入った」(1972年)
からである。(「サタンの煙」と言っても、もちろん超自然的な事ばかりを言うのではない。その痕跡は、第二バチカン公会議の中に、精神的にも、言葉によっても、見出し得るのである。)

それが真実である。事実である。しかし真実や事実の「全て」ではない。
すなわち、半面においては、上の事はかえって何かの「証左」なのである。
神が最も濃く在す所に、悪魔は最も激しく攻撃を加える
という事だからである。その「証左」である。

誇っているのではない。「事実」をお知らせしているのである。


地球上のあらゆる宗教組織を見渡す時、カトリック教会ほど
悪から激しく集中的に攻撃を受けているものはない。

イルミナティの極秘指令書を見よ。それはカトリック教会に対するものである。もちろん、イルミナティにとってプロテスタントも敵ではあるだろう。しかし、そこにはこうあるのである。
  1. プロテスタントの牧師を結集し、ミサの改訂と非聖化を行え。キリストの現存を疑わせるよう人々を動かし、聖体拝領は単なる食事と象徴でしかないという、プロテスタントの信条にいっそう近づけよ。
  1. 神の母や、聖ヨゼフに対する聖歌を廃止し、プロテスタントの歌に換えよ。
  1. プロテスタントの聖書と同じになるまで、聖書を改訳し続けよ。
  1. 舌によってではなく、プロテスタントと同様、手で聖体を受けさせろ。キリストもそのようにしたのだと言え。聖体の一部を黒ミサ(サタンミサ)のためにとっておけ。

私はプロテスタントの皆さんに言う。

これらはある種の「シグナル」である。
かなり明確な「シグナル」である。
どうしてこれを「見落とす」などということができるのか!?

私はあくまで「探究者」あるいは「観察者」の地点から申し上げるのである。
プロテスタントの人達はどのようにして、
このような明確なシグナルを押入れにしまっておくことができるのか? と。



そこには「現存」という言葉がある。
「聖体におけるキリストの現存を疑わせろ」と。
キリストの御体、御聖体におけるキリストの実体的現存のことだ。

だから、私達は当然、次のような「眺望」を得るわけである。

一方ではイルミナティが、
聖体におけるキリストの現存を疑わせよ。それを手で受けさせよ。
と言い、
他方ではベイサイドが、
多くの者がわが体を不敬としか呼ぶことのできない方法をもって与え、また受けている。
と叫んでいる、そのような眺望をである。
(ベイサイドが気に入らなければ他のものでも良い。幾らでもある。)

人はどのようにしたら、この対応、この一致、この眺望、この全体的な構図、この決定的な構図を -------「見落とす」などということができるのか???
(もっとも、カトリック信者自身が、その大部分が、見落としているのだが!)

イルミナティは「聖体の一部を黒ミサのためにとっておけ」と言っている。
あなたはかつて一度でも、サタニストが「プロテスタントのパンを黒ミサのためにとっておけ」と言っているのを聞いたことがあるか?
ないならば、「それは何故なんだろう」と考えるのが、至当!

  1. 修道服を捨てさせよ。それと一緒に、ロザリオも投げ捨てることだろう。
何故、彼らはロザリオをそんなに憎むのか?
それは女子供が好む単なる「お祈り」の一形式ではないのか?

小さく可愛らしい回心の物語がここにある。
5歳児が彼女の宝物としているロザリオを通じてヒンズー教徒の家族を回心させる


私は何度も強調せずにはいられないが、
私はあくまで「探究者」としての位置から申し上げるのである。
私はかつてニューエイジ思想にも神道系の教団にもプロテスタント教会にも・・・もういいだろう、今まで何度か言ったことである。
とにかく、私の人間としての性質は、今でも「探究者」である。
そんなに優れたものではないとしても。

その立場から言う。
プロテスタントの人達は、このような事をよくお調べになり、
事の真実をよくよく「見分け」られた方が良い。

こんなことを言うのは、この時代、平信徒だけである。
カトリックの司祭が言うと思うか?
参照 「改宗は教会法によって禁じられている


私は、しつこいけど「探究者」の位置から、あなたに申し上げる。
「御聖体」は想像を絶する賜物である。天主様からの、イエズス様からの。
イエズス様は、基本的に(教会的な正しい順序と人間の正しい姿勢のもとに)、それを人間にお与えになりたくて仕方がない。
けれども、あなたがカトリックに関心を持ち、カトリック教会を訪ねると、
司祭は言うかも知れないのである -------
「プロテスタントのままでもいいんじゃありませんか?」

これが今の時代である。
サタンの罠にかかっているからである。

わが子達よ、子供達の両親達よ、これを覚えておきなさい。もしあなた方が自分の子供達を清浄さと神聖さの中で教育することを怠るなら、あなた方がやがて手にするのは悲しみだけである。
  1. この神聖さを現在のわが教会の中に見出せると期待してはならない。
  1. しかしまた同時に、そこから走り去ってもならない。そこに留まり、戦いなさい! わが教会を保ちなさい!
数は僅かとなるであろう。しかし、わが子らよ、質の高い僅かなものがある方が、量の他には何もないよりは良いのである。
- 1977年5月14日、ベイサイドのイエズス(参照

私は 断言 して言うが、これが事の真実、事の全体的な真実である。


カトリック教会に対して、いろんな疑惑もあろう。時には「黒く」見えもしよう。しかし、次のような事も考えてみなければならない。
もしそれが神が地上に据えた「建物」であるならば、その中に混入したサタンの煙によってたとえその内部が幾らか部分的に黒く見えようとも、なおその建物は「神の据えた建物」なのではないか?
このことは、神が人間や教会に付与したところの「権能」ということと関係している。

それはたとえば、カトリック教会内においても、次のようなことが言われる。
(これも或る「示現」からのものである。主イエズスからの御伝言とされる。しかし、このような内容はカトリック神学の中にもあるのだろうと思う。)

司祭に対する非難について
われらの主からムッター・フォーゲルへの啓示

「例え司祭が誤りに陥っているとしても、人は決して司祭を非難すべきではない (should never attack)。むしろ私が再び彼に私の聖寵を与えるように祈りと償いをすべきである。例え彼が私の模範に従って生きていない時でも彼のみが私を完全に代表する!」(1929年6月29日)

「司祭が誤った時は攻撃 (attacks) によってではなく祈りによって彼に救いの手をさし伸べるべきである! 私自身が彼の審判者 (judge) となろう。私以外の他の誰も審判者になってはならない!」

