2010年10月18日

“エンターテインメント” 1

「それは “ジョーク” に過ぎない」
「 “エンターテインメント” に過ぎない」
「 “パフォーマンス” に過ぎない」

そのような受け取り方によって、悪しきものがどれほど野放しにされていることか。今回、そのちょっとした一例を挙げる。

まず、一つのビデオを掲げる。見なくても結構。何故なら、この事件についてはほとんどの人が既に知っているだろうし、またこれは前に挙げたエクソシズムのビデオなどよりもずっと怖く、暗く、言葉の真の意味で「絶望的」だからだ。(エクソシズムのビデオは悪魔の存在を感じさせると同時に神の存在をも感じさせるものだった。------- 感じる人には。)

コロンバイン高校銃乱射事件 1/5〜5/5 連続再生
ただ、このビデオは制作物であって、制作者の主観が入っている部分も当然あると考えなければならないのは、勿論のことです。


さて、Wikipedia のこの事件の項には、次のような一文がある。

マリリン・マンソン - 本事件の犯人が愛聴していたアーティストとされ、不条理なバッシングを受けた。(参照

事件の犯人達は幾つかの過激な種類のロックを聴いていたらしい。が、マリリン・マンソンについては愛聴していたわけではないようだ。そういう意味では、この事件でマリリン・マンソンが叩かれることは、確かに不条理、と言うよりも「的外れ」なことだったかも知れない。けれども、Wikipedia の記入者は、おろらくそんなことで言ったのではないだろう。 以下のブルックス・ブラウンと同様の意味で言ったのだろう。


ブルックス・ブラウン (Brooks Brown)


彼は、かつてコロンバイン高校の生徒であり、犯人の二人と同級生であり、近しかった。エリックとは「近し」く、ディランとは「親し」かった(小学一年からの親友であった)。

彼は、この事件が起きた「原因」について、この事件の根底にある「本当の問題」について、以下のように考察している。(「コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー」 pp.22-26 より。途中、反論を差し挟んでみた。)

今高校に通ってるやつらは、何が起こっているのかを知っている。彼らは、世界中の人々が簡単に信じこまされたことより何かもっと大きなことがコロンバインの裏側にあることに気づいている。彼らは、エリックやディランが何者だったのか知りたがっている。毎日学校の廊下を共に歩く人たちと何も変わらなかった2人の少年が、なぜ一変してああいうことをしたのかを知りたいと思っている。

なぜ知りたいかって? 自分たちの学校でも毎日、コロンバインと似たようなことを目にしているからだよ。

こういうことを知りたがるのは、『ドゥーム』みたいなテレビゲームをやっているけど、現実世界で2人の犯人を真似したいとは思ってないキッズだ。彼らはインセイン・クラウン・ポッセのラップ ------- 残虐行為や連続殺人についてのラップ ------- を聴くファンだけど、誰かを殺したいという欲望は持ってない。彼らは、専門家がトーク番組でしゃべり続ける "危険信号" のすべてを表出してはいるけど、まだ問題なく切り抜けている、"孤独の好きな" 少年たちだ。

政治家がテレビや音楽やゲームを非難するのを聞いて、首をかしげている少年たち。彼らは、本当の問題はそこじゃないって知っている。そこにある何か他の影響 ------- エリックとディランをああさせた本当の原因 ------- を感じ取っているし、それが何なのか自分自身に問い続けている。

多くの人々は、自分の手を汚してまでコロンバインの背後にある本当の理由を究明したくないと思っている。本当の問題だったかもしれないことを受け入れるよりも、その場しのぎの解決を信じるほうが簡単だから。

結局、政治家にとって手っとり早く "売り" になるものは何なのかってことだ。それは、世の人々に向かって "あなたがたは失敗を犯した、子供の面倒をもっと見るべきである、次の世代に醜く思いやりのない社会を作り出してしまったことを反省する必要がある" と語ることか?

もしくは、単純に "有害なエンターテインメント業界が子供たちをだめにしてる" と語ることか?

