2012年5月2日

ラ・サレットが言っているのはUFOのことである

もちろん「UFOだけのことを言っている」という意味ではない。
しかし、幾つかの言葉は確実にそれのことを言っている。
ラ・サレットの預言の詳細については次の場所をお勧めする。
http://fsspxjapan.fc2web.com/maria/lasalette.html
以下、預言の日本語訳は上の聖ピオ十世会のものをお借りし、
英語訳は ココココ にあるものをお借りした。
“空中” と “地上” で
大気中と地上で最も驚くべき不思議な事が起きる時がやって来たからです。
because the time has come when the most astonishing wonders will take place on the earth and in the air.  (10)
空中で  In the air
ビデオ 東京 福島その他
 
地上で  On the earth
ミステリー・サークル
UFOは「空中での不思議」である。「空中での不思議」をUFO一つに限定するつもりはない。けれども、UFOは最も大きな「空中での不思議」である。
そして、ミステリー・サークル(Crop circles)は「地上での不思議」である。「地上での不思議」をミステリー・サークル一つに限定するつもりはない。しかし、とにかくそれは、少し前の時代の人々なら想像だにしないような、大きな「地上での不思議」である。
“空中の悪魔共”
空中の悪魔共は反キリストと共に地上と空中で大いなる不思議を行い、人々はますます堕落していくでしょう。
The demons of the air with the antichrist will perform great wonders on the earth and in the air, and men will corrupt themselves more and more.  (29)
「悪魔共は地上と空中で大いなる不思議を行なうでしょう」ではなく「空中の悪魔共は…」となっていることに注意しなければならない。こういうのは意味もなくただ何となく言われるものではない。話者(預言の源泉)がこの言い方を選んだのには理由がある。
話者が言っているのは次のようなことである。
反キリストの働きが活発になる時、悪魔共は地上と空中の両方で不思議を行うが、それを行なうのは「空中の悪魔共」である。
UFO
「UFO・宇宙人」と「悪魔・悪霊」との間には強い関連があるらしいことを、前々回前回で見たのである。
そして、今回の「空中の悪魔共」である。
UFOの主要なる活動領域は「空中」である。
私には、空中の悪魔共 = UFO 以外、考えられない。
ミステリー・サークル
「ミステリー・サークルはUFOが作っているものだ」という説がある。
それらしきビデオも存在する。(このビデオは捏造だったという説もあるようだが、どうなのだろう。東京福島その他 のUFOと似てないか。)
以前、西欧人のグループが色々な道具を持って畑に入り、人間でもミステリー・サークルを作れることを証明したことがあったが、それで全てを説明するには無理がある。
堕落
ラ・サレットの預言は「人々は空中の悪魔共の演出する不思議から影響を受けることによってますます堕落していくだろう」と言っている。この「ますます堕落」というのは、知的にも霊的にも「ますます真の神から離れる」ということだろう。実際、西欧世界(キリスト教圏)では、人々の心の中にそのようなことが起こっただろう。つまり、かなりの数の人々が、UFOやミステリー・サークルを見ることで、異教や新しい人類創造論などの方に導かれたのである。UFOやミステリー・サークルへの関心と云えば、日本では子供っぽい関心としか思われない向きがあるが、なかなかにそうでない、無視できない影響力を人々の心に及ぼしているのである。西欧ではキリスト教的発想の破壊に一役も二役も買ったであろう。(結論的に言えば、これらは悪霊の誘導である。)
これら全てを念頭に置く時、上の預言の言葉が「UFO」や「宇宙人」について言っていたものであったことは、かなり明らかである。
まだ足りないだろうか。しかし、次で、その可能性はあなたの目にも俄然高くなるだろう。
“運ばれる”
これらの闇の霊は自然に対して大変大きな力を持つでしょう。これらの霊に奉仕する教会も出てくるでしょう。これらの悪しき霊により、或る人々は一つの場所から他の場所に運ばれるでしょう。
they will have a very great power over nature: there will be churches〔別の英語訳では temples〕to serve these spirits. Some persons will be transported from one place to another by these bad spirits...  (12)
上の言葉が何かの比喩だと思うなら、原文あるいは訳文で前後関係を確認して欲しい。それらは隠されていない。
しかし、前後関係を読んでも、これを比喩とすべき理由は特に見えてこないだろう。ここは素直に読むべきだろう。
「transport」という語が使われている。そして「place」。だから、これは「人々のを転換させる(背教させる)」といったような意味ではなく(そんな読み方をする人は居ないかも知れないが)、正に「人々のを運ぶ」ということだろう。
しかし、そのような事は、今、それほど「非現実的」な話だろうか。何故なら、「UFOアブダクション」なるものは、兎にも角にも「人が運ばれる」話だからである。
結論
以上、それ故、ラ・サレットの預言が「UFO」や「宇宙人」のことを言っていたということは、ほぼ確実である。否、「ほぼ」を取り除こう。「確実」である。
 