「誰でも、司祭への非難 (judgement) を述べる者はそれを私に向かって述べたことになるのである。子よ、決して司祭が攻撃される (be attacked) ことを許すな。彼を擁護せよ。」(1937年王たるキリストの祝日)

「子よ、決してあなたの聴罪司祭を裁くな (never judge)、むしろ彼のために多く祈り、また毎木曜日、私の祝された母の手を通して(彼のために)聖体拝領を捧げよ。」(1939年6月18日)

「決して再び司祭について常軌を逸した言葉を受け容れるな、また例えそれが真実であっても彼等について不親切な (undkind) 言葉を話すな! 司祭達は皆私の代理者であり、私の心はそれによって不快になり、侮辱を受けるであろう! もしあなたが司祭に対する非難 (judgement) を聞くならばめでたしを1回祈りなさい。」(1939年6月28日)

「もし司祭がふさわしくない状態で聖なるミサを捧げているのを見たら、彼について何も言わず、ただ私にだけそれを告げよ! 私は祭壇上で彼のかたわらに立っている!(…)ああ私の司祭等が何にも増して清らかさを愛し、ミサの聖なる犠牲を清らかな手と心で執り行うよう、彼等のために多く祈れ。例えふさわしくない司祭によって執り行われた時でも、確かにこの聖なる犠牲は一つにして同一のものである、しかし人々の上に呼び下される聖寵は同じではない!」(1938年2月28日)


教会のことであれ、司祭のことであれ、神ご自身が「権能」を付与したものであるならば、私達はそうそう簡単にはそれを「否定」できない、ということなのである。それが私達の目に多少「黒く」見えようとも、「駄目」に見えようとも。

かつて私がカトリック信者向けに作った絵
(プロテスタントの人達のためにも転用できると思う)


【参考】
キリストの教会は「一の檻一の牧者」であらねばならぬ
「聖書のみ」の主義では失敗する
『教皇“その人”』と『教皇の役職』の違い
建物とその中の煙 2


カトリック教会は天主様が地上に設置し給うた「柵」である。
もちろん、その柵の中も乱れるわけだけれども、それでもキリスト者はあくまでその中に居なければならない。
聖職者達に問題があるなら、それを声を挙げて指摘するのは良い。現に私達もカトリック教会内でやっていることである。(すなわち私は上の「彼について何も言わず」には同意し切れない部分があるのだが。) けれども、それによって神の地上に設置し給うた人類に霊益を与える装置、恵みの通路(教導権や秘跡)などをまったく投げ捨てて柵の外に出るのは、一つ決定的な過ちである。あなた自身の霊魂にとって大いなる損失であり、天の悲しむところである。

黙示録の婦人

アルベルト・ドレクセル教授」において「後日触れる」としていた「黙示録の婦人」について。

1. ドレクセル神父への示現の中で「イエズス」はこう言った。
今の時代は迫害に屈しない信仰告白者達を必要とする時代である! 今の時代は、信仰の聖なる火で燃え盛る霊魂達、世界中の至る所で小羊に従う聖なる教会の生徒達、強く、はっきりしており、純粋であり、多くの生ぬるさ、飽食、怠慢、臆病、腐敗、不毛、欺く者と欺かれる者などの存在にも関わらず、聖なる天使の導きの保護のもと、黙示録の婦人の勝利を見んと馳せ参じる者達を必要としている時代である。(1970年3月6日)

2. そして黙示録はこう言っている。
黙示録12:1-5
また、天に大きなしるしが現われた。一人の女が太陽をまとい、その足の下には月を踏み、その頭には十二の星の冠を戴いていた。この女はみごもっており、子どもが生まれようとしていたので、その苦しみと痛みのために泣き叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現われた。それは、七つの頭と十本の角のある巨大な赤い竜であった。その七つの頭には七つの冠を戴き、その尾で天の星の三分の一を掃き寄せて、それを地上に投げつけた。この竜は、子を産もうとしている女の前に立っていた。子どもが生まれたら、それを喰い尽くすためであった。この女は男の子を産んだ。この子は鉄の杖を持ってすべての国民を治めることになっていた。この子は、神のみもとに、その玉座に引きあげられた。

この「女」についてカトリック信者が何と言うかは、少しキリスト教を知っている人なら先刻承知である。そう、それは聖母マリアのことである。

黙示録の言葉は「象徴的」なものであって、故に「多義的」であろうか? そうかも知れない。事実、この「女」に関しても、「それは教会を指すのだ」という意見が、カトリックの神学者などの間にもあるようである。しかし、私は違うと思う。この場合は、ズバリ、聖母のことであると思う。ドレクセル神父への示現の中の「イエズス」が言うように、「黙示録の婦人 = 聖母」であると。

その通りに、古来からカトリック絵画は、以下のように聖母を描いている。聖母は月を踏んだり十二の星の冠を戴いたりしている。















けれども、プロテスタントの人達にはいくらこのような絵画をたくさんお見せしても、「それはカトリックの勝手な解釈に過ぎない」と言われるのがオチであろう。

ではここで、例のやつに行きたい。つまり、人間の精神的な「解釈」とは少し質の違うもの、それとは一線を隔てたもの、このサイトのポリシー(?)であるところの「宗教における第一次的なもの」を見ていきたい。すなわち、誰か今まで、黙示録が言う「太陽をまとい、その足の下には月を踏み、その頭には十二の星の冠を戴いている女」をその目で見、しかもそれが聖母であるという「示し」(示現)を受けた者はあるのだろうか?

これに関して、私は、私が無知なせいかも知れないが、二つの例しか知らない。聖母出現で最も有名なルルドとファチマでも、示現を受けた子供達はそのような形象での聖母は見なかったようである。しかし、二つある。二つでは不足だろうか。それは「不思議のメダイ」と「グァダルーペの聖母」である。

不思議のメダイ
Miraculous Medal

一つは、カトリック信者なら誰でも知っている、非常に有名な示現である、いわゆる「不思議のメダイ」におけるそれである。19世紀の修道女、聖カタリナ・ラブレ (St. Catherine Labouré) に聖母が御出現になり、「不思議のメダイ」の製作と配布を御指示なさったものである。以下、「みこころネット」さんから引用させて頂く。
そして卵の形をした枠が聖母の周りを取り囲んだ。その枠の内側に「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼むわれらのために祈り給え」という金の文字が書かれていた。

