2010年11月28日

尊者アグレダのマリアが受けた示現 2

これを読む前に前回の「前置き」を読んでもらいたいです。
いや、大したもんじゃないです。役に立たないかもです。でも、一応。恐縮です。
何故なら、人間ほど、「先入観」「固定観念」「偏見」、これらを持ちやすいものはないからです。ほとんど「歩く固定観念」とでも呼びたくなるくらいに。
ほんとっすよ? 今「大袈裟だなぁ」と思った人は、ちょっと読んでもらった方がいいかもです。「前書き」を。いや、天地神明に誓って大したものじゃないけど。
でも、「先入観」「固定観念」「偏見」、これらに関しては馬鹿みたいにうるさくなけりゃ、クソうるさくなけりゃ、きっと真理なんて手にできないっす。今「うるさいなぁ、もっと気楽にやりたいんだよぉ」と思った人は、きっと真理向きじゃありませんです。恐縮です。


引用文中の下線は管理人。
読点を数カ所、付加させてもらいました。
資料の入手に関しては最下段に付記しました。

神の神秘的な都市
The Mystical City of God


最後の晩餐

私たちが現在自宅で使用するコーヒーテーブルよりももっと低いテーブルの周りに座り、体を後ろにもたれて食事をするのが、ユダヤ人の習慣でした。主は、使徒たちの足を洗った後、現在の食卓のような高いテーブルを持ってくるように言いつけました。このことで、主は、下級の形式的律法に終止符を打ち、恩寵の律法である新しい晩餐を設立することになりました。このテーブル、つまりカトリック教会の祭壇で聖なる秘蹟が行われることを、主は希望されたのです。このテーブルは大変高価な布で覆われ、その上には皿と大きな盃ふうのコップが置かれました。その家の主人は、エメラルドのような宝石でできた皿と盃を提供したのです。全員が着席してから、主は種なしパンと葡萄酒を持って来させました。

主は心からの愛の言葉を使徒たちに話しました。御言葉は彼らの心の奥深くに達し、心を燃え上がらせました。御自身の神性と人性、救い、今祝おうとしている神秘の誓いについて申し渡しました。人々が相互に愛すれば、御子を愛する御父により愛されること、新しい律法と新しい教会の建設のため使徒たちを選んだこと、御母の崇高さと特権について、使徒たちの理解を更新させたのです。

我らの主キリストは、皿の上のパンを両手で取り上げ、永遠なる御父に心の中でお願いしました、「今、私が述べ、今後、教会で繰り返される言葉により、私が実際に真にこのパンの中に存在すること、私がこの約束を守ることを助け、許して下さい。」 この願いをしながら御目を天に上げている荘厳な様子は、使徒たち、天使たちと御母に、新しい深い畏敬の念を起こさせました。主は聖変化の御言葉を宣言し、パンの実質を御自身の真の体に変えられました。直ちに葡萄酒に対する聖変化の言葉を宣言し、御自身の真の血に変えられました。そして、永遠の御父の御声が聞こえました、「これぞわが愛子なり。我が喜び、世の終わりに至るまで我が喜びなり。我が子は人類の追放の間中、絶えず共にいるなり。」 同様の御言葉が聖霊により宣言されました。御言葉のペルソナの中のキリストの至聖なる人性は、御自身の体と血の秘蹟にこもる神性を恭しく拝みました。御母は一歩退き、聖なる秘蹟の中の御子を崇めました。御母の守護の天使たちや天の全天使たちと一緒に、エノクとエリアの霊魂も旧約の王たちや預言者たちを代表し、秘蹟の中の主の前に平伏しました。裏切り者を除く使徒たちと弟子たち全員はこの秘蹟を信じ、各人各様に謙遜と威厳を込めて崇めました。最高の司祭である主は、聖変化された御体と御血を両手で高く挙げました。この時、御母、聖ヨハネ、エノクとエリアは特別な理解を神から頂きました。どのように御体がパンの中に、御血が葡萄酒の中に存在するか、御体と御血が御霊魂と結ばれている故に生きている真の御子が現存すること、御子のペルソナが御父と聖霊のペルソナとどのように結合しているか、聖三位一体の一致の故に、御聖体は主の人性と共に聖三位一体であることを理解したのです。主のなさったことを司祭一人一人が再現すること、天地が崩れてもこの秘蹟は決して崩れないことも、御母を初めとする四人の深く理解するところとなりました。御母の理解は更に深遠でした。この秘蹟により、パンや葡萄酒の形色は変わらず、御体と御血も元のままであることがよく判りました。

御子の聖祭は続きます。御子は御聖体を割り、一つを頂きます。御自身を人間として認め、御聖体と聖血を敬虔に頂く様子は、我々に聖体拝領の仕方を教えただけではなく、人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれることを知らせています。主の聖体拝領により、タボル山での御変容の時のように、主の御体は短時間、輝きました。御母にはよく見え、他の三人には少し見えました。

主は御聖体と聖血を拝領し、永遠の御父を讃え、人間の救いのための犠牲として秘蹟にこもる御自身を捧げました。残っているパンの切れ端を大天使ガブリエルに渡し、御母の所に持って行かせました。大天使に大勢の天使が随行しました。御母は涙を流し、御聖体を恭しく拝領しました。その後で主はパンを使徒たちに手渡し、分け、配るように命じました。使徒たちも涙ながらに御聖体を拝領しました。使徒たちは司祭の権限を与えられ、聖なる教会の創立者となり、他の誰にもまして優先権を与えられたのです。主イエズス・キリストの御命令により、聖ペトロは御聖体をエノクとエリアに授けました。二人は大喜びして、将来、天国に入り、主なる神に御目にかかることを世の終わりまで待つよう改めて決心しました。心からいと高き御方に感謝した後、天使たちにより、二人の住居である古聖所に連れ戻されました。この奇跡により、主は、苦からの自然法と成文法を、御受肉、救世と人々との復活の中に組み入れることを示されたのです。これら全ての秘儀は、至聖なる聖餐の中に存在するからです。

元后の御言葉
ああ、私の娘よ、カトリック信者たちが石のように固くなった心を開き、聖体拝領の真の意味を掴むように心から希望します。御聖体の中に力と健康があります。悪魔に誘惑され、迫害されても問題ではありません。御聖体を頻繁に拝領することにより、信者は悪魔を克服できます。ルシフェルと部下の悪魔たちが御聖体に近づく時、地獄の拷問よりも怖い思いをします。教会の中に入り、御聖体が安置されている所にいると残酷な苦痛にさいなまれますが、人々を罪に誘惑し、滅びに導こうと一生懸命になっています。御聖体が市外を通る時、悪魔たちは怖さのあまり、逃げ回るのです。御聖体を敬虔に拝領する信者たちも悪魔にとっては苦手です。それでも悪魔たちは、信者に御聖体の有り難さを忘れさせ、無関心にさせ、世の中のことに気を配るように絶えずけしかけてくるのです。この目に見えない敵に対して、聖体拝領という武器を持って聖なる教会のためにあなたが戦うべしということは主の聖旨であり、私の意志です。罪を犯すカトリック信者たちを救うためには、敬虔に聖体拝領すること、次に私に取次を願うことが大変大事であることを肝に銘じなさい。又、御聖体に対し失礼な態度をとる司祭たちは、それを真似る信者たちよりももっと批難されるべきです。信心深く聖体拝領する人たちは、主の御体や御血を頂かずに殺された殉教者たちよりももっと大きな光栄を頂くのです。私はただの一回も御聖体を頂く価値はありません。私は原罪の汚れなく、セラフィム以上に愛徳を積み、全ての徳行に於て諸聖人以上の英雄的功徳を行い、私の全行為の意図は至高であり、私の習性も賜物も比較にならないはど高貴であり、御子に見習って苦労し、恩寵の功徳を受けない時は一時もありませんでしたが、これら全てを越えるのは「聖体拝領」です。聖体拝領するあなたは、いと高き御方を崇め、讃え、いつも主を受ける準備と何回でも殉教する覚悟をしなさい。


資料の入手について

日本語訳
尊者アグレダのマリアの記録
『神の都市』
甲斐睦興訳/昇る旭日の聖母会監修・発行

でも、申し訳ない、絶版である。
これはもともとカトリックの有志達が頑張って発行したもののようで、部数もそんなには多くなかったのだろう、今は「日本の古本屋」にも amazon にも、またおそらく公立図書館にも、見当たらない。(いつか何とかしたい)
何とかなった! 最近、或るカトリック有志がこれをPDF化してくれた!
CLICK!