多くの人が好みそうなのは、2つめの選択肢だ。それはテレビの視聴率と政治家への支持率を高めるし、あらかじめ決められた悪人を提供することでみんなの気分を良くしてあげる。自分たちが事件に何か関係しているかもしれないと思うよりも、『ドゥーム』や『サウスパーク』が子供たちをだめにしていると言うほうが、ずっとラクだし。

でも、本当にエンターテインメント業界の責任だと思う? 考えてみてよ。エンターテインメント業界は人々が欲しているものを与えることでカネを稼いでいる。暴力的な映画が利益を生み出さなくなったとき、暴力的な映画は消える。対戦格闘ゲームがその魅力を失う日は、『モータルコンバット』みたいなゲームが消える日だ。10代の子供たちがリンプ・ビズキットやナイン・インチ・ネイルズの怒りの音楽に共感できなくなれば、そういうバンドがレコードを売るのをやめる日がくる。エンターテインメント業界は、消費者に対して馴染みのない、あらかじめ有害な個性みたいなものを押し付けはしない。それらの表現は、普段ぼくらがどう暮らし、どう生きているかを発生源としている。

概して言えば、私もその通りだと思う。けれど、「表現の責任性」ということにおいて、放送倫理ナントカ委員会というのがある通り、マスコミやエンターテインメント業界は一般大衆と同じではない、と見るべきだ。「押し付けなければそれでいい。押し付けさえしなければ、あとは何でもいい」というものではない。表現に「静的な表現」などというものは無い。それは発信する本人の意志・意向に関わらず、見る者・聴く者に必ず影響を及ぼす。人は、自分が何を見、何を聞くかについて、確かに選択権を持っている。けれど、それは「選択権」であると同時に「選択力」でもある。「選択力」の低い人間、たとえば子供などは、大人が注意して有害なものから守ってあげなければならない。これは自明の理だ。

しかしコロンバインの後、音楽業界は最も大きな批判の的のーつになった。エリックとディランはジャーマン・テクノとジャーマン・メタルの大ファンだった。ラムシュタインや KMFDM みたいなバンドがすごく好きだった。エリックは何年もドイツ語を勉強してたから歌詞を訳すこともできたし、他人が自分の聴いているものを理解できないという状態を気に入っていた。エリックは、自分のホームページにお気に入りのバンドの歌詞を引用していた。あいつはいつも学校に KMFDM の帽子をかぶって来た。ブラックジャック・ピザでのあいつの仕事仲間は、あいつが、いつも、 お気に入りのバンドを称賛していたと言っている。

コロンバイン以降、ラムシュタインと KMFDM は、検閲の専門家から見て "悪者" になった。テレビのニュース報道は、ラムシュタインの歌詞 ------- "お前は校庭にいる/殺しの準備は出来た" ------- を抜き出した。

でも音楽は、みんなに人を殺せと教えてはいない。音楽は、それが怒りであろうと、悲しみや、思いやりや、幸せやユーモアであろうと、感情を作り出すだけだ。人々が自分たちの感情をどうするかは、その人自身にかかっている。音楽はみんなに何かをしろなんて言わない。

馬鹿を言うな。そんな、おおっぴらに皆に「人を殺せと教える」音楽なんて、あるわけないじゃないか。
それに、それらが確かに「感情を作り出す」と言うのなら、それだけで、ある種のものの場合、その弊害は十分ではないか。「作り出す」んなら。
「人々が自分たちの感情をどうするかは、その人自身にかかっている」などと言うが、「選択力」については上に言った通りだ。

インセイン・クラウン・ポッセ (ICP) を、その歌詞がセックスや殺人、残虐性とかブラック・ユーモアに汚染されていると非難した人もいた。でも、ICP は自分たちを上手に表現しているだけだ。彼らは道化のメーキャップをしているんだ。彼らが言わずにいられないことを真面目に受け取ってしまうのは、受け取った自分に何か問題があるってことで、ICP の責任じゃない。

マリリン・マンソンは左目に25ドルの白いコンタクト・レンズを付け、ステージ用の衣装を身につけている。彼らはエンターテイナーなんだ。マリリン・マンソン、ICP、そしてラムシュタインにはすごく強力なメッセージを持った歌もあるけれど、彼らは世界を変えようなんてしてない。彼らは思ったことを書いているだけだ。