カタリナの使命を明らかにする声が聞こえた。
「この型に従ってメダイを刻印させなさい。そのメダイを身につける人は皆大きな恵みを受けるでしょう。メダイは首にかけなければなりません。信頼をもってメダイを身につける人には恵みがたくさんあるでしょう。」
その声が消えると、その絵が反転して裏側が現れた。大きなM字の上に横棒がありその上に十字架が立っている。Mの下には二つの心臓、イエズスの聖心とマリアの御心があった。イエズスの聖心には棘の冠がかむらせられ、マリアの御心は剣で刺し貫かれていた。十二の星が全体を取り巻いていた

つまり、聖母(それが聖母であれば)御自身がそのようにメダイのデザインを事細かに指示されたのである。そうして出来たのがこの「不思議のメダイ」である。

右の裏面の写真に「十二の星」がある。

まあ、正確に言えば、十二の星が取り囲んでいるのはマリアを表わす「M」だけではなく「全体」だが、しかしとにかく、この十二の星が刻印された準秘蹟を人類に与えたのは「聖母マリア」なのである。

このメダイは霊験あらたかなようである。このメダイを身につける者は、聖母が「恵みがたくさんあるでしょう」とおっしゃったように、実際、回心等の多くのお恵みを頂くそうである。これはまた、カトリック教会において「準秘跡」でもある。

今、「霊験あらたか」などという言い方をしたのには、訳がある。私はどうしても、その言い回しを自分の中に持っている人達を、ここで一度牽制しておきたかったw。こう言いたかった。
「神が単に思想の事でなく、現におわすものならば、霊験あらたかなものの一つや二つ、あっちゃいけませんか。」
「霊験」は、悪にとっては「危険」となるようである。
「気をつけろ。メダイについてのその話は、すべて本当のことだ。部屋に置くな。危険を呼ぶぞ。」(参照

グァダルーペの聖母
Our Lady of Guadalupe

彼女は「月を踏んで」いる。

1531年12月12日、メキシコのインディオのマントに浮き出た超自然的な絵ということである。詳しくはやはり「みこころネット」さんの記事を見てください。

次のように考える人も多いだろうと思う。
「この聖母は何故褐色の肌をしているのか。それはカトリック教会が新大陸の先住民たちを改宗させるために彼らと同じ肌の色のマリアをこしらえたからであろう。つまり、この聖母が褐色の肌をしていることこそが、この絵が人造のものであることを証(あかし)している。」
まあ、それはそれとして承っておく。けれども、そのように思う人は、自分がそのような推測のためにこのような事を信じないのではないということにも醒めておく必要がある。そのような人は、聖母が白い肌と青い目を持っていたらいたで、今度は別の推論を立てて信じないのである。心の真相においては、「推測」のために信じないのではなく、ただ初めから心に持っている「結論」のために信じないのである。それぐらいのことはご自分で分かっていてください。


以上の二つが、私がカトリック界に見つけることのできる、「黙示録の婦人 = 聖母」であることを示す「宗教における第一次的なもの」である。

2010年12月30日

偶像崇拝 7

ある個人、ある団体がサタニックであるかどうかを見極めるために「数字」などというものがバカ熱心に足したり引いたり(引かないか)「多少調整され」たりwしながらチェックされる昨今である。だから私も偶像崇拝についての連続記事を「6番」で終らせるわけにはいかない。無理に7番目を書くことにする。(まあ、それは嘘だが。)

偶像崇拝 3」で見たように、
宗教者は「宗教的」であるが故に、却ってこの問題に関して混乱している。
故に【提案その1】
この問題を調べるのに、一度『宗教者』であることをやめなさい

いや、冗談で言っているのではない。
人間は物事をいろいろに考えられなくちゃ駄目だと思う。
いわゆる「凝り固まって」ちゃ駄目だ。

宗教者が「宗教的」な手法・発想を一度スッカリ捨て、
ただ一種「科学的」な手法・発想のみでモノを見る時、見直す時、
この「偶像崇拝」という問題はどういうことになるだろう???

こういうことになるのではないか。
  1. 「イメージに向かうこと」が「天主への信仰」を「妨げる」ことになるなら、それは「害」である。
  2. 「イメージに向かうこと」が「天主への信仰」を「妨げる」ことにならないなら、それは特に「害」ではない。
  3. 「イメージに向かうこと」が「天主への信仰」を「妨げる」ことにならならず、却って「助ける」ことになるなら、それは「益」である。
これは完全に正しい。絶対的に正しい。
仮定法も含んだ話の流れとして、これは当り前であるから。
しかし、当り前に考えることが大事。

では、「妨げるケース」にはどのようなものが考えられるだろう。
  1. 虚しい場合
    「鰯の頭」を拝む場合。「鰯の頭」を拝むことは虚しい。
    「鰯の頭」は天主ではないし、それを表徴してさえいない。
    それは「無」である。
  2. 邪気を受ける場合
    邪霊が「鰯の頭」を利用した場合。それはもう「鰯の頭」ではない。
    それはもう「無」ではない。邪気という「有」である。
この二つのパターンしかないと思う。「害」の生じるケースとして。
他にあるかい?

そして、天主様だって、「裏」もなく禁じの命令をお出しになることはない。
「裏」がないなら紙一枚のペラペラの標語だ。
しかし人間はみんなペラペラの標語を振り回している。


この問題に関してはこれで一応の終りとする。

偶像崇拝 6



こんな意見もある。

彫像などは、例えてみれば、乳児に与える「おしゃぶり」くらいの意味しか持たない。彫像を全否定することは、乳児から「おしゃぶり」を取り上げるようなものであるから、あるいは残酷なことかも知れない。私達は、そのような幼児的な人々には、寛容にしてもよいかも知れない。しかしとにかく、大の大人は「おしゃぶり」など必要としない。「真の信仰は彫像など必要としない」という論理は全く正しい。

これに対する反論の第一は、前回紹介したベイサイドの聖母もおっしゃっておられるように、
「私達は子供達にも配慮しなければならない」
ということである。
何の具体的なイメージもなしに、子供達が「イエス様」を慕うことは難しい。

私達は自惚れるわけにはいかない。私達はすべてかつて「子供」だったのである。親から、社会から、いろいろなもの(良いものばかりとは限らない)を与えられながら、心が形成されて来たのである。
「おしゃぶり」と言いたければ言えばいい。しかし、自分がさもさも立派な「大人」になった気になって、顔に髭をくっつけ、偉そうに「真の」だの「論理」だのと言っている人は、子供だった自分が不幸にして「適切なおしゃぶり」を与えられなかった場合、現在の自分がどうなっていたかを想像することさえできないのである。いや、言い直そう、想像する「必要」を「忘れて」いるのであると。