英語訳
The Mystical City of God
Mary of Agreda (Author)
Fiscar Marison (Translator)

amazon

ネット上にもアップされている。
http://www.sacredheart.com/MysticalCityOfGod.htm
http://www.themostholyrosary.com/mystical-city.htm (PDF)



「カトリック信者たちが石のように固くなった心を開き、
聖体拝領の真の意味を掴むように」
「御聖体に対し失礼な態度をとる司祭たち」
これらの言葉から、この示現が、世の中に溢れている カンタン な人達が思うような「カトリック教理を神秘的に焼き直して宣伝しようとするもの」などではないことが分かるでしょう。カトリック内部の或る部分を非難、あるいは嘆いているわけですから。前回「対内的なものである」と言ったのは、この意味です。



シルバーバーチとの関連で

以下、全ては、「もし上の示現がその時の事実をその通りに映したものであるならば」という前提に立ってのことですが・・・

もし、そうであるならば、

シルバーバーチは、
地上の人間はあまりに永いあいだ教えを説く人物に関心を寄せすぎ、超人的地位に祭り上げて、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。

わたしたちはもう、そんな、しょせん人間にすぎない者を超人的地位に祭り上げることはいたしません。

いくら立派な地位(くらい)ではあっても、本来まったく関係のない地位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽すゆえんとはなりません。父なる神の右に座しているとか、"イエス" と "神" とは同一義であって、置き替えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。

などと言っているわけですが、それは当たらないことになります。何故なら、この示現には「崇めました」「平伏しました」などという言葉がありますから。

だいたい「祭り上げる」という言葉自体が、かなり悪意のあるものです(まあ、訳語ではありますが)。「イエス」がどうのという彼の表面上の「理屈」「議論」の裏に、その奥に、彼の「権威嫌い」の心性が透いて見えるかのようです。
(彼にとってのその「権威」とは何ですか? ------- イエズスの権威です! 彼はイエズスが嫌いです。「マスター・イエス」は好きであり、「よく知っている」のではあってもw。)

また、この示現によって、「ミサ」においては「儀式 = 単なる儀式」ではなく「儀式 = 人間に霊益を与えるもの」であることが分かります。

また、この示現によって、「教会」も「ミサ」もイエズス様が「設立」されたものであり、ミサで使われる祭壇・祭器もイエズス様が指示されたものであり、そして「今後、教会で繰り返される言葉」、つまり「聖変化の言葉」なども、イエズス様が「宣言」なさったものであることが分かります。

もう一度言えば、これら全ては「もし上の示現がその時の事実をその通りに映したものであるならば」という前提に立ってのことです。それはそうです。そして、この示現が本物であるという「証拠」はありません。

しかしながら、もし「神」というものが在るとすれば、それは人間にとっては「神秘」なものでありますから、つまり人間にはなかなか捕捉できないものですから、私達はともかく「仮定法」というものをあまり拒否しないで、隠れた物事を探らなければなりません。(「手探り」を嫌がる人には真理は探究できません。)

で、もしこの示現が真であるとすれば、シルバーバーチの「祭壇に何の意味がある」だの「祭壇がいったい宗教と何の関係がある」だのといった言葉(参照「シルバーバーチは悪霊である 3」)は、一般には通りのよいものだとしても、実はとんでもないものだということになります。


さて、ベイサイドの時と同じ質問をします。

シルバーバーチが「よく知っている」という「イエス」と、この示現の中の「イエズス」は、同一人物(同一霊)ですか???

シルバーバーチは、
私はあなた方が想像する以上にイエスと「親密な関係」にある
イエスはあなた方の「スピリチュアリズム」や「交霊会」を高次霊界における大審議会の主宰者としての立場から指揮・指導している
祭壇に何の意味がある
教会というものは、霊魂が未だ「本当の真理」に開かれていない人々のための幼稚なオモチャという以外には何の意味もない
教義も、教典も、儀式も、祭礼も、祭壇も、祭器も、聖歌も、僧服も、それら全て、一切合切、教会から削除してよい
と言っています。

その彼が「よく知っている」という「イエス」と、上の情景の中の「イエズス」は、同一人物(同一霊)ですか???


上の示現にはこう書いてあります。
(御子が)御聖体と聖血を敬虔に頂く様子は、我々に聖体拝領の仕方を教えただけではなく、人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれることを知らせています。
これを覚えておいてください。これと「一致」する他の示現を、私はなんぼでも挙げることができますから。

しかし、ここでさえ言えるのは、シルバーバーチが「よく知っている」と言う「イエス」は「カトリックの司祭達がミサを捧げたからといって少しも嬉しくは思わない」(参照「シルバーバーチは悪霊である 3 」)人ですから、従って、「人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれ」たりはしないということです。

同一霊ですか? しつこいけど。


私は「カトリック教徒」というより
一介の「探究家」です。
大したものではありません。
でも、性質としてはそうです。
だから上のような資料も読みます。
(大部分のカトリック教徒は
このようなものを読みません。)

しかし、とにかく、もう
カトリック教徒だからそう言うのだ
と言われても構いません。
そのようにカンタンに片付けられても構いません。
私はここで大声を出すことにします。

シルバーバーチ!
この大嘘つき野郎!

シルバーバーチ

2010年11月27日

尊者アグレダのマリアが受けた示現 1

私の長たらしい前置きの次に掲げるのは、カトリックの「尊者アグレダのマリア (María de Ágreda)」が聖母によって見せられたヴィジョン(幻視)を書き留めた『神の神秘的な都市 (The Mystical City of God)』という本の一節である。
もちろん、聖書以上のものではない。が、カトリック教会はこれを「信仰に矛盾しないもの」として認めている。(この本は最近PDF化された。CLICK!

前置き

キリスト教徒というのは「教義的な人達」である。
たとえば、「プロテスタントか、カトリックか」が(他の宗派もあるが)、とても気になる人達である。それが重要と見える。

けれど、私は思う。
以前も書いたけれども、「真理探究」においては、本当は、各宗各派の「教義」は問題ではない。「事実」だけが問題である。霊的「事実」だけが。ある既成宗教の「教義」が価値あるものとすれば、それは、それが「事実」に合致している時である。「教義」が先行するのでなく、「事実」が先行する。「事実」に関する探索がなければならない。ある宗教、ある教え、ある教団・教会に対する「信じます」、つまり信頼は、あくまで「最終的」なものでなければならない。当り前である。

「事実」が探られなければならない。赤子の目をもって。
けれども、私達の目はあまりに「理屈」に汚されてしまっている。私達はあまりに過去に学んで来たものの「蓄積」を通して対象を見る。対象を見ているようでありながら、実はその「蓄積」を通して、いわば対象を「翻案」しつつ見る。現在そこにあるものをそのまま見るのではなく、必ず自分の「過去」を通して見る。つまり「記憶」を通して。記憶の中の「構造物」を通して。そして、多くの人には、それが悪いこと、私達の目を「曇らせる」ものであることが分からない。

しかし、そこを何とかして欲しい。これを読む時、なるべく「理屈」で汚されていない目を回復しつつ(私達だって旅の最初の頃はそのような目を持っていた筈だ)読んで欲しい。過去に学んで来たもの、今自分の脳の中に「蓄積」されているものを一時脇に片付けて、読んで欲しい。大丈夫、健忘症にでもならない限り、後でなんぼでも取り返せるから。心をなるべく白紙にして、赤子の如きものにして、読んで欲しい。

プロテスタントの人達は、もしそのような「赤子の目」が一時的にでも回復されていなければ、この示現が含むカトリック的要素 -------「聖母」「祭壇」「秘跡」「権能的司祭」------- を見て、直ぐに「カトリック」と思うことだろう。おそらく殆ど「自動的」に抵抗を覚えることだろう。しかし、もう一度言うが、何度でも言うが、これは「事実」の問題なんだ。「カトリック」云々ではなく、「プロテスタント」云々ではなく、「事実」の問題だ。「これは何だ? 事実か?」ということ、それだけが大事だ。そういうプリミティブな、原初的な目を持つことが、意外と大事だ。

それに、人はこういうのを読んで直ぐに「カトリックだ、カトリックだ」と言うけれど、私の理解に従えば、これは「カトリックの宣伝」ではなく「カトリック教徒を教えるため」のものなんだ。「対外的」なものではなく「対内的」なものなんだ。勿論、人類一般に教えるものでもあるだろうけれども、しかし先ずは、第一には、「カトリック教徒を教えるため」のものなんだ。カトリックの示現というのは、どれもだいたいそのようなものだ。プロテスタントの人達を嫌がらせるためではなくw、「カトリック教徒を教えるため」のものなんだ。

何故か?
カトリック教徒自身が「分かっていない」からだよ!

カトリック教徒は(私も含めて)霊的な「事実」、天的な「事実」を、聖書や教理を通して言葉では教えられてはいても、そしてそれを一応は「信じて」はいても、事はなにぶん非常に霊的・神秘的・超自然的なことなので、普通人間には想像すらつかないことなので(これを分かれというのが可哀想になるくらいに!)、本当には分かっていない、本当には「理解が及んで」いないからだ。「全然」と言っていいくらいに。(もちろん私も含めて。)

だから、間違っちゃいけない。人はたとえば「聖体」と聞いて直ぐに「カトリック!」と思うだろうけれど、カトリック教徒自身がその「御聖体」の何たるやを「分かっていない」んだ。神秘的なこと霊的なこと超自然的なことが「よく分からない」という点では、実はカトリック教徒も一般の人達とそうは変わらないのさ。中には「聖変化」を大して信じていない者もいるだろう。だから、天国が、福音書に追加し、教理に追加して、いろいろと教えてくるわけだ。

「福音書は足りない。それには不足がある」というわけじゃない。そうじゃない、決して。しかし天国としては、人類があまりに「分からんちん」なので、いわば「実際上の必要」のもとに、いろいろと教える必要に「駆られる」んだ。追加的に教える必要に。何故なら、天国は人類の行く末を心配しているからだ(まあ、マシュー君もそうだろうけどねw)。それが福音書から後の時代における天国からの干渉・介入、つまり啓示・預言の類の意味だよ。(もちろん、中には偽物のものもあるけど。見分けなくちゃならないけど。)

まあ、以上すべて、「私の理解に従えば」の話ではあるけれど。

しかし以上により、『神の神秘的な都市』を読む時も(読むとは限らないよね。読んでくれたらありがとう!)、「対象」(本の内容)のことだけではなく、是非、自分の「目」のことも、少し気にして欲しいんだ。

書き過ぎた。ページを改める。
そして、『神の神秘的な都市』のアップは明日にする。ごめん。

「マシュー君」 は悪霊である 2

で、
「マシュー君」と名乗っている
「アセンデッドマスターズ」や「白色同胞団」を認めるそうです。

2008年9月24日の「メッセージ」から
16. The powerful energy of souls you call ascended masters and the White Brotherhood and other light forces you don't know about has been intensifying on the planet and is available to each and every one of you.

