5.結論
大阪大司教区は「持たされた」のである
思うに、大阪大司教区は、結局、近年の教皇様方が彼らによって Bent Cross を「持たされた」のと同様、この彼らの忌わしいサクヒンを「持たされた」のである。
こういうのがカトリック信者の霊魂にどういう影響を及ぼすかは、おそらく「神秘」に属することである(人間の心自体が一つの神秘である)。
しかしとにかく、こういうのが彼らのいつものやり口、手口、つまり「常套手段」なのだ。自分たちのものを私達に持たせて、笑っているのである。
しかしとにかく、こういうのが彼らのいつものやり口、手口、つまり「常套手段」なのだ。自分たちのものを私達に持たせて、笑っているのである。
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もう一度言う。今回の一連の記事では写真やイラストを多用した。だから、ひょっとしたら、人によってはこれを「子供の絵遊び」ぐらいにしか思わなかったかも知れない。しかし、それは違う。彫像の様、建物の形、祭壇周りの状態などといった「外なるもの」と、信仰や精神などといった「内なるもの」は、不思議にも、また正直にも、互いに引き合うのである。
これにて了とするが、最後にもう一度力をこめて言う。
大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである。あるいはフリーメイソンの「霊」(ルシファー)が人間に作らせたモニュメントである。その近辺のカトリック信者には気の毒だが、この教会には行っちゃ駄目だ。
大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである。あるいはフリーメイソンの「霊」(ルシファー)が人間に作らせたモニュメントである。その近辺のカトリック信者には気の毒だが、この教会には行っちゃ駄目だ。
「でも、仮にあなたの言う通りだったとしても、それは要するに『建物』のことでしょう。もし神父様方が正しい仕方と正しい意向で御ミサをお捧げになれば、この御聖堂にだってきっと神様のお恵みが下りますよ。」
そんな事は考えない方がいい。
一般的に言っても「司祭の意向」というものは目に見えないのである。それはうっすらとした不確実性か大いなる不確実性かは別にして、とにかく不確実性を帯びたものである。大した理由もなく疑ってはならぬとしてもである。
そのような一般的な不確実性がないわけではないのに、その上に何故、建物全体がフリーメイソンのシンボルである教会(教会?)にわざわざ入ろうとするのか。
一般的に言っても「司祭の意向」というものは目に見えないのである。それはうっすらとした不確実性か大いなる不確実性かは別にして、とにかく不確実性を帯びたものである。大した理由もなく疑ってはならぬとしてもである。
そのような一般的な不確実性がないわけではないのに、その上に何故、建物全体がフリーメイソンのシンボルである教会(教会?)にわざわざ入ろうとするのか。
あなたを歓迎するこの二匹の間を抜けて?
考えられないことだ。
もしどうしてもこの教会に関わりたいのなら、まず祭壇の所にあるあの汚らわしい輪を取っ払い、そこにイエズス様の磔刑像を高く掲げることから始めるべきだ。そしてその他あらゆる不潔な美術をお払い箱にする。
しかし、あなたがそれを求めても、聖職者たちはおそらく、首を傾げ、曖昧に笑い、真剣に受け止めず、動こうとはしないだろう。
もし何らかの動きを取ってくれれば、大阪大司教区も見直されるが、難しいだろう。
もし何らかの動きを取ってくれれば、大阪大司教区も見直されるが、難しいだろう。
だから、結局、こんな教会(教会?)には行かない方がいいのだ。
否、近づくことすら控えた方がいいのだ。
否、近づくことすら控えた方がいいのだ。