2010年9月21日

芸術の使命

infection の項で書いた「表現者の使命」とか「表現者の社会的責任」とかいったものについて、早めに書いておきたい。

早め? だけど、早めだろうが遅めだろうが、ちーちゃんには届きそうもない。
しかし、そんなことには構わず、宙に向って、あたかもちーちゃんに届くかのように、書く。


私はいつも思うのだけれど、ちーちゃんも、もう少し早いうちから、もう少し左脳を使うことも覚えるべきだったんだ。(こういうのって、「言っても仕方がない」部類のものか?)
「普遍的」とか「客観的」とかいうことは、ちーちゃんの中にはほとんど無いのじゃないか? 思うに、それらをももう少し相手にすべきだったんだ。感性的なものばかりでなく理性的なものも。文章で言えば、詩文のようなものばかりでなく散文的なものも。

ちーちゃんは頭がいい筈なのに。

「国立大に楽に入れるだろう」という高校の先生の証言を、私達は聞いている。

だけど、たとえば -------「正義や現実など今更 何にもならない」(call) 。
この宣言は(もしこれが鬼束ちひろ自身の宣言ならだけど)、要するに「理性を振り捨てて」いる態度だよね。正義や現実を捉えるのは理性なんだから。

私は call のこの部分を聞いた時、子供っぽいんじゃなかろうか、と思った。けれど、なにぶん彼女がこれを書いたのは17歳の時だったということを思った。ある意味、幼くて当然かも知れない、と。
けれど、ちーちゃんは、実は今に至るまで、基本的にこれなのかも知れない、と思う。


さて、「表現者の弁え」について、ある一文を提出する。

この文章が「誰」の筆になるものか、あるいは「どの種の者」の筆になるものかは、問題としないで欲しい。ただ純粋、単純に、内容だけを吟味して欲しい。

とはいえ、ここには「宗教」という語がある。私はちーちゃんが宗教というものをどのように考えているか知らない。この文章は、ちーちゃんの目に、そして多くの現代人の目に、人間に対する見方があまりに単純で、「道徳的」で、それ故「浅薄」で、「皮相」で、「硬直的」で、面白くない、と映るかも知れない。けれどとにかく、願わくは、参考にして欲しい。いつか、ここから何かが始まるかも知れない。

文中に、「出鱈目」とか、「自分は特別の人間であるかのように思い」とか、「増長慢」とかいう言葉があるけど、私はちーちゃんがまさにこれだなどと言いたいのではないから、そこは誤解しないで欲しい。
しかしそれでも、あなたにおいても、他の誰においても、このような事は己れに「無関係」ではない筈だ。そのような意味で、参考として提示します。


芸術の使命

凡そ世にありとし凡ゆるものは、それぞれ人間社会に有用な役目をもっているのである。所謂天の使命である。

勿論、芸術と雖もその埓外ではない。とすれば、芸術家と雖も社会構成の一員である以上、その使命を自覚し、完全に遂行する事こそ真の芸術であり、芸術家の本分でもある。

ところが、今日一般芸術家をみる時、そのあまりに出鱈目な行動に呆れ返らざるを得ないのである。勿論中には立派な芸術家もないではないが、大部分は自己の本分を忘れていると言うよりか、全然弁えていないと言った方が当たっていよう。しかも彼等は自分は特別の人間であるかのように思い、自己の意志通りに振る舞う事が個性の発揮であり、天才の発露であるという考えの下に、気儘勝手な行動をし、恬として恥じないのであるから始末がわるい。また社会も、芸術家は特殊人として優遇し、大抵な事は許容しているというわけで、彼等は益々増長慢に陥るのである。

ところが芸術家たるものは、一般人よりも高い品性を持さなければならない事である。それを宗教を通じて解説してみよう。

抑々、人類の原始時代は、獣性が多分にあった事は事実で、野蛮時代から凡ゆる段階を経て、一歩々々理想文化を建設しつつある事は、何人も疑うものはあるまい。この意味において文化の進歩とは、人間から獣性を除去する事である。故に、その程度に達してこそ真の文明世界である。しかしながら、今以て人類の大部分は、戦争の脅威に晒されているので、それは獣性が未だ多分に残っているからである。故に、この獣性を抜くべき、重大役目の中の一役を担っているのが芸術家である。

とすれば、芸術を通して人間の獣性を抜き、品性を高める事である。勿論文学を通じ、絵画を通じ、音楽、演劇、映画等の手段を通じて、その目的を遂行するのである。それは、芸術家の魂が右の手段を媒介として、大衆の魂に呼びかけるのである。分かり易く言えば、芸術家の魂から発する霊能が、文学を、絵画を、楽器を、声を、踊りを通じ、大衆の魂の琴線にふれるのである。つまり、芸術家の魂と大衆の魂との、固い連繋である。故に芸術家の品性が下劣であれば、そのまま大衆も下劣化する。芸術家の品性が高ければ、大衆の情操も高められるのは当然である。

ここに芸術の尊さがある。言い変えれば、芸術家こそ、魂を以てする大衆の指導者であらねばならないのである。

この意味において、今日の如き社会悪の増加も、その一半の責任は芸術家にあると言っても、過言ではあるまい。

見よ、低俗極まるエロ、グロ文学や、妖怪極まる絵画や、低劣なる芸術家が発する声も、奏する音楽も、劇、映画等も、心を潜めてよくみれば、右の説の誤りでない事を覚るであろう。


「文化の進歩とは、人間から獣性を除去する事である」などという言い切り方は、きっと多くの人には「単純過ぎる」と映るでしょう。分かります。けれど、これは言葉の問題かも知れません。この人の言う「獣性」とは何かをもっと知ってみれば、このような一見単純な言い切り方も真理と遠くないかも知れません。

書き手の名を伏せておくのは必要なことでも健康的な(?)ことでもないから、言うけど、これは世界救世教を立教した岡田茂吉という人の文章です。
私はその宗教を信じているわけではないけど、この内容それ自体は実に立派なもので、「表現の自由」が半ば神様みたいになっている私達の国の中で、私達が一度はよく考えてみなければならないものだと信じます。