(森田玄氏訳)
16. アセンションしたマスターやホワイト・ブラザーフッドとあなたたちが呼ぶ魂たちと、あなたたちが知らないほかの光の勢力のパワーフルなエネルギーが、惑星地球に強度を増して来ています。


Wikipedia

しかし、
この二つの用語、概念は、どちらもブラバツキーじゃないですか。
彼女は「サタンこそ真の創造主である」と言っている人ですよ?
「本当にそうかも知れない」と、そのまま信じるんですか?

少し「感受性」で行きましょう。
ブラバツキーの写真を見ましょう。





大丈夫ですか、この人の「霊」は、「心」は。
(馬鹿な質問です。訊くまでもありません。)


「証拠」はありません。
けれど、「保証」します。

「マシュー君」も、「シルバーバーチ」も、
悪霊団が人類に与えようとしている
「壮大な嘘」です。

この時代において、明敏な人は、
"この地上は「陰謀」で埋まっている"
と言っても過言でないことを
知っているはずです。
けれど、そんな人でも、
霊界だけは別であって欲しいのですか。
霊界だけは善意の霊で埋まっていて欲しいのですか。
ノー、ノー。
残念ながら、そうではないようです。

「マシュー君」も「シルバーバーチ」も
悪霊たちの「壮大な嘘」です。
キリスト教への固着からではなく
私の卓越せる第六感によりw
そう「保証」します。

2010年11月26日

シルバーバーチは悪霊である 4

シルバーバーチは何かに似ている

またもやベイサイドの預言から、「イエズス」が教会について言っている箇所を引用する。ただし、短い文だけを。何故なら、あまり前後を含めて引用すると、カトリック信仰を知らない人の目のためには、かえって焦点がぼけたことになりかねないと思うからである。
私はあなた方に、あなた方の小教区教会から去って欲しくない。私は、あなた方の神として、あなた方が留まることを望み、そう助言する!
1979年6月9日、イエズス 

わが教会の中には、私のために前面に立って戦おうとする者は一人もいないのか?
1974年8月21日、イエズス 

私達はサタンがわが教会を閉鎖することを望まない。
1984年4月14日、イエズス 

我々はわが教会における分裂を大目には見ないであろう。
1978年3月18日、イエズス 

そこに留まり、戦いなさい! わが教会を保ちなさい!
1977年5月14日、イエズス 


これだけでも明らかに分かるのは、この「イエズス」にとっては、教会はあくまで「わが教会」と呼ぶところのものだということである。

ところが、「イエスをよく知っている」というシルバーバーチは、「人間は教会を建立し」などと言い(前回参照)、「儀式」に関する発言(前回参照)と同様ここでも、一般に通りのよい「教会は人間が作ったものに過ぎない」との認識を既成事実化している。

他方の「イエズス」は、「教会は必ずしも無くても良い」などとは言っていない。全く逆のことを言っている。「わが教会を保つ為に踏みとどまれ。わが教会の為に戦え」と。

ところが、「イエスをよく知っている」というシルバーバーチは、こう言っている。
教義、儀式、祭礼、教典などは関係ない。祭壇に何の意味がある。何の意味もない。"聖なる書" と呼ばれている書物から活字という活字を削除してよい。"聖なる歌" を全部削除してよい。信者は儀式という儀式を全部欠席してよい。イエス自身もそんなことは望んでいない。
この勧めに従えば、教会は 空っぽ。


私は結論を急ぐつもりはなかった。しかし、書いてしまおう。

シルバーバーチの主張は、次のものに似ていると思うのである。
聖像を取り除け。それは人々をキリストから引き離すからと言え。ラテン語典礼をやめさせよ。それは多くの人にとっては意味不明の呪文のごときものだと言え。信心、歌をやめさせよ。聖なるオルガン音楽をやめさせよ。聖歌を廃止せよ。祭壇から聖人の聖遺物をことごとく排除せよ。祭壇そのものも排除せよ。ミサをする習慣を一掃せよ。「聖」の語を取り除け。祈祷書を取り除き、破壊せよ。すべての像と天使の絵を取り除け。修道服を捨てさせよ。すべてのカテキズム(カトリック要理)を焼き払え。教会を閉鎖に追い込め。告解をする慣習を取り除け。過去の教理はみな虚偽だったと宣伝せよ。真のキリストはもうすぐ来るのだと言え。
これにはまっても、教会は 空っぽ。

ご存知「イルミナティの極秘指令」である。(少しアレンジはしたが。)

よく見比べて欲しい。
どちらに従っても教会は空っぽになることといい、どちらもイエス(イエズス)を教会の外に放り投げていることといい、そっくりではないか?

私は思う。結局、

現幽所(ところ)は違えども、考える事は一緒

なのだと。

地上に居るイルミナティにおいては、
ドジって流出させてしまった文書において、敵意をむき出しにしている。

他方、霊界に居る「シルバーバーチ」と名乗る霊においては、
宗教的真理に疎い人達に対して、目も眩む「高級霊」の壮大な高みから、
聞こえのいい「半真理」を展開し、要するに「偽装」を行なっているのである。

(「疎い」とか、ドギツイ言い方をして御免なさい。)


しかし、今「内容」のことを言ったので、もう一度前に戻って確認させてもらうが、「シルバーバーチ」における問題は、その言っている「内容」自体がどうのというよりむしろ、彼が「イエスをよく知っている」と「嘘」を言っているというところにあるのである。そして、彼が嘘を言っているのは「明白」である。(後日、「ベイサイド」以外の示現も紹介する。)
そして、嘘をついた上であの内容なのだから、その正体は推して知るべし、否、明々白々だということなのである。「嘘」と「内容」の二つを絡ませて見なければならない。

カトリックの示現を見慣れている者から言わせると、シルバーバーチは「イエスをよく知っている」と言ったからこそ、自ら「墓穴」を掘ったのである。

ちなみに、霊的な事に不慣れな人のために言わせて頂くと、「たとえそのような嘘を言っているのだとしても、言ってる事自体がいいなら、私は気にしない」なんていうのは、駄目である。そのような嘘を言うのは「悪霊」なのだから。


霊的事象を広く探訪している人は、このような情景を見せられると、「キリスト教だけがあるわけじゃあるまいし。この宇宙は〈キリスト教の神〉と〈それに対抗する悪霊団〉だけから成っているとでも言うのか?」と呟きたくなるだろうと思います。お気持ちは分かります。私も昔、ニューエイジ思想、五井氏、岡田茂吉氏、などを通って来ましたので。
私はただ、分かるところから手を付けているに過ぎません。分かるところ、確実なところだけを相手にしています。「分からない霊界」を相手に、しかし「確実なるもの」を起点にして調べれば、その調査は、たとえ多少視野が狭くても、確実です。私にとってそれは、「確実なるもの」の起点を持たずに、視野を広く取り、「詳しく」なることもよりも、良いことなのです。
(誰に言っているのだろうw)


おまけ

ところで、
シルバーバーチは自分の祈りを
いつも次の言葉で始めるようだ。

「ああ、真白き大霊よ」
(Oh, Great White Spirit,)


真白き?


聖白色同胞団
(Great White Brotherhood)

白光真宏会
(White Light Association)

結局、そういうことなんじゃないですか?