生きた人間の心を理屈で割り切ってはならない。生きた人間の心をよく理解するのは、理屈っぽくなり、知らず傲慢になってしまった「頭」ではなく、これまた「生きた人間の心」である。「それはおしゃぶりに過ぎない」などと偉そうな事を言っている人に限って、大した弁えもなく、子供達に多くの「不適切なおしゃぶり」を与えながら、ぼんやりしているものである。

そしてまた、私達自身が今も「子供」であることである。私達は実際、今まで社会から多くの「不適切なおしゃぶり」を与えられて来た(もちろん恩恵も受けてはいるが)。そして私達は、自分が今まで受けて来たもの、また今受けているものについて、「適切な影響」と「不適切な影響」をよく振り分けることもできないでいるザマなのである。その意味で、やはり今も頼りない「子供」なのである。自惚れるな。成人である私達もまた、実のところ「目の未熟な子供」なのだ。私達の「内容」は、その大部分が、かなりの程度「環境の産物」なのだ。私達の「状態」は、その大部分が、かなりの程度「川に浮かぶ木の葉」なのだ。どれだけのものを「自分で選んで来た」と言えるのか。そんなことを胸を張って言える人は、ただ自分を ------- 自分の成り立ちを ------- 知らないだけである。

反論の第二は、
「美しい彫像が私達の心に与える影響は、美しい歌が私達の心に与える影響と同じである」
ということである。

それは人間の「情操」に栄養を与える。「情操」と言う限り、それはいまだ「精神的」なものである。しかし、人間においては「精神的」と「霊的」の間に明瞭な境がない。「精神」に善い影響を受ければ、自然、「霊」も引き上げられるのである。少なくともその契機になる。善い刺激になるのである。あんまり「論理、論理」とばかり言っていると、「ブルジョア的な装飾」を一切剥いだ、がらんどうの、北風ピープーの共産主義の街みたいになること必定である。教会の中に、正しい信仰対象あるいは崇敬対象の「形見」としての彫像 ------- それは出来るだけ美しくなければならない ------- があることは、間違いなく「良い事」である。また「善い事」である。

そして、その彫像との「関係の持ち方」については、既に述べた通りである。


私がごく幼かった頃(幼稚園〜小学2年)、おそらくクリスマスに、親の知り合いの或る御婦人が我が家を訪れ、イエス様の御生涯を描いた子供向けの本を私にプレゼントしてくれた。私は嬉しかったと思う。
私は字を読めたのだろうか。私が理解したものが文字から来たものか挿絵から来たものか、今となってはよく分からない。けれど、「イエス様」という人が「みんなからいじめられて、体がぼろぼろになって、天にあがっていった」ことは理解できた。親はその本を早くに捨てた筈だが、私の頭には今もその挿絵が残っている。私はその本をくれた御婦人に今も感謝している。プロテスタントの人だったようだ。

繰り返す。
私の心にはその「挿絵」が残っていたのである。

2010年12月29日

偶像崇拝 5

ベイサイドの預言

前回言ったように、私はこれらの内容を「ベイサイドが言っているから」というので信じているのではない。多くの人が想像するだろうように「頭から、一も二もなく信じている」のではない。私はただ「人は本来、このような啓示がなくてさえ、以下のような事を理解し、それに共感し、同意できなくてはならない」と思っているのみである。それほど、これらの内容は道理に適っている。いわば、少なくとも「人間学」の観点から、非常に道理に適っているのである。

(画像と下線は管理人)
#231 - 聖像、聖遺物、聖画
あなたは、私からうけようとしている証を、聖ひつのなかにおさめなさい。 あなたは、純金の『あがないの場』をつくりなさい。長さは、二キュビット半、はばは、一キュビット半。あがないの場の両方に、槌で打った二つのケルビムを作りなさい。第一のケルビムを、このはしに、第二のケルビムを、あのはしにつくりなさい。ケルビムが、あがないの場の両方に、しっかりと付けられて、それと一体となるようにつくりなさい。ケルビムは、つばさを高くのべて、そのつばさで、あがないの場をおおい、かれらの顔は、たがいに向きあって、あがないの場に向けなさい。
- 出エジプト記 25:16-20

謬見に陥ってはならない
記念碑 (monuments) 、あなた方の聖像を、捨てないでください。多くの人によって促進されている「あなた方がしているのは偶像崇拝である。よって、あなた方はそれらを捨てなければならない」という謬見に陥らないでください。ああ、私の子供達、あなた方はあなた方の国旗には敬礼するではありませんか。あなた方はあなた方の世界の傑出した人々の像をブロンズや石で造るではありませんか。そうであるならば、どうして天国の有力者達のイメージをブロンズや石で造ることができないと言うのですか?
- 1976年12月7日、聖母

取り去ってはならない
私の献身者たち、聖画や聖像を取り去らないでください。というのは、もしそれらを取り去れば、子供達の視線はこの世の物事に取られてしまうでしょうから。その時、私達は彼らにとって単なる記憶、単なる伝説になってしまうでしょうから。
- 1970年11月21日、聖母

聖像を元に戻しなさい
私の御子の家、地上における彼の教会の聖職者達。子供達のために聖像を、信仰の記念碑を、元に戻してもらえませんか? 子供達には安定した基礎が必要なのです。彼らの精神は、心の内に感じつつ天国の人々の存在を知るためには、まだ十分に成熟していないのです。それらの聖像、記念碑が、私の御子の教会に戻されなければなりません。
- 1979年7月14日、聖母


最初の状態に戻しなさい
我が子、そして我が子らよ、次のように知りなさい。私達は世界のあちこちの教会の中を覗いたが、これほど短い期間のうちによくもこれほどまでに我が教会、地上における我が家を破壊できたものだと非常に当惑し、人間の性質というものをほとんど理解しがたいような気になっている。あなた方は我が家を最初の状態に戻さなければならない。私達は、我が教会の中に聖像を戻すことを、主祭壇を戻すことを、そして人々が自分達の神を礼拝するために跪くことができるように、設備を元に戻すことを要求する。しかしまた、これは始まり過ぎず、他にも多くの事がある。我が司祭達、あなた方にはそれができる。そしてミトラをかぶった人達、あなた方はそれをしなければならない。さもなくば、あなた方は速やかに地獄に落ちるであろう。
- 1985年8月21日、イエズス

聖ミカエルを戻しなさい
私の子供達、あなた方は平和と友愛を説きながらもう一つの宗教を樹立しようとしています。それは人間中心主義 (humanism) とモダニズムからなる偽の宗教です。これまでどれだけ多くの警告があなた方に与えられたことでしょうか。それらの勢力に対する警告、地獄から送られる勢力に関する警告が! 信仰の保護者としての、また私の御子の教会の保護者としての聖ミカエルを拒絶しているあなた方聖職者達、あなた方は彼を祈りの中に、また視覚の中に ------- すなわち彼の記念碑、彼の聖像を ------- 私の御子の家、教会の中に戻さなければなりません。
- 1976年6月18日、聖母