マリリン・マンソンも「エンターテイナー」なのか。ビックリだ。
マリリン・マンソンは「左目に25ドルの白いコンタクト・レンズを付け、ステージ用の衣装を身につけている」から、「エンターテイナー」なのか? 君の目にはそう見えてしまうわけか。少し単純過ぎやしませんか。
それに、「エンターテインメント」というのは、本来、ポジティブな、明るい言葉だよね。「人を楽しませる」ってことだから。では、ブルックス、君はマリリン・マンソンの中に、何か「人を楽しませる」要素を見出すのか? あるいはこう言うだろうか、「いや、あれは人を "楽しませる" というより、どちらかというと "ガス抜きさせる" んだろうね」とか。では、「ガス抜きさせる」という要素がありさえすれば、その音楽は良いものなのか? そして、本当にマリリン・マンソンの音楽は人々に「ガス抜きさせる」だけか?

じゃあなぜ彼らの音楽はそんなに暴力的なのかって? 単純だよ。ぼくらの社会はその中に暴力的な文化を宿してる、もっと言えば社会そのものが暴力的文化で、音楽はその反映だってことだ。

私達の社会が多かれ少なかれ暴力的なものだっていうことでは同感だ。けれど、それは「多かれ少なかれ」であって、決して「全て」ではない。
そして、音楽はあくまで何かの「反映」などではなくて「表現」だ。湖面に映る樹々のようなものだけが「反映」する。しかし彼らは樹々ではなく人間だ。人生の中から自覚的・意図的に「選ぶ」ことをした上で自覚的・意図的に「表現」している。「反映」なんかじゃない。それは「行為」だ。それ故「責任」を伴う。

アイン・ランド【ロシア系アメリ力人の女性作家】がかつてこう書いていた。「肺結核とは、その症状への手当てを制限することによって戦わなければならない ------- つまり、咳や高熱、体重の減少はもちろん治療しなければいけないが、大もとの病原菌を刺激しないために、その原因や患者の肺にいる菌に触れたり、考えたりしてはいけないと言う人間のアドバイスに従えるだろうか? 同じことを政治に適用してはいけない」。

音楽も同じことだ。それは原因ではなく症状なんだ。暴力的な音楽は単にある日現れて、世界に暴力を解き放ったんじゃない。社会でそういう種類の音楽を魅力的にさせる何かが起きているから、社会が暴力的な音楽を作り出した。

これも同様。音楽は「症状」なんかじゃない。表現者の意志的・意識的行為だ。
そして、たとえ表現者に優しく(?)してみて、それがある意味で社会の「症状」と言えるとしてみても、症状がまた原因に循環するんだ。感情の表現は静的なものじゃない。感情の表現は感情の「感染」や「増幅」をもたらす。

より重要な問題はこうだ。社会にこういう種類の娯楽を欲しがらせるのは、何が起きているからなのか? 暴力的なゲームを魅力的にしている現実の世界で、キッズは何が起こっているのを見てるのか?

キッズはニュースで毎日、大人たちが日常的に人を殺し、レイプし、お互いに盗み合うような暴力的な世界に、自分たちも暮らしているのを見る。現実の生活(リアル・ライフ)はハリウッドやゲーム制作会社が提供するものよりずっとひどい。

(…)

今日のキッズは "盲目の人が盲目の人を導いている" としか表現しようのない世界で育つ。

「より重要な問題」ということでは、その通りだ。けれど、それは他の原因 ------- というより「誘因」------- が何も無いということを意味しない。

コロンバイン高校のこの事件の第一の原因、発端は、勿論、いじめだよ。相手の「人格の尊厳」というものを厳格に尊重しないことが、原因であり発端だ。「自分が他者(ひと)からして欲しくないと思う事は決して他者にするな。反対に、他者からしてもらいたいと思う事、してもらったら嬉しいと素直に思える事を、他者にもしてあげなさい」という、いわゆる「黄金律」みたいなものを、本質的なところで(つまり、「教える」意図がある場合の「外面的厳しさ」は別としなければならないと思うけど)、人々が厳格に守らないからだ。