参照
私は、五井氏の体から発しているこの光(写真右)が何の光なのかのかを疑うべきだと思うのである。(こういう写真は彼の場合一枚二枚じゃないのだが。)
高級霊から渡された如意宝珠から発せられる光ですか。あるいは人間誰しも内に蔵している「本心」の光ですか。
それを「疑う」べきだと思うのである。(疑う人はイジワルですか。)


里香ちゃん、しっかりしろ。

(五井氏のお孫さん)

お母さんに「ルシファーってどう思う?」って訊いてみなさい。
「ブラバツキー夫人ってどう思う?」って訊いてみなさい。

2010年11月25日

シルバーバーチは悪霊である 3

シルバーバーチは「何の意味もない」と言う

教義、儀式、祭礼、教典などは関係ありません祭壇に何の意味がありましょう。尖塔に何の意味があるのでしょう。ステンドグラスの窓にしたからといって、一体どうなるというのでしょう。法衣をまとったら、どこがどう違ってくるというのでしょう。そうしたものに惑わされてはいけません。何の意味もないのです。


霊言の愛読者の一人から「スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して〈最後の晩餐〉の儀式を行うべきでしょうか」という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチはこう答えた:

そういう儀式(セレモニー)を催すことによって、身体的・精神的・霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれとしては最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、わたし自身には、そういうセレモニーに参加したいという気持は毛頭ありません。イエスご自身も、そんなことをしてくれたからといって、少しもうれしくは思われません


「イエスを記念した〈最後の晩餐〉の儀式」とは、カトリックで言えば「ミサ」である。故に、これによってシルバーバーチは「イエス自身も、カトリックの司祭達がミサを捧げたからといって、少しも嬉しくは思われません」と言ったことになる。さて、それは本当であろうか。

儀式よりも生活の方が大切です。宗教は儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。"聖なる書" と呼ばれている書物から、活字のすベてを抹消してもかまいません讃美歌の本から "聖なる歌" をぜんぶ削除してもかまいません儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。(…)

儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えとは何の関係もありません


自分のことより他人のためを優先し、自分の存在を意義あらしめるほど、それだけ霊性が発達します。それはあなた方の一人一人の内部に宿る大霊が発揮されるということです。至って単純なことなのです。ところが人間は教会を建立し、何やら難しい説教をします。私にも理解できない難解な用語を用い、また、これぞ宗教とばかりに仰々しい儀式を行います。


彼は「教会は必要ない」と言っている。少なくとも「必ずしも必要ではない」と言っている。彼のよく知っている「イエス」も当然同意見なのであろう。

信条・ドグマ・教義・儀式・祭礼・ステンドグラス・祭壇・法冠・外衣——こうしたものが一体宗教と何の関係があるというのでしょう?


このように、シルバーバーチは、「宗教」「人間」「人間の霊魂」にとっては、「教義」も「儀式」も「祭壇」も「僧服」も「聖像」も、そしておそらく「教会」そのものさえも、何の意味もないと言っている。

先行句を少し変えてみよう。
「宗教の本質的目的」「人間の真の霊性の開発・進歩」のためには、「教義」も「儀式」も「祭壇」も「僧服」も「聖像」も、そして「教会」そのものも、何の意味もない

また少し変えてみよう。
「人間がまだ幼児期にある時」には、「教義」も「儀式」も「祭壇」も「僧服」も「聖像」も、そして「教会」そのものも、幾らか意味があるかも知れない

シルバーバーチの言っている事はそういう事である。
そして、シルバーバーチがよく知っているところの「イエス」も、彼のこの考えに当然同意しているのであろう。

では、これら全てのニュアンスを念頭に、これらシルバーバーチの思念が次の「霊」達の思念と同じかどうかを見てみよう。(やはり「ベイサイドの預言」からのものである。)

多くの者が、わが体(訳注:御聖体のこと)を、不敬としか呼ぶことのできない方法をもって与えている。多くの者が、わが体を、神を侮辱する方法でもって受けている。そしてまた、多くの者が、ミサの聖なる犠牲において、不浄、不信心、心と行為における不純を促進している。
1979年5月26日、イエズス 

私の御子の恩寵、彼の肉体的な体(訳注:御聖体のこと)、あなた方のミサ聖祭における恵みを、しばしば受けなさい。しかし、それは奉献された手によってのみ、私の御子によって祝福された手によってのみ、御子の仕事をするため、御子を代理するために叙階された人の手によってのみ、あなた方に与えられなければなりません。
1971年2月11日、聖母 


儀式が「単なる儀式」であるならば、「単なるセレモニー」であるならば、このようには決して言われないことだろう。儀式が「単なる儀式」であるならば、どうして「不敬」とか「そこから恵みを受けよ」とかいうことになり得ようか。

わがミサに対する信仰を失ってはならない。それは有効である。人間はそれを歪めるかも知れない。しかし、それは有効であると、私が言う! ローマ・カトリック教会の合法的に叙階された司祭がミサを挙行する時それは有効であると、私が言う!
1976年12月7日、イエズス 


儀式が「単なる儀式」であるならば、「単なるセレモニー」であるならば、このようには心配されないであろう。

カトリックを知らない人のために、上の中の「有効」という言葉を説明しなければならない。
カトリックのミサにおいては祭壇の上で「パン」が「キリストの体」に変えられる。これを「聖変化」という。外観はパンのままだが、"実体" が「キリストの体」に変わるとされる。どのみち人間には分からない、「信仰」をもって向かわねばならない神秘的なことである。(宗教が「神秘的」なことを含まず、ただ「精神的」なばかりであるなら、修身と同じであろう。)
ところが、第二バチカン公会議以降、ミサの形態や式文が新しくなり、また神学校での司祭養成の中身も怪しくなったせいもあって、一部の者達から「これでは聖変化が起こらないのではないか(無効ではないか)」という疑義が提出された。これをもって教会から出る者達も現われた。
上の霊達の言葉はそのような状況に対応している。つまり、そのような状況を憂い、「いや、それは有効だから、出てはいけない」と言ったものである。


さて、ここで一つ、私らしい嫌な言い方をする。

聖書も仏典もほとんど開いたことがなく、祈りも瞑想もほとんどしたことがなく、神仏の "実在" ということをほとんどまともに考えたことがないような人が、堂々と「宗教の "本質" とは」と論ずることが出来たりする、不思議な、勘違いな人の世である。そのような「宗教を知らずに宗教を論ずる」ということが出来ると信じている人達は、ある者(人であれ霊であれ)が「宗教の本質は愛です」と言えば「そうそう」と思い、「宗教の目的はただ愛であるから、儀式など非本質的なものです」と言えば「そうそう」と思う。しかしそれは、言っちゃ悪いけれども「単純」というものである。あなたにはなお考えるべき多くの事がある。

たとえば、前回「あなた方は文章によって欺かれないように」という「聖母」の言葉があったけれども、試みに「儀式」という言葉を「秘跡」という言葉に置き換えてもらいたい。シルバーバーチが「宗教にとって儀式など何の意味もありません」と言ったのではなく、「宗教にとって秘跡など何の意味もありません」と言ったのだと。すると、あなたは「秘跡とは?」と考えなければならなくなる。そんなに直ぐには「そうそう」と頷けなくなる事態になる。

つまり、シルバーバーチは一般に通りのよい「儀式」とか「セレモニー」とかいう言葉を単純に置くことによって、それが「神秘的」なものである可能性を捨象しているのである。「儀式はただの儀式、ただ形だけのもの」ということを既成事実化している。

少なくとも私達はこのような「論法」に気をつけなければならない。


さて、そして、上に引用したベイサイドにおける「イエズス」のことである。
彼は、実際、シルバーバーチとは〈正反対〉に、儀式を「単なる儀式」とは見ず、「単なる形式・形骸」とは見ずに、何か非常に「神秘的」なもの、神秘的な形で人間の霊魂に多大な恵みを与えるものと考えているようである。

それ故に、
私達がここで最も考えなければならないこと、見極めなければならないことは、

この「イエズス」と名乗る霊と、シルバーバーチが「よく知っている」と主張している「イエス」は、はたして同一人物、否、同一霊だろうか?

ということである。

シルバーバーチの言っていること自体はそれほど悪いことには思われないと、多くの人は思うかも知れない。けれども、もし、シルバーバーチが「よく知っている」と主張しているところの「イエス」が、本当のイエス、本当のイエズス・キリストではないとしたら、それは・・・「もの凄いこと」になるのである。

「えらいこっちゃ! どえらいこと!」なのである。 Do you understand?

何故なら、もしそうであれば、

自ら「高級」を名乗る霊が、「真理」の名のもとに、また「愛」の名のもとに、「嘘」を言っている

ということになるのだから。(ここは単純に考えなければならない。)

そして、次の質問は、こうである。

霊界において、それほどの「嘘」をつくものは、何か?