家の中に聖像を置きなさい
我が御母はこれまで、世界中至る所で彼女の子供達を集めてこられた。誰も、自らの自由意志で倒れない限りは、倒れることはないのである。我が子らよ、祈りの不寝番を保ちなさい。あなた方の家の中に記念碑を、聖像を置きなさい。準秘蹟を身に着けなさい。何故なら、世界を荒廃させるために今荒れ狂っている悪からの影響を打ち消すために、恵みが必要だからである。
- 1976年6月18日、イエズス

王国についての知識
私の子供達、私達は、多くの人々の家の内部を見る時、不快になり、落胆し、消沈します。私の子供達、今「多く」と言いましたが、それはまさに夥しい数にのぼります。私達はそれらの家庭の中に多くの欠けを見ます。家庭生活は悪化し、腐敗しています。私達は、家庭生活の骨組みが少しずつ崩壊して行くのを見ています。私の子供達、これらの家庭の多くの中に、もはや規律はほとんどなく、神聖さに至っては全くありません。その教育は、控え目に言って、低劣です。
あなた方はあなた方の家の中に、聖画、礼拝のための対象、聖像を取り戻さなければなりません。それらを通してあなた方の子供達が、永遠の王国の存在、またそこに住む霊魂達についての小さな知識を受け取るために。私の子供達、あなた方がそうしない限り、あなた方の子供達は一人また一人と、あなた方の手の中から、次いで御父の王国から、失われてゆくでしょう。
- 1975年8月14日、聖母


神聖な像
私の子供達。あなた方はあなた方の家庭に、また私の御子の家に、記念碑を、神聖な像を戻さなければなりません。あなた方の子供達は今、サタンの作品の上にその視線を投げています。それらは霊魂を破壊するものです。あなた方の家庭に全ての神聖な記念碑、聖像を取り戻しなさい。
- 1973年10月3日、聖母

過去に与えられたもの全て
あなた方は過去に与えられたもの全てのものを利用しなければなりません。準秘蹟、記念碑、聖像。私の子供達、あなた方は、人間本性の中に留まっているなら、誘惑を受け、試みられるでしょう。多くの人は信仰から脱落するでしょう。多くの人は、取り返しがつかなくなるところまで、彼らの霊魂を売り渡してしまうでしょう。
- 1978年2月1日、聖母

聖遺物
罪をあらゆる機会を避けよ。祈りの不寝番を続けよ。あなた方が多年の間、あなた方の子供から、またあなた方の家族から隠してきたかも知れない全ての準秘跡を集めよ。私は「隠してきた」と言う。多くの者がその家庭から、聖遺物のどんな利用も斥けてしまったからである。あなた方の子供達は、彼らがその上に留まらなければならない道を思い出す「よすが」としての聖像と聖遺物を持っていなければならない。あなた方のドアの外の世界は今やサタンの世界である。多くの者はやがて心の悲しみのうちに、天国への道に復帰しようとしても今やあまりにも遅い、と悟るであろう。多くの者にとっては復帰する時間がないであろう。我が子らよ、あなた方の家族に覚悟を決めさせよ。
- 1978年2月1日、イエズス

持っていなければならない
記念碑、あなた方の聖像、それらはあなた方の家庭になければなりません。というのは、家庭の中にそれらを保つ人は、皆、救われるでしょうから。[管理人注1
- 1971年2月1日、聖母

聖職者に接触しなさい
しかし、私の子供達、私はあなた方に重ねて言います。私が過去あなた方に助言したように、あなた方は準秘蹟を身に着けなければならず、またあなた方の家庭に記念碑を、聖像を保っていなければなりません。
また私は、あなた方の母として、次のこともあなた方に頼みます。地上における私の御子の教会の外見を保とうするするこの努力において、降参したり諦めたりしないでください。あなた方は声をあげなければならず、あなた方の小教区の聖職者に接触し続けなければなりません。記念碑、聖像は残らなければなりません。
- 1979年7月25日、聖母

無知
私の声に耳を傾け、私の助言を受け入れる人は、皆、救われるでしょう。
私の子供達。記念碑、聖像を、あなた方の家庭から投げ捨ててはなりません。それらは崇拝の対象ではないのです。私の子供達、私達はあなた方が持っているそれらの記念碑に起因して立ち起こる全ての不満と意見の不一致を見ています。しかしあなた方は理解しなければなりません、偶像や像を崇拝しているとして挙げられる告発の声は、しばしば無知から来るのであると。
私の子供達。そうである理由はただ、彼らが信仰を持っていないということなのです。あるいは信仰を失ったということなのです。それで、彼らは理解することができないのです。彼らのために祈りなさい、私の子供達。あなた方は目の見えない人のことを責めたり罰したりはできません。そうではなく、あなた方は、その人が光に向かう生き方というものを理解し、それを生きることができるよう、その人を助けようとしなければなりません。もしあなた方がその人を見捨てるなら、その人は失われます。
- 1977年9月28日、聖母

崇拝対象ではない
我が子らよ。私は、彼らが地上の我が教会の中で、天使達を、その聖像を、「それは不敬である、それは崇拝対象になっている」と言いながら外に投げ捨てていることを知っている。もちろんそのような考えは真理ではない。しかし彼らはそのような態度を取るのである。これが、私が「位階において最高の地位にある人達でさえ、その多くは、我が教会の基礎部分に穴を空けながら掘り進むネズミのようだ」と言う理由である。彼らもまた裁かれるであろう。
- 1985年7月25日、イエズス

聖像、聖遺物
現代的な彫刻と異教的な創作物のために聖像と聖遺物を投げ捨てることをしてはならない。あなた方の子供達の無垢を護れ。あなた方は最も注意深く、彼らが受ける訓育を、宗教と宗派の両方において彼らが受ける訓育を、見守らなければならない。
我が子らよ。私は、地上における我が家、我が教会において、離教と分裂を望まない。未信者を転向させよ。あなた方の信仰を曲げてはならない。異教、ああ、悲しむべきことに、我が家において異教が容赦され許容されている! ああ、聖職者達、あなた方は私を再び十字架につけようというのか?
- 1979年9月7日、イエズス