補足
「これらの霊に奉仕する寺院」についての言及があったが、それは既に、かなり前から現われている。ラエリアン・ムーブメントなど。「堕落」の一例である。
因みに、ラ・サレットの預言にも「三日間」という言葉がある。
地上は三日間、絶えず天変地異にあり続けて、ついには火に満ちた腹わたを開くでしょう。獣は、その手下共を引き連れて地獄の永久の深淵へと、永遠に投げ込まれるでしょう。
the earth which for three days will be in continual evolutions, will open its bosom full of fire...  (33)
「三日間」に「開く」のは、「火に満ちた腹わた」である。
別の英語訳ではこうなっている。
And the earth, which for three days has been in continuous convulsions, will open her fiery jaws.
つまり、「三日間」に「開く」のは、「燃え立つあご」である。
「火に満ちた腹わた」... 「燃え立つあご」...  これはいったい何か?
「開く」主体、つまり主語は、「地(the earth)」である。
私は今、「これは必ずしも霊的世界のみことではないかも知れない」と思う。
何故なら、第一に、霊的世界にも或る種の天地のようなものがあるかも知れないとしても、しかし普通「the earth」と言う時、それは私達の物質世界の「地(the ground)」を意味するだろうからである。
そして第二に、前回見たように、「暗黒の三日間」についての他の幾つかの預言は、「その時、悪魔・悪霊の姿は私達の肉の目に映じる」というようなことを言っているからである。
この二つの理由によって、私は、「火に満ちた腹わた」あるいは「燃え立つあご」も、何らかのかたちで私達の物質世界と「接触」するものなのかも知れないと思う。
トルクメニスタンの「地獄の門」
今の話の流れの中でこのビデオをここに置くのは、読者を怖がらせるみたいで、悪趣味である。しかし、「リアリティ」の把握のためには、こういうのも幾らか役立つかも知れない。
ここに言う「地獄の門」というのは人々が口にする比喩であって、これはもちろん自然物である。つまり、超自然のものではない。(説明
「暗黒の三日間」を云々する未信者の人々へ
預言の言葉を十全に受け取らずに、その全体を受け取らずに、ただ「暗黒の三日間」の部分だけを拾い、云々している未信者の人が居るなら、申し上げたい。「それ、おかしいよ。」
預言の一部のみを信じ、他の部分は信じないのかい?
預言の他の部分には信頼性を感じないが、一部分にだけは信頼性を感じるというわけかい?  おかしいよ、言っている人(霊)は同じなのに。
その霊から、何と言うか、あなたにとって或る種の「刺激」のある部分だけを受け取り、しかし同じ霊が教える「信仰」については無視するのか?
そんな姿勢は、ある種の矛盾だよ。そして、不実、不真面目だ。
いわゆる「恣意的」ってやつだ。そんな姿勢では、通りはしないよ。
「教会」は信じられないかい。
しかし、少なくともその当の預言の源泉(聖母)には関心を向けるべきだよ。真面目な関心をね。
「暗黒の三日間」を云々するならだよ。
ファチマの三牧童: 本当は、この子達はその時「跪いて」いたのでしたが、しかしこの絵は、稚拙な絵ながら、この子らの驚きの様子をよく表わしていると思うのであります。
別の種類の人達は ------ 人間は色々だ! ------ 今度は「警告」を、「人類を自分達の目論み通りに動かすため、ある一団の者ら(人間)がこしらえたもの」と考えるのである。
それで、例えば ------ これはあくまで「一例」だが ------ 三牧童のうちの一人の名「ルシア(Lúcia)」は「ルシファー(Lúcifer)」から来ていると考えたり()、ファチマの太陽の奇跡からホログラム技術を、最終的に「わからない」と言いつつも、とにかく連想したり()するのである。
しかし「ルシア」について言えば ------ というか、これは本来「言わずもがな」なのだが ------ 人間は、洋の東西を問わず、「光」に希望を感ずるので、生まれた子に光と関係した名を付けるのだ(それは、「親心」だ)。それが、ポルトガルでは「ルシア」で、英語圏では「ルーシー」で、そして日本では、「光子」だw。(いや、冗談ではなく。)
日本で「光子」という名がありふれているように、ポルトガルでも「ルシア」はありふれているだろう。(日本には「光男」もあるぞ。)
確かに、ルシフェリアン達が自分達の配下を配置する時に、その者にルシファーと関係した名を付けるということは、あり得るかも知れない。しかしながら、「ルシア」のありふれた名であることに言及せずに、ただもう「Lúcia → ルシファーのこと」と表示するならば、慎重なことではない。
"己れの、曰く「解析力」に、あんまり自惚れる勿れ、鼻高になる勿れ"
と言わせて頂きたいと思う。
(しかしまた、彼らも自分では、自惚れているつもりはないのである。それは無意識的である。)
多くの人は、超自然的な事柄を容易には信じないのである。
否、信じ「られない」のである。
それは、どんなに知的な人でも、あるいはまた、知性の内でもかなり輝かしい部類の知性、「解析力」という才能を誇る人でも、同じである。
根にあるのは、「信じられない」、これである。
あんまり容易に信じるのも困るが、あんまり頑固に信じないのも困る。
ところで、「頑固に信じない」とは、読むには読むが、見るには見るが、なお信じない、ということである。
それに対し大多数の人は、よく見もしないで、よく読みもしないで「信じない」のであるから、それとは少し別である。
しかしながら、それらの二つは、実は似ている。
というのは、霊的な事柄の中に純粋に霊的な真理を追おうとするモチベーションが発芽していない限り、たとえ少しばかり読んだところで「読む」ことはできないからである。読むには読むが、読めない。いわば「心が散る」。つまり、人間的・地上的な「解釈」に急ぐからである。
それで、地上的な事柄に対してはなかなかの「解析力」を発揮する人でも、霊的な関心の発芽がなければ、霊的な事柄に関しては「さっぱり」だったりする。
しかし、それが本当に「神(超自然)」に関係する物語なのかも知れないのに、人間的・地上的な「解釈」に急ぐのであれば、神から見れば「傲慢」ということになるのである。いわゆる「謙虚さ」の欠如、少なくとも不足ということになるのである。(いかに無意識的であれ。)
しかし、それは聖書時代から現在までの、大方の人間の変わらぬ姿でもある。
彼らに霊的関心の発芽のあらんことを!