よくよく考えてみなければならない。


もちろん、その逆のことも公平に言っておこう。

ベイサイドで「イエズス」を名乗っている霊こそが、本当のイエズスではないのかも、ニセモノなのかも、

と。

2010年11月24日

シルバーバーチは悪霊である 2

聖書について

シルバーバーチは聖書について次のように言う

ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する正しい記録はきわめて乏しいのですが、その乏しい記録に大変な改ざんがなされていることです。ずいぶん多くの、ありもしないことが書き加えられています。したがって聖書に書かれていることには、マユツバものが多いということです。出来すぎた話はみな割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから……


聖書の「非信頼性」を言うこの言葉が真実であるとすれば、天国はもはや聖書のことを決して「The Holy Bible」とは呼ばないであろう。(慣用句としてさえ。)

しかしながら近年の預言である「ベイサイドの預言」では、そこに登場する「霊」達は、聖書から「Holy」という語を除くことなく、「The Book of life and love」という呼称をやめることなく、確固として聖書の全くの「信頼性」を人々に訴えかけている。

以下は「ベイサイドの預言」から聖書について言及されている箇所をベイサイド関係の老舗サイトの一つである These Last Days Ministries が抜き出し、まとめたものである。

未信者の方々においては、この内容自体、具体的なこと細かいところは、とりあえず問題とする必要はないと思う。必要なのはただ、その「筆致」を全体的に、且つ素朴に見ることである。「聖書」について、これらの霊がどのような姿勢・意識を持っているかは、語られている具体的な事柄はピンと来なくても、十分感知することができると思う。

なお、私がこの「ベイサイドの預言」というものを引用することを、たとえ聖書の擁護のためであろうと、歓迎しないカトリック教徒がたくさん居る。たくさんというより、大部分がそうである。その意味については、別途コチラ(既出)を読んで頂くしかないが、ここではむしろ、以下の言葉を素朴な心で読んで頂きたいと思う。

訳の正確さは必ずしも保証しない。というか、できないw。下線強調は管理人。


古い聖書
あなた方は皆、生命と愛の書、聖書を持っていなければなりません。新しい流行を受け入れてはなりません。書店の中に古い聖書を見つけようとしなさい。私の子供達。というのは、多くのものが人間の肉の性質に合うように変えられつつあるからです。繰り返します。罪が一つの生活様式にまでなっています。
1992年10月6日、聖母 

ほんの二、三章
私はあなた方皆に、日にほんの二、三章ずつ、生命と愛の書、聖書を読むようにと頼みます。私の御子の弟子達の全てが、知識を得なければなりません。というのは、あなた方は科学的なマインドによって攻撃されるでしょうから。しかし、ズケズケと話しかけられる時にも、何を言おうかと心配しないでください。言葉は聖霊から与えられるでしょうから。
1976年4月10日、聖母 

ヨハネ、ヨエル、マタイ
生命の書、すなわち聖書について何も知らない人達のために、あなた方は昔の預言者達の手引き (direction) を読んであげなければなりません。ヨハネ、ヨエル、そしてマタイは、あなた方に真理と預言の言葉を残したのです。
1973年4月14日、聖母 

理解
あなた方は聖書をよく学ばねばなりません。そうすればあなた方は、永遠の聖父が本当にシンプルな道をあなた方に与えておられることを理解するでしょう。それは人間の理解を遥かに超えたことです。というのは、祈りと苦しみと犠牲なしには、あなた方は聖書を理解する為の恵みさえ、聖父から受けることはないでしょうから。
1979年10月2日、聖テレジア 

あなた方の心の中に
生命と愛の書、聖書は、あなた方から取り去られることは決してないでしょう。そして、一度読まれた言葉はあなた方のハートの中に残り続けるでしょう。家庭の父親達、母親達。あなた方の子供達に、この知識の模範を与えなさい。子供達を静かなコーナーに伴い、読んで聞かせなさい。というのは、そのようにして彼らは真理を学び、光を与えられるからです。
1974年3月18日、聖母 

神学者
現在、私の御子の家にさえ、人類に悪魔の教義をもたらしている多くの神学者達がいます。彼らが教えているのは人間の教えであって、神の教えではありません。多くの者が、愛と生命の書、聖書の中の言い回し (wording) を変えるという傲慢を犯しています。それらの変更は人類を罪の束縛の中へと誘い込むことでしょう。
1979年6月2日、聖母 

ソドムとゴモラ
同性愛というあなた方の言葉は、ソドムとゴモラの物語によって説明されることができます。聖書を読みなさい……
1992年10月6日、聖母 

15分
お聞きなさい、私の子供達。あなた方は、聖書を読むことに大いなる恵みがあるということを理解しなければなりません。たった15分という短い時間にさえ、それがあるのです。あなた方は免償の恵みを受けるでしょう。忘れましたか、私の子供達。私の御子の家の現代化の中で、あなた方は免償を意味を忘れましたか。私の子供達、それは、あなた方がそうする必要のある時に、煉獄の霊魂達に譲ることのできるものです。
1985年7月25日、聖母 

家宝
神の王国への道は、聖書を読むことの中に見出されます。人は神を知りません。人はもはや聖書の啓示の中に神を探そうとしていません。
流刑にある霊魂は、ただ神の言葉によってのみ養われるのです。聖書はあなた方の家庭の家宝です。
1970年4月7日、聖母 

福音書
ヴェロニカ − テレジアが言っています。彼女は生前、いつも、その小さな本を彼女の服(修道服)の折り目のところに入れ、持ち歩いていたと。私は今、彼女がそれを持って私のすぐそばに居るのを見ています。それは福音書です。今、テレジアが言います:
「私は生前、博識な者でも学者でもありませんでした。しかし、私が持ち、必要とした全ては、この小さな本だったのです。そしてキリストに倣いて』も大事にしました。」
1972年12月31日、聖テレジア 

頭の覆いヴェール
私の子供達。女性達がミサの聖なる御生贄の際に頭を覆わないのは、傲慢な(訳註: あるいは「挑戦的な」)態度なのです。彼女ら (They) は従わないでしょう。というのは、彼女ら (They) は、人は聖書の言い回し (wording) を変えてはらないということを理解できないからです。人間、そして教会位階は、聖書の言い回し (wording) を人間本性 (mankind's instincts) に合わせて変えてはなりません。
1978年7月15日、聖母 

全体として
生命と愛の書、すなわち聖書をほとんど知らない人達は、今世界をうろつき、選ばれた者達をさえ騙そうとしている偽の証言者達の恰好の餌食となるでしょう。あなた方は文章によって欺かれないように、あなた方の聖書をよく読まなければなりません。聖書は、こちらから少し、あちらから少しと、部分的に引用されればいいというようなものではありません。あなた方はその全体を知らなければなりません。というのは、サタンは多くの者の心に毒を盛ったからです。そして、サタンというものは、聖書を説明することさえできるのです。
1979年5月26日、聖母 

黙示録
私の子供達。聖ヨハネの啓示書、黙示録を読みなさいとの私の助言に従った人があまりにも少ないので、私はとても悲しんでいます。それを読みなさい、私の子供達。あなた方を照らしてくださるように、私の御子に、永遠の聖父に、また聖霊に頼みなさい。そうすれば、それらのページはあなた方にとって明確なものとなるでしょう。
それらのページは巻物のように開示されるでしょう。そして、あなた方は来たるべき日々について完全な理解を得るでしょう。長年の間人類から隠されて来たものが、世界をその自己破壊から救うため、開示されようとしています。
1981年6月13日、聖母 

全く明白
人間は、時代を経るごとに、不満げになり、プライドに満ちるようになりました。彼は聖書の中に、言葉についての彼自身の解釈を加えよう、持ち込もうとして来たのです。しかし、心の単純な人達、プライドと傲慢に屈しなかった人達にとっては、聖書の言い回し (wording) は全く明白なものです。
1976年7月15日、聖母 

1965年
私は次のように願う。わが声を聞いている全ての人は、自分の聖書を持たなければならない。もし持っていなければ、探しなさい。しかし、わが子らよ、正しい聖書を、1965年以前に印刷されたものを見つけるべきである。
1985年10月5日、イエズス 

前進
あなた方は、右手に十字架を持ち、左手に聖書、生命の書を持って、前進しなければなりません。そして、この本を否定する者は全て、光の側の者ではありません
1974年5月22日、聖母 

ただの一語でも
あなた方は、生命の本、聖書を、人間を喜ばすために変えることはできません。そうしてはなりません。そうする時、あなた方はサタンを喜ばせているのです。あなた方は聖書の次の言葉を覚えておかねばなりません。誰であれ − 女であれ、物心ついた子供であれ、およそ人間と呼ぶに相応しい者であれば − 生命の書、すなわち聖書の中のただの一語でさえ変えようとするならば、生命と光の王国、すなわち天国の外に放り出されるであろう。光から放り出され、サタンに支配された暗黒の中に投げ込まれ、永遠に滅ぼされるであろう。
1978年7月15日、聖母 

物語に過ぎない?
もし彼らがあなた方に「聖書は人間の手によって書かれた物語に過ぎない」と言うならば、それは嘘だと知りなさい。もし彼らがあなた方に「神学者達がこの1982年現在に言っている事を信じることの方が良い。実際、大きな声では言えないが、他の全ての神学者達は愚かだったのだ」と言うならば、それは真実でないと知りなさい。それが事実です。そのように言う司祭は嘘つきです。
1982年6月18日、聖母 


これらの言葉が私達に「聖書を全面的に信頼せよ」と言っているのは明らかである。もし聖書がシルバーバーチの言うように「大変な改ざん」「多くのありもしないこと」「多くのマユツバもの」を含んでいるならば、誰がそれを「生命と愛の書」と呼べようか? 「家宝」と呼べようか? 「それを毎日読みなさい」と言えようか? 「そこから光を得なさい」と言えようか?