視覚的効果
私の子供達。私がかつてあなた方皆に与えた助言、あなた方は常に準秘跡を身に着けていなければならないという助言を思い出しなさい。あなた方の家庭に記念碑を、聖像を保持しなさい。それらは急速に投げ捨てられています。サタンはあなた方から超自然に関する知識を奪いたいのだ、と知りなさい。そして更に、彼らはあなた方の前に懐疑論者、嘲笑者、そして真理を今も探してはいるが一向にそれを見出さない知識人等を置くことによって、自分達の存在をカモフラージュしたいのだ、と知りなさい。
あなた方の子供達を、溢れている全ての悪から護りなさい。子供達があなた方の家から出発する時、準秘蹟によって彼らを護りなさい。彼らの心に毎日信仰を呼び起こすものを保ちなさい。そして、あなた方がその目的を達成するために、あなた方の子供達の心に信仰の真理を保たせるであろう聖像が、その視覚効果が、役に立つのです。
- 1976年11月22日、聖母

洗脳だと? [管理人注2

救われるでしょう
多くの奇跡と不思議なことが地上に起こるでしょう。しかし、それらはサタンからのものであると知りなさい。霊をテストしなさい。サタンは彼の計画を長く隠していられません。ですから、私の子供、そして私の子供達、彼を恐れてはなりません。恐れは悪魔の道具です。さあ、準秘蹟を身に着け、家に聖水を備え、聖像を、記念碑を置くことによって、彼を妨害する準備をしなさい。というのは、私はあなた方に約束しますが、家の中に記念碑を、聖像を置く人は、皆、救われるでしょうから。
- 1977年8月13日、聖母

破壊されないであろう
全ての準秘蹟が身に着けられねばならず、家の中に置かれねばならない。記念碑、聖像が、家庭と教会に置かれねばならない。何故なら、そうすれば、それらは懲罰の試練の時に倒れないだろうからである。家の中に我が記念碑を保つ人は、皆、破壊されないであろう。
- 1973年3月25日、イエズス

斥けてはならない
ああ、私の子供達、世界中に天国からのメッセージを送ることを続けてください。ペースを緩めないでください。最後までやり通してください。そうすれば、あなた方は救われるでしょう。あなた方の家庭の中に、そしてあなた方の子供達の上に、準秘蹟を保ってください。それらはあなた方の鎧です。天国の有力者達の記念碑、聖像を、斥けないでください。それらの記念碑を家の中に保つ人は、皆、救われるでしょう。
- 1976年12月31日、聖母

悪魔的な計画
祈りなさい、私の子供達、この蛇があなた方の家に入って来ないように祈りなさい。家をあなた方の記念碑で、あなた方の聖像で護りなさい。邪悪な勢力が、あなた方の人生から準秘蹟についての全ての知識、また超自然に関する全ての知識を奪おうと、結集しています。それは地獄から上がって来た悪魔的な計画です。
- 1977年8月5日、聖母

保持しなさい
私の子供達。あなた方の生活の中に、聖像を、記念碑を、全ての準秘蹟を保持しなさい。というのは、それらは、あなた方の子供達の霊魂の内に、光を打ち立てるでしょうから。あなた方の神の敵、永遠の御父の敵、また真理の敵である彼らは、一つの理由のために、あなた方からそれらを取り上げようとして配置についているのです。あなた方の聖なる人達、聖人達の存在に関して、そのリアリティーを奪おうとしているのです。
人間は、そのイマジネーションと思考の中で、目に映じない世界の存在を理解することが難しいのです。永遠の御父にお許し頂かない限りは、難しいのです。それは特別なお恵みなのです。
- 1975年11月1日、聖母


戻さなければならない
聖像、記念碑が、神の家の中に戻されねばならない。何故なら、目と心を通して入ってくるものが、霊魂の汚染にも啓発にもなるからである。純粋で神聖な思いを、常にあなた方の心に入らしめよ。何故なら心は、邪悪な霊達が侵入する主要ポイントだからである。
- 1973年11月24日、イエズス

神性を表わす物
準秘蹟を身に着けよ。記念碑、聖像、神性を表わす物を斥けてはならない。何故なら、それらのものを家に保つ者は、皆、救われるだろうから。まことに、まことに、私はあなた方に言う。あなた方が引き返さない限り、あなた方の国は大懲罰を免れないであろう。
- 1974年5月30日、イエズス

修道院から外される聖画
私の修道院で、聖画や聖像が取り外されました。とても悲しく思います。子供達は私のことを忘れました。子供達は全てを忘れるでしょう。聖画、聖像は、神の家に、また人々の家に、戻されなければなりません。
- 1973年12月7日、聖テレジア

死の天使は通り過ぎる
記念碑、聖像は、あなた方の家庭に保持されなければなりません。いにしえの時代にそうであったように、死の天使は、家に記念碑を保持している人々のところは通り過ぎるでしょう。
- 1977年5月18日、聖母

惑わされている子供達
覚えておきなさい、私の子供達、「去る者は日々に疎し」ということを。だからこそ、私達の聖像はあなた方から取り去られ、サタンの建造物に取って変わられたのです。去る者は日々に疎し!
そして今日、果してどれだけの人が、その心の中に私の御子を持っているでしょうか? あなた方の子供達のうち、どれほど多くの子が、惑わされていることでしょう? どれほど多くの者が、既に深い穴に落ちてしまったことでしょう? 禍い、禍い、私の言葉に耳を傾けず、それに沿って行動しなかった両親は禍い! あなた方は苦悶の涙を流して泣き叫び、歯ぎしりすることでしょう。しかしその時はもう遅いのです! もう遅いのです!
- 1974年10月6日、聖母

レプリカ
最も大きなバリアは聖職者達の知的なプライドです。多くの犠牲によって彼らがひとたびそのバリアを取り払えば、そして祈りに戻れば、彼らの目から盲目が取れ、それまでの自分達の歩みの間違いを認識するでしょう。祈りなさい、私の子供達。彼らのために沢山祈りなさい。祈りの力は、御父と共にあって偉大です。
記念碑は神の家に戻されなければなりません。
〔ヴェロニカ - 聖母は聖像のことを言っておられます。〕
子供達は彼らの視線をその上に投げることのできるしっかりした作りのレプリカを持っていなければなりません。というのは、目から入ったものは心に入るからです。そして心に入ったものは成長し、再びそこから出て来ます。しかしあなた方はいったい、あなた方の子供達がそこから罪と堕落と神の知識の喪失を受け取るもの以外の何を、あなた方の子供達に与えて来ましたか。自分の家庭、その家の中に記念碑を保つ人達は、皆、救われるでしょう。
- 1973年9月7日、聖母



