2012年5月30日

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  7

7.上にあるもの
大阪梅田教会については終えたつもりだったが、もう少し書いておきたいことができたので追加する。ただし、「大阪梅田教会が何であるか」についての結論のためには先行記事の「」から「4」までで十分なのであるから、これはあくまで補足的なものである。そして、以下書くことに多少私の想像力のオーバーランが含まれていたとしても、結論はそれによって影響を受けるものではない。(俗な議論の場で不利の材料となることはあっても。)
左側の壁に何かの像が掛かっている。
これである。
チェッコ・ボナノッテ作の聖母子像である。
この像は、まあ、誰の目にも微笑ましいものだ。それで、純真な人達はこれを見て、「ああ、ボナノッテは良い人だ」などと、コロッとだまされる。
上の聖母子像に似たものがある。
これももちろんボナノッテの作である。
「サクラファミリア」の名にふさわしく(?)、「聖家族」の像である。
そして、信者は「聖家族」と聞いただけで、胸に温かいものを感じる。
そのこと自体は良いことである。
しかし信者は、これを遠目に見て、あるいは不注意に見て、あるいはそのように頭から信頼して見て、聖家族がこじんまりとしているが故にむしろ温かな印象を与える方舟のようなものの中に身を寄せ合い仲睦まじく乗っている、というぐらいにしか思わないかも知れない。
あるいはもう少し敏感に、舟 = 旅、聖家族が身を寄せ合っていることから、聖家族のエジプトへの逃避行を連想するかも知れない。
そう、エジプトへの逃避行の方がずっと良い連想だ。この作品をよく見た時、これは必ずしも人を温かな気持ちにさせるものとは限らず、むしろ不穏な空気さえ漂うものであるということが分かる。
彼らは惨めに小さく頼りなげなヤシの実の舟のようなものに乗っており(乗せられており)、その舟の小ささと彼らの様子が彼らの不安と孤立感(寄る辺なさ)をかもし出している。
そして、エジプトへの逃避行、確かに、彼らはその時、いかに信仰は堅固であれ、やはり地上の人間として一定の心細さを抱えておられたかも知れない。私達はその御苦労を想像することができる。
ということは、この作品もその辺のところをなかなか上手く表現しているということか? この作品は、その時の聖家族に対して私達が共通して持つ同情を私達と共有し、私達を代表して表現してくれているということか?
つまり、この作品も「聖家族の御苦労を偲んでいる」と?
聖家族の上にもう一つのものが置かれている。
それは建築パースの段階から描かれている。
確信するので断定調で書くが、それはボナノッテの作品の一つである。しかも、それ単体で置かれたものではなく、ヤシの実の聖家族(便宜上、そう呼ぶ)との関連のもとに置かれたものである。
かなり拡大したので画質は悪いが、見て頂く。
聖家族の上のこれを、あなたは何と思うか。十字架の群れか、茨か。
聖家族は「おびえている」のではないか。
聖家族は「おびやかされている」のではないか。
直観で言う。
これらは聖家族に向けられた (swords) である。
もう一度、上から全ての画像を見て下さい。
あなたの心の目にも「映る」筈だ。
しかし最も厄介なのは、あなたが私に同意して「確かにこれは聖家族に向けられた剣であるかも知れない」と思ったその後である。あなたは普通の着地点に着地してしまうかも知れない。
「ええ、あなたのおっしゃる通り、これらは聖家族に向けられた剣を意味しているのかも知れません。また、十字架かも知れませんし、茨かも知れません。しかしいずれにせよ、この作品のそのような表現は特に変わったものではないと思います。何故なら、聖家族の御生活は実際そのようなものだったからです。多くの十字架があったでしょうし、茨があったでしょうし、そして、そう、時には人々の心の剣に取り囲まれることもあったでしょう。だから、ええ、この作品に変なところはありません。」
あなたがそう思うなら、要するにあなたは「イノセント」なのである。純真、無邪気なのである。次にお進み下さい。