これらの言葉は、この世の多くの人々が不信を抱くところの人間組織から来たものではなく、また、個人の脳髄(潜在意識)から派生したものでもなく、「霊」から来たものである。(私の理解では。)

そして、シルバーバーチの言葉も、人間の手になるものではなく、やはり「霊」から来たのものであろう。(私の勘では。)

あなたはどう思うだろう。

シルバーバーチは悪霊である 1

シルバーバーチの霊言については、私も昔、多少読んだことがある。が、現在、本は一冊も持っていないし、また、買うつもりもない。

しかし「スピリチュアリズム・ブックス」というサイトに、彼に関する本が4冊、なんと全文がアップされている。


これらを使うことにする。

そのサイトの「著作権について」の内容により、引用の量はごく控え目にする。引用箇所の前後を確認したい方は、その都度引用元へのリンクを付記するから、各自確認されたい。(念の為に言うと、私はなにも前後関係を無視して自分の都合の良いところだけを抜き書きするのではない。全文は常に開示されているのだから、気になる方はご自分で確認されたい。)

シルバーバーチは「自分はイエスをよく知っている」と言う

通信して来ている霊は、正確に言えばシルバーバーチではなく、シルバーバーチを媒介として使う一個の「高級霊」であるということのようである。しかし、以下、単に「シルバーバーチ」と呼ぶ。

シルバーバーチは次のように言う。
私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主イエスの目に涙を見たことがあります。


「あなたがご存知のイエスについてお聞かせください」という質問に対して ---
わたしは何度となくお会いしております。(…)あなた方がスピリチュアリズムと呼んでおられるこの真理(…)の普及の指揮をなさっておられるのです。交霊会をはじめとするさまざまな仕事を指示しておられるのが、ほかならぬイエスその人なのです。(…)わたしたちが実際にお会いし、そして激励の言葉をいただいているのが、実在の高級霊、かつて地上で “ナザレ人イエス” と呼ばれていた方なのです。


わたしは、その大審議会を主宰される、かつて地上で “ナザレ人イエス” と呼ばれた人物が、わたしたちの業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的をもって邁進するようにと励ましてくださる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し、聞き、そして感じ取らせてあげられればと思うのですが、それができないのが残念です。


以上このように、シルバーバーチは「イエスのことをよく知っている」そうである。まず、これを大前提としよう。

シルバーバーチは「イエスは “スピリチュアリズム” や “交霊会” を指導している」と言う

上の二番目の引用を参照のこと

シルバーバーチを信じるとは、このような事を信じるということなのである。江原氏であろうと誰であろうと、優れた「霊能」があるのだろうと何だろうと、このような事を信じるということなのである。

さて、しかし、私は、イエズス様、あるいは聖母、あるいは天国に属する他の霊が直接的に「スピリチュアリズム」や「交霊会」に言及している箇所を見出すことはできなかった。(「オカルト」や「ウィジャー盤」について語ったものはあったけれども。)

しかし「悪霊の能力」にあったように、聖書は申命記において「占いをする者、卜者、易者、魔法使い、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。主はすべてこれらのことをする者を憎まれるからである」と言っているのだから、聖書の内容を全面支持する「霊」の声を引くことによって、シルバーバーチの主張に対抗することができるだろう。

できるのは、対置し、対抗することだけである。霊的な事に「証明」はない。
しかし、人は本当の事を「感じ取る」心を持っているであろう。

2010年11月22日

宗教における第一次的なもの

さて、こう申し上げる。

「真理探究」においては、各宗各派の「教義」は問題ではない。
「事実」だけが問題である。霊的「事実」だけが。

言葉を換えて言うと、

ある既成宗教の「教義」が価値あるものとすれば、
それは、それが「事実」に合致している時である。

「教義」が先行するのでなく、「事実」が先行する。

当り前のことである。

「事実」に関する探索がなければならない。ある宗教、ある教え、ある教団・教会に対する「信じます」、つまり信頼は、あくまで「最終的」なものでなければならない。


キリスト教に関して、「事実」、霊的「事実」は、どこに見出されるべきものであるか。

聖書の中にか。
けれども、多くの人はこう思うのである、「聖書には、当然、人為が加わっているだろう」と。つまり、聖書は、教会権威が自分達に都合のいいように「事実」を歪曲あるいは捏造した部分も相当にあるであろうと。そう思う人達にとっては、既成宗教の「既成」、あるいは伝統宗教の「伝統」は、即ち「人為」を意味し、組織宗教の「組織」は、即ち「腐敗・堕落」を意味するであろう。彼らは聖書が「聖霊」によってよく護られたものであるという「可能性」については、ほとんど考慮しない。「教会なんて、事実をねじ曲げているに決まっている」と、ほとんど頭から信じて疑わない。そうであるから、彼らの中で霊的な事柄に関心のある者は、必然的に、「既成」「伝統」「組織」などとは成る可く無縁のところに「霊的事実」を捜そうとする。私は、これはある程度致し方ないと思う。

それ故、次のように言えるのではないか。
私達が、食品消費者として、時に第二次産業が産み出した「加工食品」に疑いを持ち、第一次産業の農場に自ら出掛けて行って自分の目で直接ニンジンを調べてみたくなるように、私達は宗教における「第一次的なもの」を調べてみる必要を感じるのである、と。

では、「宗教における第一次的なもの」とは何か。
ある人々にとっては、それは「霊能」「霊言」の類ではないか。マシュー君とか、江原啓之氏とか、シルバー・バーチとか、スピリチュアリズムとか、シャーリー・マクレーンとか、古くは宜保愛子氏とか、そのようなものに人々が目を向けるのは、その為ではないか。彼らはそのような場所に、宗教の第一次的な「資料」を見出す思いがするのである。霊的な「源泉」を感じるのである。私は、カトリック仲間には叱られるかも知れないが、これはある意味もっともなことで、自然なことであると思う。

では、「聖書の記述は、かなりの部分、人為であるに決まっている」と頭から思う人の為に、私はこれから、カトリック界における「霊言」の類を幾つか紹介しようと思う。そういうものが有るからである。多くの人にとってはキリスト教と言えば「聖書」であるが、それしか思い浮かばないのであるが、それは間違いである。「霊言」的なものが有るのである。教会はそれらをあまり表に出したがらない。しかし私は、それではかえって一般の人の霊的探究が進まないという気がするのである。

もっとも、「霊言」などという語を使うと、カトリック仲間からは非難轟々であろう。分かっておる。しかし、ここは少しご容赦頂く。問題は一重にその「内容」であるから。聖書だけでは信じられない人達のために、ある種の検証を始めよう。

私は、シルバーバーチにおける「霊言」とカトリックにおける「霊言」(の類)との擦り合わせを行なおうと思う。

しかし、「カトリック教徒が受けたと称するところの霊言など検討に値しない。それはその者らの脳髄に既に存在したところの教理なり教義などの反映に決まっている」と《断定》する人のことは、まあ、面倒は見切れない。
疑っても良い。けれども、「断定」する人のことまでは、面倒は見切れない。以下は、「彼にも偏見あり、我にも偏見あり」と自覚する人、彼にも疑いを向け我自身にも疑いを向け、真に公平であり真に精細な検証に努めようとする人の為のものである。

もちろん、「精細」とは言っても、相手は目に見えない霊的な事柄であるから、限界がある。故に「精細」とは、ただ私達の意気込み、姿勢のことを示すものとお考え頂きたい。

ついでに言えば、もし私達が、検証の試みの結果、「シルバーバーチは信頼するに値しない」とすることができるならば、必然的に、シルバーバーチからご自身の霊的旅を始められた江原啓之氏や、江原氏の「霊能」を全面的に認め、自らも「霊能者」であるとする美輪明宏氏のことなども、「人間的信頼は別にして、霊的信頼を寄せるには値しない」と言うことができるであろう。


私はここでも「誤解しないでください」と言わなければならない。私は、人間としては、江原氏や美輪氏のことをむしろ好きである。しかし、なおかつ「それはそれ」である。
私のこのサイトは「攻撃サイト」ではない。私がこのような事を言い、行なうのは、むしろ、江原氏の、美輪氏の、西園寺氏の、そして人々の、霊魂がかかっているからである。もし、 西園寺氏ばかりでなく、山川ご夫妻ばかりでなく、江原氏も、美輪氏も、その「霊能」を含めた全てにおいて、「アセンデッドマスターズ」(前回参照)とかいう高知能の悪霊集団にすっかりまるっと騙されているならば、それは気の毒だからである。

私は、「何が本当そうか」という『肯定的な旅』よりも、最も信頼できるものを見出す為に、「信頼し切れないものを捜し、落してゆく」という『否定的な旅』を提案する。言葉を換えて言えば、『消去法の旅』である。「〈何か〉を感じさせるものの中で、信じ切れないものを振り落としてゆき、最後に残ったものが信じられる(かも)」式の旅である。もちろんこの手法にも限界があるが、しかし選択肢が狭まるだけでも意義があると思うのである。

前置きが長くなったが、では、次回から始める。形態としては、単純な比較になる。「単純過ぎる。幾つかの〈解釈〉があり得る」と思う向きも多かろうが、まずは単純に眺める。「判断」を急がずに、まずじっくりと「観察」しよう。

2010年11月20日

白光真宏会は信ずべきものではない

宗教戦争を恐れずに、このような表題で書くわけである。
人々の理性を信じて。

五井昌久氏 (1916 - 1980)
白光真宏会の教祖

親愛なる五井先生。ああ、しかし訂正する。五井昌久と。

白光真宏会とは、街を歩いている時など、ステッカーあるいはポールという形で「世界人類が平和でありますように May Peace Prevail On Earth」と書かれたものをたまに見ることがあると思うが、それを配布している教団である。(ただし、「教団」的な締め付けは皆無である。束縛はない。)