そしてやはり、ここでもこの際、悪の側からの照射も受けよう。
(こうしなければならないのは、本来「残念」なことであるとしても。)

まいど、「イルミナティの極秘指令」から。
  1. カトリック教会の守護者ミカエルを、ミサ中であるか否かを問わず、すべての祈祷から、完全に削除せよ。ミカエルのすべての像を取り除け
  1. 神の母や、聖ヨゼフに対する聖歌を廃止し、プロテスタントの歌に換えよ。それは偶像崇拝であると言え
  1. すべての像と天使の絵を取り除け。われわれの敵の像を周囲に置いておく必要が、どこにあるか。
悪は何故そう望むのか?
  1. すべてのラテン語典礼、信心、歌を止めさせよ。それは、神秘と崇敬の気持ちに導くから。
聖像も、ラテン語典礼や信心や聖歌と同様、人の心を「神秘と崇敬の気持ちに導く」からである。あるいは少なくとも「助ける」からである。簡単な話だ。

プロテスタントの人達(の一部?)は「偶像崇拝」という語について深く考えないために、「それは偶像崇拝であると言え」と言うイルミナティのお先棒を結果的に(主観的には善意に違いないが)担がされているわけである。

否、残念なのはプロテスタントの人達ばかりではない。ベイサイドの聖母が嘆いている通りである。

本当に、
プロテスタントの人もカトリックの人も、
ご丁寧にも天国と地獄が、それぞれ反対方向から、
一方は愛情と悲しみから、他方はまったき憎しみから、
しかし見事に同じ事を教えてくれているのに、
さっぱり反応しない!
(by 管理人)



以降、同様の言い回し、「〜する人は、皆、救われるでしょう」が頻出する。
しかし人間というものは、いつも言葉というものを表面的に受け取る。「実際」との絡みでそれを受け取ることが少ない。

たとえば、「カルメルのスカプラリオを身に着け毎日ロザリオを祈る人には救いを保証します」という聖母の言葉があったとしよう。すると、これを見た人はこう考える、「スカプラリオを身に着け毎日ロザリオを祈りさえすれば、他の事はどうあっても、救われるのですか。変ですね」。私は、「おお、人間よ、あなたはどうしてそんなに言葉というものを簡単に受け取るのか」と思う。

まず、あなたがそのような勧めを受け入れ、それに従うということ自体が、あなたにとっては一つの山である筈である。小さくとも ------- あなた自身はよく気づいていないかも知れないが ------- 一つの山である筈である。すなわち、あなたはなかなかそれに同意しない。それに同意し、それを越え、前に進み、実行することをしない。あなたは「そうだ。当り前だ。それが私の意志なんだから」と言うだろう。しかしとにかく、理由の如何を問わず、それはなかなか起こらない。

しかしそもそも、こういうことは「やってみなければ分からない」的なところがあるのである。人はそれをやりもしないうちからその効果を「知る」ことはできない。あなたは、自分がカルメルのスカプラリオを身に着け毎日忠実にロザリオを祈り続ければ自分がどうなるか、自分の霊魂にどんな影響を受けるかについて、それを実行するまでは「知る」ことはできないのである。------- これは「実際的」な問題、そして事柄なのだ。

「家に聖像を持ちつづける人は、皆、救われます」という言葉にしても同じである。そう簡単なことではない。一人の人がある宗教を信じ、聖像を持つことに同意し、聖品を売っている店に足を運び(あるいは今時ならその世界のネット・ショップを覗き)、数多くある聖像から良いと思うものを選び、買い、家のどこかの部屋に設置する ------- という過程は、実際はなかなか一人の人の人生の上に実現するものではないのである。そうして、そのようなことが自分の人生に実現していない人が、それに従ってみた時の効果をあらかじめ「知る」などということはできない。勝手な「想像」ができるだけである。

だから、ただ言葉の表面を見てブツクサ言い、自らは体験しようともしていない事を「変ですね」などと即断するのは、大いに間違っている。



現代の多くの親は言う筈である、「それは悪く言えば子供達への『洗脳』である、『擦り込み』である。それでは子供達が可哀想だ。子供達は親の造形物ではない。人格を持った一個の人間なのだ。彼らには自由があるべきである。自分の道に関する選択権がある筈である」と。

私はここではこれについて深い議論をするつもりはない。ただ、一つのことを指摘させてもらう。それは、「子供達は放っておかれても ------- 人はそれを『自由』な状態と言うかも知れない ------- 常に世間から、社会から、好むと好まざるとに関わらず、洗脳と言えば洗脳、擦り込みと言えば擦り込みを、実際受けるのである」と。子供は「開いた窓」のようなものである。あなたが親として少し積極的にその窓に善いものを提供しなければ、あなたに代わって「自由な社会」が別のものを提供するだけの話である。

特に「視覚効果」というものが人間の霊魂に与える影響を過小評価することはできない。大人だって日々日常的に、それを通して、言ってみれば「擦り込み」をされているのである。

偶像崇拝 4

出エジプト記

第32章
1モイゼがなかなか山からおりてこないのをみた民は、アアロンをとりかこんで、「われわれの先頭をあゆんでくれる神をひとり、作ってください! あのモイゼ、われわれをエジプトの地からみちびきだしたあの男は、どうなったか、われわれにはわからないのだから!」といった。2アアロンは答えた、「あなたたちの妻、むすこ、むすめたちの耳につるしてある金の環をはずして、私のところにもってきなさい」。
3そこで人々はみな、金の環を耳からとりはずして、アアロンのところにもっていくと、4アアロンは、かれらの手からそれをうけとり、鋳型のなかにとかして、鋳物の小牛をつくったが、人々は、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの地からみちびきだした神である!」といった。

何故「小牛」だったのか。
雄牛を崇拝する信仰自体は古代世界では決して珍しいものではなく、例えばメンフィスでは豊穣の神、聖牛アピスを守護神として奉っていた。サカーラにある王家の墓では、地下に埋葬された石棺の中から防腐処置を施された約60頭もの雄牛が発見されている。その各々が生神として扮せられており、傍らには双子の処女が殉葬されていた。こういった風土での信仰が金の子牛のインスピレーションの源泉となったことは容易に察せられよう。 Wikipedia「金の小牛
そうなんだろうと思う。つまり、まったく何も無いところから「神」のイメージとして「牛」を選ぶなどということは、いくら古代の人達でもあり得なかっただろう。やはり先行する異教の伝統における神のイメージが、少なくとも「頭のどこか」にあって、それがその際に浮かび上がって来たものだろう。またそれは、おそらく、民の心が悪霊によって干渉され、誘導され、そのように発想してしまったということでもあるだろう。


