憑霊関係では、私達は普通、ポゼッション(Possession)しか知らない。
が、オブセッション(Obsession)というものもあるそうだ。 obsess
更には、オプレッション(Oppression)というものも。 oppress
が、オブセッション(Obsession)というものもあるそうだ。 obsess
更には、オプレッション(Oppression)というものも。 oppress
悪霊による オプレッション と オブセッション と
ポゼッション の違いは何?
ポゼッション の違いは何?
答え
悪霊の活動のこれらの形態は、悪霊からの通常の影響とは起こる頻度が違うことから、特別のもの(extraordinary)と呼ばれています。
悪霊からの通常の(ordinary)影響は、一つの悪霊又は複数の悪霊が私達の想像力の中に私達を誘惑するものを注ぎ込む時に起こります。
〔それに対し〕特別の影響は、一つの悪霊又は複数の悪霊が、天主の許す御意志(the permissive Will of God)によって、特定の方法で人間に影響を及ぼすのを許された場合に起こります。
悪霊によるオブセッションとは、悪霊が、対象の人間がある特定の思いを心の中から追い出すことができないように、その人の心に反復的に又継続的に影響を及ぼす時のことを言います。
悪霊によるオプレッションとは、悪霊が、対象の人間を内面的に攻撃するのでなしに、その人の、家族、親戚、身体的健康、またそれに類する事柄を含む外面的人生を破壊しようとする時のことを言います。
悪霊によるポゼッションは、一つの悪霊又は複数の悪霊が、対象の人間が自分の体に起こる事に関し意志による統御を持たないように、その人の体を身体的に〔物理的に〕引き継ぐところにその本質があります。
悪霊の活動のこれらの形態は、悪霊からの通常の影響とは起こる頻度が違うことから、特別のもの(extraordinary)と呼ばれています。
悪霊からの通常の(ordinary)影響は、一つの悪霊又は複数の悪霊が私達の想像力の中に私達を誘惑するものを注ぎ込む時に起こります。
〔それに対し〕特別の影響は、一つの悪霊又は複数の悪霊が、天主の許す御意志(the permissive Will of God)によって、特定の方法で人間に影響を及ぼすのを許された場合に起こります。
悪霊によるオブセッションとは、悪霊が、対象の人間がある特定の思いを心の中から追い出すことができないように、その人の心に反復的に又継続的に影響を及ぼす時のことを言います。
悪霊によるオプレッションとは、悪霊が、対象の人間を内面的に攻撃するのでなしに、その人の、家族、親戚、身体的健康、またそれに類する事柄を含む外面的人生を破壊しようとする時のことを言います。
悪霊によるポゼッションは、一つの悪霊又は複数の悪霊が、対象の人間が自分の体に起こる事に関し意志による統御を持たないように、その人の体を身体的に〔物理的に〕引き継ぐところにその本質があります。
「obsession」という言葉を辞書で引くと「強迫観念」という言葉が出て来る。それで、私は或るエクソシズムにおける悪霊の自白を思い出した。
強迫観念、「包囲された憑依」現象についてはっきり言おう。悪魔が体にとりつくのとは異なる。だが、聖母が許せば、悪魔はその人間の体に近づく。悪魔はそれから働き出す。悪魔はそいつに注ぎ込む。そいつの意志に影響を与える。おのれの憎しみと悪しき感覚を、直接、そいつの霊魂に注ぎ込むのだ。
そいつが行動を起こす前からこれが争いを起こす。われわれは殺人さえ起こせるが、争いと議論を起こすことの方が多い。(中略)
彼は「包囲された憑依」現象によって誘惑されたのだ。これによって争いと議論に誘われても、人はそういう人間は争い好きで怒りやすいのだとしか考えない。霊どもが彼を包囲しているのを見れる人間はいない。〔しかし、実のところ〕それは超自然現象なのだ。(中略)
「包囲された憑依」にしろ「内的な憑依」にしろ、后〔聖母〕はすべてを正常に戻せる。
上で「包囲」と訳されている語は、
英語で言えば「besiege」かも知れない。
英語で言えば「besiege」かも知れない。
St. Catherine of Siena Besieged by Demons
悪霊に包囲されたるシエナの聖カタリナ
悪霊に包囲されたるシエナの聖カタリナ
人間の学問は「通常の影響」と「特別の影響」を分けるわけだけれども、また学問としてはそれでいいわけだけれども、しかし現実的には、その二つの間に明確な境はないだろうという気がする。
上の悪霊の言葉を初めて読んだ時、私は、これは正に或る局面での私達(私達全てではない)のことだと思ったものである。自分が以前から動物的に直観していたものを、ここで確認してもらったような気がしたものである。(悪霊に恩は着ないが、悪霊に強制してそれを言わせたであろう天国の権威には感謝する。)
私達が「信仰」について或る種類の重要な主題を議論している時など(悪霊は、実際、そのような局面に非常なる関心を持つ)、私達は「感情を煽られる」ことがあるのである。つまり「外部から」「内面を」煽られることが。
ところが、「人はそういう人間は争い好きで怒りやすいのだとしか考えない」とあったように、人は、他者の事ばかりでなく自分の事でも、ほとんど常に、それを「自分の感情」であるとしか思わないのである。思えないのである。「頭」は、まず、それ以外の「解釈」の道を知らないのである。