infection の PV を詳しく見てみた
的(まと)は鬼束である。鬼束の霊魂。PV ではない。目的は、PV をいろいろに分析してみて遊ぶことではない。的は鬼束の霊魂である。
PV の発案に鬼束がどれくらい関わっているか、分からない。言われたように動くだけのただの演者、受け身の演者だったかも知れない。けれども、とにかく彼女も関わってはいる。自分の演ずる PV から影響を受けない筈はない。だから、もう少し見ていこうと思う。
infection の PV をほとんど「コマ送り」しながら調べてみた。すると、今まで見えていなかったものが、見えてきた。と思う。この PV がどのような物語なのか、分かった。と思う。
そう、それはかなりしっかりした、歌そのものとは直接の関係のない、固有のプロットを持った「物語」であった。鬼束の歌に気を引かれつつぼんやりと、且つ「この PV と鬼束の歌は当然関係があるだろう」という大間違い(先入観)を犯しながら見ていたのでは分からないことであった。
この PV は物語である。けれど、時系列順に述べられていない。つまり、一つの「まとまり」を持った各部はトランプのように切られ、各所に散らされている。それによって、まあ、この映像作品が印象的なものとなっている。しかし、散らされたものを拾い、まとまりはまとまりとして復元してみて初めて、この物語の持つテーマが浮かび上がって来る、そんなところがある。
「コマ送りしながら調べてみた」と言ったが、中にはほとんどサブリミナルのように1コマしか入っていないようなものもあった。
以下、この物語の持つ大きな要素(まとまり)を示しながら、紙芝居ふうに表示してみる。
まず初めに、次の画像を特別に大きく示しておかなければならない。
これは、或る「霊的啓示」の物語である。
そして、次の二枚も示しておこう。
そして、次の二枚も示しておこう。
この、鬼束扮する主人公が何者かに寄り添っているシーンと、銀のカリス(ミサで使う祭器)を思わせる器の中に彼女の血の涙が落ちるシーンは、オープニングとエンディングの両方に挿入されている。重要でないわけはない。
なお、この PV の中には、クリスチャン、特に「ミサ」を持ったカトリックの方々の心を傷つけ、不快にする、不遜な、ふざけた、身の程知らずの表現が、幾つか、あるいは全般的にあります。このようなものを表示することを、ここにお詫びしておきます。
1
物語の発端(啓示)
ある日、その女性は森の中を彷徨っていた。何かを求めていたのだろうか、それとも何かに「呼ばれた」ような気がしたのだろうか。 | |
彼女はまばゆい光に打たれた。 | |
思わず手をかざした。 (その手はなぜか汚れている。) | |
その手に光が一段と強く当たる。 | |
彼女は何らかの霊的啓示を受けた。 |
2
苦悩、葛藤
さて、後日、彼女はある邸宅の一室で物思いに沈んでいた。しかしこれは単なるメランコリーではない。彼女には具体的な苦悩の種がある。彼女は今、ある重大な局面に向おうとしている。それで葛藤している。 | |
彼女は窓から外を眺める。 おそらく、夫と子供のことを思っているのだろう。 (ここは自宅ではない。) |
3
穢れ
彼女は自分の汚れた手を見る。 | |
一瞬、森での経験が蘇る。 | |
気のせいか、僅かに手の汚れが薄まったような気がする。 |
4
光
彼女は「その時」のための準備にかかる。 でも、まだためらいがあり、自分の姿をじっと見つめる。 | |
うなだれる。 | |
何かに気づき、驚くような顔をする。 | |
光! | |
思わず顔を覆う。 | |
光!! | |
その時、この世と彼女の間を遮るかのように、彼女を誰にも渡すまいとするかのように、一つの手が現われる。 |
5
何気なくこういうカットが挿入されているが、これも「闇から光へ」を暗示したものだろう。 | |
6
やがて、廊下に二つの人影が現われる。 | |
二人の「巫女」である。 実は主人公の女性は、これから、ある犠牲を払い、自分を「ある者」に捧げようとしている。二人の巫女は、それをアシストするためにやって来た。 | |
これ自体儀式に見えるが、そうではない、これは下準備である。布で手をぬぐっても「穢れ」が落ちるわけではないが、「その者」への敬意のため、これを行う。 (あるいは単なる象徴的な表現) |
と思ったが、違う。私は今気づいた。鈍いことよ。
これである!
「キリストの磔刑」の模写だ!
鬼束、不遜である。キリスト者でない者に言っても仕方がないが、不遜である。
もちろんこれは、「血の涙」や「カリス」と同じように、この物語における「犠牲」を暗示しているわけだが、また、非キリスト者がこのような物語のプロットにおいて一つの表現としてこのようなことを行うのは一見問題ないようにも一般の人には思われるわけだが、しかしとにかくこの PV の発案者がキリスト教についてまともな感覚を持っていない、キリストに対して然るべき敬意を持っていないことは明らかである。何故なら、もしキリスト教に対してまともな感覚を持っているならば、もしキリストに対する然るべき敬意を持っているならば、「血の涙」(キリストは実際ゲッセマニの園で血の涙を流され給うたのだが)、「カリス」、そして「磔刑」を、世俗のポピュラー音楽の PV などに利用できるものではないからだ。そして、しかも、この PV 発案者、構想者は、そのような尊ぶべき聖なるものと、事もあろうにオカルトの入会儀式の作法とを、一つの囲いの中に共存させているのだ! こんな冒涜的なことがあるだろうか!(クリスチャンではない一般の読者には我慢して聞いてもらいたい。)
この PV 発案者は、日本人か? 「血の涙」、「カリス」、「キリストの磔刑」を、こんなにまで意識している。そして、オカルト、魔術の匂いもする。
ちなみに、一部のオカルト組織では「女性の磔刑像」を好むらしいことも、ここに付記しておく。
元に戻ろう。
黒いマントの裾を階段に這わせながら、上階から何かが降りて来る。 | |
待機していた二人の巫女はそれに気づき、顔を上げる。 | |
彼女は目隠しをされ、巫女の後をついて行く。 | |
夫と子供がやって来る。 夫の顔は、彼女の手と同じように、どす黒く汚れている。(彼女の目にはそのように見える。) | |
彼女は別れを泣く。 | |
夫は別れの手を振り、 | |
彼女も振り返りつつ、 | |
しかし背を向け、進む。 | |
彼女は決められた場所に到着し、何かを待つ。 (あるいは既に事が成就され、放心しているのだろうか。) | |
事は成就され、巫女が旗を振って祝う。(これ?) | |
全てが終り、彼女は目隠しを外す。 | |
苦しい試練だった。 血の涙を流すほどの。 | |
それは「犠牲」であった。 しかし、そうであってこそ、 | |
彼女は「その者」と『結婚』できたのだ。 | |
今後、「その者」は常に彼女に寄り添うであろう。 (その者は邸宅の上階から降りて来た者である。しかし人間ではない。) |
以上の解釈がたとえ制作者の考えた筋と少しばかり違っていようと、それが何だろうと思う。細かなところは違っているかも知れない。けれど、おおよそのところ、本質的なところは、間違っていないと思う。