3.光
この聖堂をデザインした人の念頭にあったことは何だろう。
窓がある。そこに祭壇がある。
気づくべき第一のポイントが現われた。それは、現代建築の教会でも、天井から床まで開いた大きな窓のド真ん前に祭壇をしつらえた教会はかなり珍しいだろう、ということである。(しかし、ここに意味がある。)
気づくべき第一のポイントが現われた。それは、現代建築の教会でも、天井から床まで開いた大きな窓のド真ん前に祭壇をしつらえた教会はかなり珍しいだろう、ということである。(しかし、ここに意味がある。)
窓がある。そこに祭壇がある。そして、窓から光が入る。
窓、光、祭壇は、扇子で言えば要〔かなめ〕の一点に集まっている。
窓、光、祭壇は、扇子で言えば要〔かなめ〕の一点に集まっている。
光は窓から入り、信者席に向かって放射状に伸びてゆき、
そこで信者たちの視線と交わる。
「光」はどんな民族にとっても「希望」の象徴である。
そこで信者たちの視線と交わる。
「光」はどんな民族にとっても「希望」の象徴である。
故に、これほど礼拝の場にふさわしい構成があるだろうか。
以上が、この聖堂をデザインした人の念頭にあったことである。
(比較的単純なことなので、そう断定できる。)
(比較的単純なことなので、そう断定できる。)
*
彼の意図を更にはっきりと知ることができる。
目立つのは「光の強調」である。彼は天井に照明設備によって「要」から放射状に伸びる三本の光の線を引くことで、そのイメージを補強している。
目立つのは「光の強調」である。彼は天井に照明設備によって「要」から放射状に伸びる三本の光の線を引くことで、そのイメージを補強している。
更に、光は信者全てを取り囲みさえする。
床を這うこの光の線の起点も、やはりあの「要」の箇所だろう。
(デザインの意図として。)
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斯く、光が強調されている。まるで「光の神殿」といったように。
(その通りなのだが。)
*
ここで少し後戻りさせて欲しい。
そして質問させて欲しい。
光、窓、祭壇、そして信者たち。しかし、在るのは本当にそれだけか?
そして質問させて欲しい。
光、窓、祭壇、そして信者たち。しかし、在るのは本当にそれだけか?
答えは否である。
カトリックの正常感覚からすれば、
そこにはまず真っ先に、「磔刑像の不在」という「裏切りの風景」が在る。
カトリックの正常感覚からすれば、
そこにはまず真っ先に、「磔刑像の不在」という「裏切りの風景」が在る。
そして ------刮目せよ------ その「裏切りの空所」に、
まったくそれに相応しいものが据わっているのである!
まったくそれに相応しいものが据わっているのである!
これこそが彼らの「意図」! 彼らがこの聖堂に埋め込んだ「意味」!
主イエズスの象徴を排除すること、そして排除するだけでなく、
彼ら自身の神の象徴をそこに据えること !!!
主イエズスの象徴を排除すること、そして排除するだけでなく、
彼ら自身の神の象徴をそこに据えること !!!
つまり、ここにあるのは、
単なる「不在」ではなく「交換」である。
単なる「不在」ではなく「交換」である。
はっきりとした「意志」をもって
為された「置き換え」である。
為された「置き換え」である。
何故なら、そこに在るのは「丸と三角」だから。
漫画みたいな話だが、祭壇に吊るされるものは、
丸、輪でなければならなかったのである。
丸、輪でなければならなかったのである。
必然性があったのだ。
彼らにしてみれば「必要性」が。
彼らにしてみれば「必要性」が。
そうである。もしかすると、あなたの目に、私のこの提示はまるで漫画みたいに映っているかも知れない。しかしそうではない。もう一度この写真を見て下さい。そして「光の出所」を確認して下さい。
彼らに代わってもっと派手に表現すれば、こうである。
窓の所が露光オーバーになった写真に、水色の三角と6本の光の線を書き加えさせて頂いた。この写真の元の持ち主さん、ごめんなさい。しかし、あなたも、もう、この教会には行くべきではない。
そして、たとえこの建物の中に多少十字架があろうと聖母像らしきものがあろうと、同じである。この教会の「グランドデザイン(全体構想)」がこれなのだから。