2010年12月31日

岡田茂吉氏に関する疑問 3

◎ 彼は聖書を信じる。
一体、最後の審判なるものは事実あるであろうかを、まず決めるべきである。そうして仮にも世界をリードしている文化国民を中心に、数億の尊信者が絶対帰依している、キリストともいわるる大聖者があり得ざる事をあるといって予言するはずはない。もし本当にないとしたら、単なる嘘つきという事になる。
(昭和25年)

◎ しかし「部分的に」信じる。
信者の質問:
「新約聖書」によりますと、イエスが一片のパンをもって何千人に飽(あ)かしめ、なお余った・・・という話がありますがこれは、いかがでございましょうか。

明主様御垂示:
こういうことは一宗の開祖をよくするために後世の人がつけ加えた拵え事でしょう。・・・キリストは偉い人には違いないが、力がなかった。

(昭和23年)
「聖書」は旧新約ともに本当のことは書かれてない。ある程度までは本当だがその先はまだ発表の時ではない。(…)旧約のモーゼも偉いが逃げるとき海を干して渡ったとあるのなんか嘘です。
(昭和23年)

「その先はまだ発表の時ではない」などと勿体をつけてはいるが、おそらく彼はただ信じられなかっただけだろう。彼が彼として「実感」の持てる奇跡は「病気治し」だけだったのかも知れない。彼が聖書のどの部分を信ずるか、どの部分を信じないか、その判断は、おそらくかなり恣意的なものだったろう。

魚とパンの増加の奇跡は実際に起こっただろう。それは四つの福音書すべてで証言されている。(マタイ 14:13-21、マルコ 6:30-44、ルカ 9:10-17、ヨハネ 6:1-15)

岡田氏は(また世の多くの人も)「このような事は一宗の開祖をよくするために後世の人がつけ加えた拵え事」と簡単に思うわけだけれども、まず自分自身をその「後世の人」の位置に置いてよく考えてみるべきなのである。その時、あなたはあなたの愛する教祖の御事を世に広めんとして「一片のパンをもって何千人に飽(あ)かしめ、なお余った」などという話をわざわざ捏造して人々に話すだろうか? 教典に載せるだろうか? そうすることによってより多くの人の心を惹き付け得ると?

あなたがそう考えるのだとしたら -------「人の心」というものについてそのように「理解」し「予想」するのだとしたら ------- あなたは馬鹿である。多くの人はそんな途方もない話は信じないのだから。

あなたが福音書にある魚とパンの増加の奇跡を本当に捏造された話なのだと信じたければ、残る道は一つである、すなわち「昔の人は『多くの人はそんな突拍子もない事を容易には信じない』ということを予想できないほど馬鹿だったのだ」と結論することだ。しかし、私は断言するが、2000年前の人達とてそんな事も予想できないほど馬鹿ではない。彼らは「こんな話はほとんどの人が信じない」と分かっていながら、ただ真実に忠実であるために、ありのままに聖書に書いただけである。それは本当に起こったのだ。

ちなみに、福者アンナ・カタリナ・エンメリックが受けた示現の中にも、その奇跡が真実のものであったことを伺わせる場面がある。ヘロデが主に次のように尋問している。
お前が盲人の目を開いたとか、ラザロを死からよみがえらせたとか、数尾の魚で数千人を食べさせたとかというのは本当か? ------- 何故返事をせんのか。
Is it true that thou hast restored sight to the blind, raised up Lazarus from the dead, and fed two or three thousand persons with a few loaves? ------- Why dost thou not answer?
Ist es wahr, hast du Blindgeborene sehend gemacht, hast du
Lazarus von den Toten erweckt, mehrere tausend Menschen mit wenigen Broten gespeist? ------- Warum antwortest du nicht?