(こういうビデオを貼り付けて、私自身がその「黄金律」を破っていると思われるかも知れない。けれど、あえて表示する。このように人の尊厳を傷つけ、屈辱を与えることは、ある意味その相手の「生命」を奪うことと等しい、と思うからだ。大袈裟ではない。こういうことで「自殺」する子もいるのだ。)

そして第二の原因は、いじめられ、屈辱を感じていた彼ら(犯人達)が、自分の弱さを強さに変えるために、他のいろいろなものの「力を借りた」ってことだ。銃やナイフを身に帯びることで、ヒトラーに傾倒することで、映画の人殺しの主人公に自分を重ね合わせることで、怒りを突き上げるロックと同調することで、彼らは「強く」なり、自分に「力」を感じるようになった。幻影だろうと何だろうとね。

第一の原因を突つかないで第二の原因ばかりを突つくのは、そりゃ片手落ちってもんだ。けれど、とにかく第一の原因ばかりがあるんじゃない。もし第二の原因、というより「誘因」がなかったら、彼らは高校を卒業するまで屈辱にまみれたままだったかも知れないが、その代わり、殺人に「踏み切る」ことも無かったかも知れない。第二のもの、誘因が、彼らの「背中を押した」んだ。

それから、第二のもの、誘因の中には、もちろん「霊的」なものもある。人間は肉体と精神だけで出来ているのではなく、霊魂でもある。むしろそれが本体だ。そして霊界には「悪魔・悪霊」がいる。そして地上には、遊びで、あるいは本気で、悪魔を崇拝する連中がいる。言わば悪魔・悪霊の「悪念を取り次ぐ」者達だ。遊びだろうと、本気だろうと、彼らはそれを取り次ぐ。遊びだろうと、本気だろうと、霊的には同じ害毒を流す。これこそが大事なポイントだ


マリリン・マンソンは言ったそうである。

「俺が表現しているものは恐怖だ。そのことで誰にも遠慮はしていない。」(Wikipedia

では、何のための「恐怖の表現」なのだろうか。この世から恐怖が無くなるように、との祈りをこめてか? どうもそうは見えないのだが。それとも、「表現に目的など要らない。描くことが全てだ」というのか?

そして、マリリン・マンソンはおそらくアントン・ラヴェイの弟子だろう。少なくとも「意気投合」しているだろう。



ちなみに言えば、アントン・ラヴェイは言ったそうである。

As a Satanist I do believe in the God of the bible but I refused to worship him and made a conscious decision to worship Satan instead.(参照

マリリン・マンソンはフリーメイソンの指輪をしている。


だから、何故、彼がただの「エンターテイナー」であり得るのか。


ノルウェーのダークスローン (Darkthrone) というブラックメタル・バンドのメンバー、フェンリッツ (Fenriz) という者は、もっと正直である。

「俺が何より好きなのは、ステージから憎悪を広めることだ。オーディエンスを煽り俺たちの代わりに汚い仕事をさせてやりたいのさ。」(参照

こういう者も居るということだ。このような者は「自分の感情を上手に表現しているだけ」なんかじゃない。ある感情を、地獄からの真っ黒い悪念、憎悪を、人々に「感染」させ、「伝播」させ、「煽り」、「増幅」させ、出来れば社会全体に「蔓延」させたいと願っている。
エリックやディランは、ある意味可哀想に、このテの者達の目論見通り、このテの者達の「代わりに汚い仕事をさせられて」しまったんじゃないのか? 私は、霊界事情からすればその通りだろう、と思う。

そして、このテの連中の中にはこのような正直者(褒めているのではない)ばかりが居るわけではない、ということも覚えておかなければならない。

え? そもそも上のような言動も「パフォーマンス」なんだって?
このような言葉も "話半分に聞く" ことが「理解力の証」なんだって?
なんてお人好しなんだ! あるいは「能天気な自惚れ」と言うべきか!
そんなことを言うなら、私はもう何も言うまい。


というわけで、みんな、いつまで、「ジョーク」、「エンターテインメント」、「パフォーマンス」という言葉に騙され続けるんだ?