2010年10月15日

シグナル

鬼束から出ている各種シグナル(各種?w)
(小さな事と思われるかも知れないけれども)


鬼束のトレードマーク

上のドクロマークは、鬼束とその事務所が鬼束グッズに刻印するのを良しとしている(それは一つの「判断」である)鬼束のトレードマークである。実のところ、私も、これが刻印された初期の頃のストラップを持っている。その頃のデザインはまだ比較的簡素で可愛い(?)ものだったが。とはいえ、持っているには違いないので、私もあまり偉そうなことは言えない。

このマークは、ある時、鬼束がファンにサインしていて、何の気なしにふと描いてしまい、以来、自分のトレードマークのようになったものだという。この「何の気なしに、ふと」というのが、鬼束の無意識の中の何かを暗示しているような気もする。

私は、最近の鬼束を見るにつけても、こういうのはもうそろそろやめた方がいいのではないかと思う。(私は最近のことはあまりよく知らない。今はもう、このマークはやめているのだろうか?)

何故なら、こういうのは、社会的にも、精神的にも、そしておそらく霊的・心霊的にも、決して良くないものだろうからである。


◎ それは圧倒的に「死」と「不吉」を連想させる。


棺桶の上に描かれる通りに。
今や西欧人ばかりでなく、十分、日本人にも連想させる。
何故そんなものをわざわざエンブレムにしなければならないのか?


◎ それはサタニックなアクセサリーにもよく見られる。
 (「それ」とは「それと類似のもの」という意味だが。)


確かに「趣味」の世界のものかも知れない。しかし精神的には、あるいは霊的・心霊的には、「サタニックなものを遊ぶこと」と「サタニズムを信奉し実践すること」の間には、さほど差はないだろう。どちらにせよ、良くない影響を霊魂に受けるだろう。(受ける受けない以前に、こういうものを持ちたくなる心に何かあると思うが。)


◎ それは本物のサタニストとオカルト組織が好むものである。


マリリン・マンソン

スカル・アンド・ボーンズ

一説によると(あるいは公然としたものなのかも知れないが)、マリリン・マンソンはアントン・ラヴェイの「悪魔教会」の正式な「司祭」だそうである。


◎ それはまた、ナチスが人殺しのための旗印に使っていたものである。


そしてナチスはオカルトと無縁でなかった。無縁でないどころの騒ぎではなかった。(トゥーレ協会


鬼束のマークが「良くないもの」であることを言うために、本来、こんなに多くの事例を挙げる必要はなかった。それは圧倒的に、疑問の余地なく、「暗い世界」のものなのだから。普通の人なら、誰に言われなくても、自ら斥けるようなものなのだから。

誤解のないように言っておけば、私は「ちーちゃんのトレードマークはこれらと等しい同じものだ」とは言っていない。「これらは人間のイマジネーションの中でどこかで繋がっているので、影響力として良くない」と言っている。


宗教家が「死を忘れないため」にドクロを使うことはある。


一休さん

聖フランシスコ

けれど、分かるだろう、ちーちゃんの場合、こういうのとは違う。


ナチスのことでは、これも。


ちょっとした遊びでやったに違いないが、しかしちーちゃん、こういうのは人生に対する真面目な態度とは言えない。(それとも、こういう真面目な、sober な意見は、退屈、クソ面白くもない、か?)



これも同様。


鬼束。鬼塚。
むしろ鬼をやっつける(束ねて墓送りにする)側の人達だったのでは?
そう考えて欲しい。
自分が鬼になってどうする。

(このへんの写真は、どれも目付きがおかしい。)

 *

ちーちゃんの上の姿と即結びつけるわけではないが、この種の事柄(霊的な事柄)を考える上での参考として、次のものを掲げる。

欧米には悪魔の祭を「遊ぶ」人達がいる。ハロウィーンはもともと悪魔の祭のようだが、酷い場合は次のようにそれを「遊ぶ」人達がいる。



これは表向きは米国聖公会、つまりキリスト教会のカテドラルだが、実質的には「理解の寺院」というオカルト組織の本部である。ここのクリスチャン達は、とうの昔に自分達の教会がオカルト組織に乗っ取られているのに、それに気づいていない(もちろん気づいた人もいるだろうが)。(既出だが、参照

Good Fight Ministries とローラとのやり取り(「トーリ・エイモス 4」)にもあったけれども、人々は「ジョーク」という言葉に弱い。「これはジョークだ。所詮、遊びだ」と言われれば、「そうかな」と思ってしまう。そこが常に落し穴だ。(「エンターテインメント」という言葉も。)