悪いが、以下、否定的なシグナルだけを並べる(いつもだがw)。この霊的に危険な時代にあって、私達は特に「否定的な臭覚」を持たなければならないからだ。牧歌的な人間でいることはできない。

彼の本は今ほとんど手元にないので、以下、正確な引用はできないが。

1

白光真宏会の教祖、「1949 (S24) 年に『神我一体』を果し、『覚者』となった」と自認する五井昌久氏の言うところによると、ある時、彼のもとに「イエス・キリスト」が来たそうである。彼はその時、長期の肉体的苦しみの内にあったのだが(彼はそれを「自分が人類の業想念を身に受けて浄化しているのだ」と説明した)、そんな彼にイエスは言ったというのである。「あなたは偉い。私の苦しみは僅かな時間のものだったが、あなたはこんなに長い間苦しんでいる。天はあなたを祝福する。」(というような事を。)

しかし、私の考えでは(誰にも押しつけはしない)、イエズス様はそんなことは言わない。イエズス様はご自分の教会の権威と秩序を重んじられる。キリスト教徒ではない「覚者」のもとにご自分が現われてそんなことを言えば、ご自分でご自分の教会の権威と秩序を乱すことになる。
そして、事はただカトリックの問題ではない。五井氏はイエス・キリストを「覚者の一人」と言っている人である。そんな人のところにイエズス様は来るはずがない。
私はこれをキリスト教の固定的な教義からのみ言うのではない。カトリックにはカトリックの「示現」があるからである。(もちろん聖書以上のものとはされないが。)


キリスト教徒としては、私はこれ以上書く必要がない。けれど、私はヘソ曲がりのキリスト教徒であって、「キリスト教徒はキリスト教徒である前に、いかなる固定観念からも自由な探究家でなければならない」との恐ろしい言葉を吐きかねない人間であるから(必ずしも「吐く」とは言っていないw)、今「霊的世界の探究家」の位置にいる人のために、また勿論、「白光真宏会」の教えをを信じ、その導きに従っている人のために、もう少し書くことにする。

2

彼の言うところによると、ある時、彼のもとに「クートフーミ大師 (Master Kuthumi)」という霊が来たそうである。そして、やはり彼のことを誉め、祝福したそうである。この事はネット上でも確認できる。

「1970 (S45) 年10月24日 ー ヨーロッパのハイラーキ代表・イギリスのバズビー博士、聖ヶ丘にて五井先生と懇談。博士を介してヒマラヤ聖者のクートフーミ大使・地下シャンバラの聖者方からのメッセージ受ける。ハイラーキーより霊的援助・祝福を受ける。」
参照1)() 

しかし、「クートフーミ」を名乗る霊は神智学協会に出入りしていた霊である。ブラバツキーと親しい霊である。


私が五井氏から離れるキッカケになった事の一つが、これであった。クートフーミだのモリヤだのシャンバラだの、私は「得体が知れない」と思ったのである。
しかし、五井氏自身はこの出来事を光栄に思っていた。私はこの事を古い機関誌(『白光』誌)の中に読んだばかりでなく、五井氏の肉声を収めた「ご法話テープ」の中にも聞いたが、それを話す五井氏の声は明るかった。「救世の大光明霊団」の中の主要な高級霊の一人であるクートフーミからいわば「お墨付きをもらった」式に喜んでいた。


しかし、私は一時期、確かに五井氏を敬愛していた。何度か千葉の市川道場に足を運んだほどである。(彼は既に亡くなっていたが。)
けれど、今思うと、彼は知恵に長けた悪霊たちに騙されていたのだと思う。彼の主観の善意については、私は今も疑っていない。

彼の教団の中心的な祈りは、既に言ったが、「世界人類が平和でありますように May Peace Prevail On Earth」というものである。私はこの祈りも好きだった。「なんという素朴で美しい祈りだろう」と。けれども、今、この祈り言葉を画像検索にかけると、多くのピースシンボルに出会う。それは教団自身が作ったものでも教団が信奉者に作れと指示したものでもないけれど、また、両方とも「平和」を謳っているのであるからそうなるのは自然ではあるけれど、どうも気になるところではある。

二代目教主、西園寺昌美氏。彼女は富士の「聖地」にピラミッド(円錐形ではあるが)を持つ。

彼らの海外における活動組織 The World Peace Prayer Society (WPPS) は、「宗教グローバリゼーション」において、国連と足並みを揃えている。実際に行動を共にしている。
それを確認するには、彼らの言葉もあるけれど、それより次のロゴを見れば一発で分かる。


彼らはこのロゴを持つ団体とも行動を共にする

参照5 - 国連本部などでの彼らの行事の写真

彼らが国連を「浄化」しているのではなく国連と「意気投合」しているのは明らかである。

西園寺氏は若い頃から五井氏のもとで厳しい「霊修行」をした人であり、「守護神・守護霊」や「宇宙天使」など、「高級霊」を含む様々な霊的存在と、また、名が有るんだか無いんだか分からない「宇宙神」と、コミュニケートできる人のはずである。しかし、ベイサイドの聖母(私はこれを個人的に信じている。誰にも押しつけはしない)が「悪の座」とも「毒蛇の群れ」とも呼んでいる国連、「あなた方はアメリカという国ごとそれから離れなければなりません。それをあなた方の国から追い出しなさい」とまで言っている国連と、彼女はいったいどのような「霊覚」をもって心と行動を共にできているのか?


国連本部富士聖地


記事を終ろうとしたが、WPPS とピースシンボルとの結びつきについて、上で呟いた「危惧」程度のものでは済まないということが、今の今、分かった。WPPS のオフィシャルショップが「May Peace Prevail On Earth」と「ピースシンボル」が組み合わさったグッズを販売しているのである!



以下、販売代理店?サイトから(物は同じである)





ピースシンボルを持つグッズはこれだけのようである。しかし「オフィシャル」なものである。「一つだけでしょ」では済まない。「あなた方はこのデザインを認証したのですか?」と教団の上の人達に訊きたい。「神人養成プロジェクト」まで持つ彼らであるのに、誰もこれの持つ危険性に気づかないのか?

林陽氏がエドガー・ケイシーについて「いったい、彼のチャネリングの源は何だったのだろうか?」と言ったように(参照「宝瓶宮福音書は悪霊の作である」)、私達は「いったい、白光真宏会の言う『霊覚』とは何なのか?」と問わなければならない。

西園寺昌美氏に訊いてみたい。「あなたは、神智学協会についてどう思いますか? マダム・ブラバツキーについてどう思いますか? それは悪霊と関係した何かですか?」と。おそらく、彼女は「そうです」とは言わないはずである。

上のブレスレットを誰かが身につけているのを見たとしても、否定的な事は何も言わないはずである。かえって、「あらぁ、それをしてくれているの」とか、「素敵ね」とか、言うかもしれない。


結局、やはりここにおいても、
「類は友を呼ぶ」というのは真なのではありませんか?
「不思議に一致する」というのは真なのではありませんか?


そして、私は昔、こう書いたのでしたが、

今後は、こういう雰囲気のものには要注意です。
国連なども、これをやってくるでしょうから。


WPPS のロゴはこれでなのです。





「馬鹿の直観おそるべし」と褒めて下さい。



それにしても、話題がちーちゃんから離れています。
ちーちゃん、元気ですか?






白光真宏会から出て唯一会を立ち上げた森島恒吉さん。私はかつて同じ信仰を持っていた者として言いますが、つまり敵愾心・党派心は一切ありませんが、事の真実は「西園寺氏が教祖の五井氏の教えの本質から逸脱した」などという事ではありませんよ。五井氏は、いつの時点からは知りませんが、しかし「五聖者合体」においては確実に、おそらくはシャンバラとか、神智学とか、そのへんに関係した、そのへんに出没する、かなり薄気味の悪い、「アセンデッドマスター Ascended Masters」とかいう言葉で言及される霊達、そのような「文脈」で説明される霊達 ー もちろん悪霊です ー に完全に騙された、かつがれた、ということですよ。五井氏も人間であって、知恵に長けた悪霊たちにはかなわなかったということです。五井氏を訪ねたという「イエス」も本当のイエスではなくて、私の卓越せる第六感ではw、神智学的な暗い霊界の中でただ「イエス」を名乗っている、それを詐称している霊ですよ。ブラバツキーの横にいるマスター・クートフーミだの、マスター・モリヤだの、サン・ジェルマンだのの得体の知れない霊達の仲間としての「マスター・イエス」が、その時そこに居たのでしょう。

けれど、その前に、白光真宏会、そして森島恒吉さん、あなた方は共に、フリーメーソン、イルミナティ、神智学協会、このへんのものが「悪」であると、「悪霊の会堂」であると、よう言い切らんのでしょう。見極められた方がいいと思います。

親愛なるRKさん (^^)

「一致」のもう一つの例

2006年
アメリカという国は、このお爺さん、93歳ですが、この人が支配しています。金融も、石油も、軍需も、麻薬も、食料も、すべてこの人がボスです。(…) デイヴィッド・ロックフェラー、93歳です。さっきからロックフェラー、シオニスト、ユダヤ権力、という名前が出てるでしょ? CFR、FRB、そのへんを全部まとめている大ボスがこの人です。


親愛なるリチャードさん、私はあなたに、あなたの存在に、感謝します。
けれども、人間の世界ではほとんど「頂上的」な明敏さをお持ちのあなたも、さすがに、天国にまではかないません。あなたがデイヴィッド・ロックフェラーについて上のように語ったのは2006年(上のビデオでは)でしたが、天国は同じ事について1975年の段階で既にはっきりと言っていたのであります。

1975年
大天使聖ミカエル: あなた方の国を陰で動かしている一人の男がいる。彼は間もなくこちらに近づき、自分の姿を現わすだろう。彼はその権力への欲望の故に、あなた方の国を危うくする者である。彼は世界の金権力の全てと手を結び、それらを一つの統合体----世界政府-----の中に加えた。こちらに来て、自らを現わせ、頭目よ!