彼は「昼の文明を創造する私としては、一切が分るのは当然である」「これほど絶大なる力をもつ私としたら、何ものも分らないはずはない。信者はよく知る通り、如何なる事を聞かれても、私は答えに窮した事はない」等と言った筈である。しかし彼は、聖書にある奇跡話のどれが「真実」で、どれが彼の言うところの「拵え事」かを判別するにおいて、実際、自分自身でも迷いがあったようである。(これが前回の最後に言った「聖書の奇跡について彼の判断が揺らいだ例」である。)
もし奇蹟が迷信であるとすれば彼(か)のキリスト教も迷信という事になろう。何となればキリストが水を葡萄酒に化し、数十人分の量がたちどころに甕(かめ)に満ちたという事や、盲の眼が開き、跛行者の足が立ったりする等の話は立派な奇蹟である
(昭和23年)
そうして次に言いたいのは宗教史上顕著とされている彼(か)のキリストの奇蹟である。盲の眼を開き、足蹇(なえ)を立たせ、悪人から鬼を追い出し、集った数十人の信徒に水を葡萄酒に化して飲ませた事なども、葡萄酒の件だけは後世誰かが作ったものであろうが、その他はもちろんあったに違いない。
(昭和23年)

このように、葡萄酒の奇跡が本当にあった事なのかどうか、判断が定まらないのである。


彼は自分の力を次のように表現する。
キリストなんかは、奇跡によって病気を治したと、バイブルに書いてますが、それはあったに違いないが、キリストご自分だけで、弟子は出来なかったですね。というのは力が小さかったんですね。ところがメシヤ教(引用注: 世界救世教の以前の名称)の方は、私の弟子がキリストくらいのことをやっているんですからね。そうすると、力の大きさというのは、全然比較にならないんですからね。
(昭和26年)
そこで観音力と言って(引用注: = 観音力はあるが)、阿弥陀力とか釈迦力とかキリスト力なんてありやしないのです。また、力というものは制限がないのです。無限のものです。だからこの頃キリストと同じような奇跡を信者が行うが、そうすると力という点ではキリストは私の弟子くらいしかなかったのです。
(昭和27年)
私に与えられている神力は最高級の神霊であるから、絶対力といってもいいくらいのもので、この力は本当に揮われた者は昔から一人もなかったのである。かのキリストにしろ、言い難い話だが割り合い弱かったのは事実がよく示している。即ちキリストの行なった奇跡といってもご自分だけのもので、弟子達にまで分け与える事はできなかったのである。
(昭和27年)

言うべき事が二つある。

一つは、彼の主張の大雑把さ、がさつさである。彼はしきりに「キリストは自分の力を弟子達に分け与えることができなかった。しかるに私は…」式の主張をするのであるが、彼はまず聖書の『使徒行録』を読んでいないのだろうか。それとも読んでいながらこのような物言いができるということなのだろうか。『使徒行録』の中にキリストの弟子による奇跡が一つでもあれば、「キリストの行なった奇跡といってもご自分だけのもので、弟子達にまで分け与える事はできなかった」などと言わないのが良識であり礼儀であり、更には「公平さ」というものである。岡田氏はそのような事も分からなくなるほどご自分の何かに酔っぱらっていたのだろうか。

そう、酔っぱらっている。
彼はある時一人の者に自分の姿を写真に撮らせたが、できあがった写真が非常に神秘的なものだったというので、次のような言葉を口から発している。

「この時写ったのが空前絶後ともいうべき霊写真で」
「(他に比べて)私の霊写真の何という素晴しさだ」
しかしながら、それがどんなに不思議な写真であろうとも、人類の幸福に直結しないものであるならば、もう少し醒めた目を持っていて欲しいものである。何であれ写真一枚に「空前絶後」などという語を当て嵌めるのは、いささか舞い上がり過ぎというものだろう。ちょうど彼を教祖と仰ぐ或る教団の信者達が、ある頃「金粉が出た。ダイヤモンドが出た」と言っては無邪気に感激していたのと同じような「単純さ」が、彼の心の中にあったのではないか。
そして、彼の言葉の端々にしばしば観察されるのは、「他に比べての自分」という彼の自意識である。

言うべき事のもう一つは、「私の弟子がキリストくらいのことをやっている」だの「力という点ではキリストは私の弟子くらいしかなかった」だの「キリストと同じように奇蹟を行なう者が数十万できている」(参照)だのというのは、明らかに酷い誇張だということである。岡田氏の宗教は立教以来何十年経っているというのか。彼の弟子のただ一人でもキリストの力を持っていれば、今頃その評判は世界に鳴り響いている筈ではないか。しかし実際は、この狭い日本においてさえ評判になっていないのである。(それどころか、彼を教祖と仰ぐ複数の教団から「被害者の会」が立ち上がっている始末である。)


キリストが病者を常に瞬時に癒したことを言わないあなたは公平さに欠ける人である。