前々回と多少重複するが、もう一度。

旧約のその時代においては、神のイメージを造形しようと思っても、神が形を取られたことはなかったから、造形しようにもそのしようがなかった。
だから、無理に造ろうとすれば、「神ならぬもの」の造形になる他はなかった(上のように)。
だから、天主様としては、御自分の民に異教神信仰を厳禁しようとすれば、また邪霊のつけいる隙から御自分の民を護ろうとすれば、「とにかくいかなる像も造ってはならぬ」と命じるのが、手っ取り早いというか、最も効果的で、直截的で、分かり易かろうと思われたのであろう。

けれども、新約の時代においては、神はある意味で形を取られたのである。
つまり、「イエス・キリスト」において。
そして、「イエス・キリスト」は正しい神であるから、そのイメージを造形しても「偶像」とはなりようがなく、また邪霊につけいる隙を与えることにもならないと私は思うが、どうだろう。

少し「実際的」に考えてみよう。
どなたか、カトリック教会が、謂われる所の「カトリックの偶像崇拝」によって、「悪しき実」を実らせているのを見た人はいますか?
え? カトリック聖職者の性的スキャンダル? 「偶像崇拝なんかしているからそんなことになるのよ」ですって?
でも、果して、それらの事態が「カトリックの偶像崇拝のせい」と見るあなたの「連関見ぃ」は確かですか?


私としての第一の解答は、前回も言ったが、これである。
その像が正しい信仰対象あるいは崇敬対象を表わしており、それを指しており、それに向かっており、且つ、それに手を合わせる人が「これは本来物質であり、ただそれら対象の形見である」と理性によって了解していさえすれば、像を仰ぐことも、像に手を合わせることも、何の問題もないものである。
しかし、人々はこんな言い方をしたりする。
「彼らは像を信仰対象にしている」
私は驚いてこう言う。
何だって? 「信仰対象」に? ノー、そんな事は「できない」。
たとえ誰かに強要されようと、たとえ命をカタに脅されようと、そんな事は「できない」。しようと思っても、「できない」。
I CANNOT do such a thing.
何故か? ------- 私の「理性」がそれを許さないからだ

勿論、私が特別に立派な「理性」を持っているからではない。全然違う。
私だろうと、誰だろうと、相当おかしな人でない限り、カトリック信者にはそんな事は「できない」のである。「像を信仰対象にする」などということは。

あなたは人間の心を知らないのか? ◎◎信者だというだけで、自分の隣人がそんなに常軌を逸した人間だと思うのか?

あなたは実際のカトリック信者の心をどれほど知っているのか?
そして、聖母マリアの御像がこれまでどんな「悪い事」をしたのかね。
信仰者のこのような行為、このような姿勢が、
いったい世界にどんな「悪」を為したのかね。
いったいどんな「害悪」を流したというのかね。
「妄想」じみたことを思っているのは、むしろあなた方の方ではないのか?

マリア様の御頭に冠は載ってるわで、そりゃ、ハタから見て「女神扱い」に見えるというのは、私にも分かる。けれども、とにかく私達カトリック教徒の内面においては、「イエズス様に向かう心」と「マリア様に向かう心」はハッキリと違っている。We worship the Son and honour the Mother Most Blessed.
私達は理性によって「イエズス様は天主であり、聖母は被造物である」と知っている。------- ここからどんな「悪」が出て来るというのか?

あなたが、カトリックの別の要素が世界に悪を為しているのだと考えるならば、それはそれで、また別の話である。しかしとにかく、「混然とした印象」でモノを見ることは避けた方がいいと思う。アレもコレも「ゴッチャ」にしつつモノを見てないか? そうだとしたら、それは少しも「見る」ということではない。


そう。おそらく人々は、物事を混然とした印象で受け取っている。
たとえば、カトリックの誤解されて謂われる所の「偶像崇拝」を嫌う人は、同時にカトリックの含む「権威」「ヒエラルキー」のことも嫌うことが実に多いようである。悪くすれば、人はその中に下のもの(写真)と似たようなものをさえ「感じる」のである。
しかし、「権威」それ自体、「ヒエラルキー」それ自体には罪はない。もしそれら自体が悪いというのなら、今直ぐ自衛隊からもそれらを取り払うべきである。
(しかし人間は「それ自体」ということを考えることが苦手なのである。ほとんど常に「イメージの連なり」の中で生きている。)

そして、もし天国にも「権威」やら「ヒエラルキー」やらがあったなら、あなたはどうするのか? 「いや、結構です」と言って出て行くのか?
私の観察するところ、天主様は確かにある種の「権威」である。もちろん「愛」でもあるけれど、同時に「裁き」を行なうお方でもある。「宇宙法則」などではなく「御人格」である。「権威」である。
これが真実だとして、真実だった時に、ではあなたは「いや、権威的なのは嫌いです。結構です」と言って離れるのか? 「神」から?
それは狂気の沙汰である。

「権威」にも「秩序」にも善性のものと悪性のものがあるということである。
両者は確かに、「権威」である限り、「秩序」である限り、外形上似ているところがあるかも知れない。しかし、同じではない。


そして第二の解答。それは、毎度毎度で申し訳ないが、「ベイサイドの預言」の中に存在する。「ベイサイドが言っているから」ではなく、私には、ベイサイドの言っている事が最も自然で分かり易く、そして正しいと思える。

第一の解答は、
像は「形見」であることを「理性」によって了解していさえすれば、それに手を合わせることに何の問題も悪もない。
いうことであった。

第二の解答は、こうである。
「必要な弁えがありさえすればそれは問題ない」ということを超えて、それは必要である。ほとんど絶対的に必要、不可欠である。
信者の家に、そして勿論教会に、それを置くのが天の意向、天主様の御意向、御旨である。
それは「理解され、許される」べきものではない。全く違う。反対に、それを置かないことこそが、天の御旨に沿わないことである。
多くの人は驚くだろう。私がとんでもないことを言っていると思うだろう。が、それが真実である。私は「保証」する。

キリスト者は、プロテスタントであれカトリックであれ、いわゆる「教理」というもので「頭カッチンカッチン」の傾向がある。けれど、何事も柔らか頭で、そして「自分の頭」で考え、そして「心」で探ってみるべきである。
教理ばかりでなく、物事を「実際的」に「観察」し「探る」ことも必要である。
言葉を超えて、言葉以前に、直接モノを見よ、深く見極めよ、というところである。人間としての「心のひだ」が深くなければならない。(偉そう。ごめん)


ページを改める。次へ