(しかし、話は違うが、一般的に言っても「ジョーク」は、本当はそれを言う人の本質が最もよく顕われるものだ。何故なら、本人自身も油断しているから。それで、助平な人は始終どこかしら助平なジョークを言い、権力的な人は始終どこかしら権力的なジョークを言い、人を見下げる心のある人は終始どこかしら人を見下げたようなジョークを言う。本人はこう思っている、「これはジョークだ。ジョークに過ぎない」。その通り、それがジョークだ。それはその人の本質を期せずして最もよく顕わす。ジョークとはそういうものだ。人の本質を見るにはその人の口から出るジョークを観察すればよい。)

ドイツにはピェーヒテン (Perchten) という祭がある。



私はこの起源についてはよく知らないが、しかし「人間は普通の神経ではこういうものを決して行なえない」と信ずる。
しかし人間というものは、「ドイツに昔からある伝統的な祭でしょ?」と言われれば、それ以上考えられなくなってしまうようなところがあるのだ。それが常に落し穴だ。

(秋田のなまはげ? あれがどれほど霊的に悪いものか、私は知らない。けれど「精神的」には、確かに悪いと思う。つまり、幼児の精神にとっては、あれはトラウマになるかも知れない。だから私は、あんなもの少しも要らない、無くなって欲しいと思う。あれにどんな益があるというのか?)

私達が思うべきは、何度も言うようだが、「心を潜めて」という言葉だ。社会的・道徳的にもそのような態度でものを見なければならないし、霊的・心霊的にもそうしなければならない。

ちーちゃんには、悪魔、悪霊、悪鬼、これらのことを気楽に「遊ぶ」人達の仲間にはなって欲しくない。


ちーちゃんはこのような人達とは違って、ただ一枚二枚の写真のためにあのような装いをしてみただけだろう。それは私も分かっている。それは軽い遊びだった。ジョークだった。

けれども、そうは言え ------- 私は言い切るが ------- ちーちゃんは霊的な事柄に関して決して敏感でも真剣でもない。霊媒体質であって、霊に振り回されるばかりで、霊的な判別は少しもない。それがあの一枚の写真からも見て取れる。他からも見て取れる。これも確かなことだ。

ちーちゃんは、トーリ・エイモスのような人を見て「気持ち悪い」と思わないばかりか、上のような人達の有り様を見ても、眉をひそめたり、あるいははっきりと「こういうのは良くないと思います」と言ったりは、おそらくしないだろう。自分もあのような恰好ができるのだから。

つまり、私はドクロマーク一つ、ハーケンクロイツ一つを問題にしているのではない。問題なのは、そのように遊んでしまえるちーちゃんの人生に対する脇の甘さ、弁えの甘さだ。それを言ってる。



なんて醜い形相、酷いサイン



(それから、「X」という曲名も、私にはどうも引っかかる。
それはサタニスト達が好むある種の符合ではないのか。)

(それから、カラスも。)

ピラミッドとオリオンも。)

(考え過ぎか)


このように、鬼束の周りには、霊的に不安なマーク、シンボルの類が、かなりある。彼女から、そのような複数のシグナルが出ている。そのどれもこれもが、あまり明るいものではない。(ここには書かなかったが、タロットもまたその一つだ。それは魔術と深い関係があるだろう。)ドクロも、ハーケンクロイツも、鬼の角も、普通の健康な人なら決して自分には引きつけないようなものだ。

ちーちゃん。物事をもう少し真面目に考えた方がいい。

こういう意見は sober であって退屈か?
私は反対だと思う。
sober な人生の中に何も発見できず、「刺激的」な方向に行っちゃう人の方が、本当は凡庸なのだと思う。野の百合を見よ。


そう、野の百合を見よ。

なんでジャラジャラと着飾ろうとする?


店の人に勧められての「試着」でしかないとしても。
これは現在のあなたの何かを表わしている。

また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。(マタイ 6:28-29)

歌手として生き残りたいのだろうか。しかし、たとえ歌手として生き残れても、「自分自身を失ったり、損じたりするならば、なんの益があるだろうか」(ルカ 9:25)。


私の価値観を押し付けはしない。
けれど、このままでは、ちーちゃんは自分で自分の人生を悪い方向へ引っ張って行っちゃうんじゃないですか?