ヴェロニカ: おお、何と言うこと! おお、何と言うこと! 陰に隠れている男はミスター・ロックフェラーです! 彼が陰に隠れている男です!



「天からの示現」だの「大天使聖ミカエル」だのと聞いて、霊的な事柄に慣れていない人は、閉口するだろう。
ただでさえ閉口するのに、その上、次のような情景が私達の眼前に広がっているのである。

ベイサイドのメッセージは「天からのメッセージ」、
マシュー君のメッセージも「天からのメッセージ」、
ベイサイドには「大天使聖ミカエル」がおり、
フィンドホーンにも「大天使ミカエル」がいる(確認)。

o(_ _o)……

あなた(リチャードさんのことではない)は「見分けたい」と思いますか?
どれが本物でどれが偽物か、あるいは両方とも偽物か、あるいは両方とも本物(?)か、あるいは両方とも単に人間の脳髄から出たものか。

「見分けたい」と思いますか?

思わないよね。



2010年11月18日

マシュー君とピースシンボル

前三回の記事を「飄(つむじ風)」さんが取り上げて下さった。(参照1
感謝である。

あ〜、けれど、飄平さん、これは私の書き方が悪かったのかも知れないし、もとより「語感」のことだけれども、私は、霊的な世界について「人生に於いて8割の時間を研究に傾注」してはいません。まず、「研究」などという大それた事はしていません。そして「人生の8割の時間」を、むしろぼんやりとした意識で、大して益のない事に浪費して来ました。だから、「傾注」もしていません。
ただ、私における「関心対象の比率」が、ここ数十年、言ってみれば「霊的方面に八割、地上的方面に二割」であったというのは、本当です。だから、私は政治経済には疎いです。自信がありません。けれど、霊的方面に関しては、少し、事情が違います。しかし、誇るつもりもありません。


さて、その飄平さんがおそらく何度かはメールの交換をしているであろう人達について、以下、見ようによっては優しさのない、無神経な表示をすることになる。しかし、現実を知らせるために、「隠れた現実」を知らせるために、あえてはっきりと表示する。


類は友を呼ぶ。
真理は真理と引き合い、非真理は非真理と引き合う。
不思議とそうなる。ここにもその実例がある。

これはあくまで私の「想像図」である(と言っておく)

左は、言わずと知れた「マシュー君」。「玄のリモ農園ダイアリー」の森田玄さんが支持し、その「メッセージ」を広めておられるものである。
右は、ピース・ノット・ウォー (PNW) というイギリス発の平和運動団体の日本支部(?)のためのロゴ。その中には「ピースシンボル」が見える。(画像検索) 911問題の真相究明運動で有名な「きくちゆみ」さんが、その平和運動に参加しておられる。

私は実は、もう1年とか1年半とか前のことになると思うが、きくちゆみさんのブログ「きくちゆみのブログとポッドキャスト」のコメント欄に「ピースシンボルの危険」をお知らせしたことがある(非表示で)。しかし、案の定、それは顧みられることなく、ゆみさんは今も依然としてその運動に参加し続け、ブログにそのロゴを掲げておられる。

そして、実は、私は今回「マシュー君」の周辺を調べている途中で、森田玄さんときくちゆみさんとがご夫婦であることに初めて気がついた次第である。私は唸らざるを得なかった。一つ屋根の下に「マシュー君」と「ピースシンボル」とがあるわけであるから。誰の感覚でもない私の感覚において、「マシュー君」も「ピースシンボル」も共に「サタン」を意味するのであるから。

誤解しないで頂きたい。私は玄さんとゆみさんが「サタン」だと言っているわけではない。侮辱する意図もない。むしろ私は、玄さんとゆみさんに、現実にあるだろう「霊的危険」をお知らせしたいのである。

この「ピースシンボル」なるものについては、私は他の自サイトで何度か書いているし、ここでも「レディ・ガガ: その行状 5」で書いた。しかし、ここでもう一度その中心部分を紹介する。

私が個人的に信じている(というより、疑えない)「ベイサイドの聖母」が、この「ピースシンボル」なるものについて次のように言っているのである。
両親達、私は再びあなた方に警告します。あなた方の子供達の首から、サタンの悪魔的な印を取り除きなさい。何故なら、それは彼らの霊魂を絞め殺すからです。その壊れた十字架は「平和の印」であるなどと偽装されていますが、反キリストの印です。それらがあなた方の子供達の霊魂を破壊する前に、それらを破壊しなさい。彼らの首に十字架をかけなさい。何故なら、それだけが彼らの霊魂を救うからです。

彼らに、あなた方の家にこの邪悪な壊れた十字架 (evil broken cross) を持ち込ませないで下さい。さもなくば、それはあなた方の家庭を運命づけるでしょう。それは破滅する人間の印です。


不吉な警告である。そして「不思議」な警告である。私自身、最初にこれを読んだ時、不思議に思ったのである。何故、ある形象(デザイン)を持っているとはいえ基本的には「物体」であるところのものが、人間の霊魂にそのような影響力を持つことができるのか。そういうことがもし本当にあるのだとすれば、人間にとっては確かに「不思議」である。

しかし、私はこの「ピースシンボル」の地上における起源を調べてみたところ、そこにおいてもこれがかなり邪悪なものであることが分かったのである。(参照2

バートランド・ラッセル

共産主義

ナチス

サタニズム

これら全て、あまり良いものではない。(あまり?)

「地上の観察」と「天からの示現」が言う事が一致しているわけである。
つまり、私達の「地上の観察」(既出参照2)は「ピースシンボル」を「バートランド・ラッセル」「共産主義」「ナチス」「サタニズム」などと結びつけており、他方「天からの示現」(と主張されているもの)は「ピースシンボル」を「サタン」と結びつけているわけである。
私は昔から、これを「不思議な一致」と見ていたのである。

そうして今回、その「一致」に、もう一組のものが加わったわけである。
マシュー君とピースシンボル。


森田玄さんときくちゆみさんのご家庭に、この二つが「同居」している。
私はこれを「偶然」とは思わない。「両者が引きつけ合った」「この二つは親和性があるから」「プロモーターはどちらにおいてもサタンだから」と思う。


マシューブック特別編 森田玄/きくちゆみ共訳


これは些末な気づきだが。


ゆみさんが主宰する「グローバル・ピース・キャンペーン」のサイトにある、911問題追及のドキュメント映画「ZERO An Investigation into 9-11」のためのロゴ。この O(オー)とその中の機影の組み合わせが、全体としてピースシンボル(横向きの)を意図している。(だろう)


森田玄氏ときくちゆみ氏の共同ブログの名は「Harmonics Life Center」である。Harmonics・・・もちろん言葉自体としては何も悪いところはない。が、私の耳にはこれが「ニューエイジ思想」と聞こえて来るのである。それは「調和」や「全体性」や「ワンネス」を拝むものであるから。

そして、以上これら全てが、私の耳には「サタン」と聞こえて来るのである。
(まあ、911追及を除いて。・・・しかし、サタンの影のある追及運動がサタンをあぶり出すことに成功するだろうか?)


森田玄さん、きくちゆみさん。あなた方は人間で、私も人間である。
それで、私は友人として申し上げる。
気をつけた方がいい。あなた方が親しんでいるスピリチュアルなものを、もう一度(あるいは、初めて)洗い直した方がいい。
私はあなた方の主観における善意をまったく疑わない。私には分かる。私もまた、かつてバグワン・シュリ・ラジニーシやクリシュナムーティやシャーリー・マクレーンやその他もろもろを通って来たからだ。ジョン・レノンも大好きだった。だから、私はあなた方の主観の善意は疑わない。
けれど、私にはその理由が分からないけれども、神様はどういうわけか、この地上に多くの罠をお許しになっている。それはちょうど、フリーメーソンの(フランス革命の)「自由、平等、博愛」のような罠だ。微妙な罠。人間として自然で素直な目しか持っていなければ、いったい誰が、その悪を即時に感知できるだろうか?というような罠だ。普通一般の人にとっては(かつては私もその一人だった)「自由、平等、博愛」は文句なく「善い」ものである。誰が、その裏にある罠に気づけようか。
それと同じような罠が、ニューエイジ思想の罠なのである。「自由、平等、博愛」が政治版の罠だとすれば、「Harmony 、Wholeness、Oneness」は宗教版の罠である。

誰もベイサイドの聖母の言葉を聞かない。カトリックの教会権威はそれを「常識」程度の判断で斥けてしまった。聖伝の騎士達さえもそれを認めない。

しかし、どうかもう一度読んで下さい。それは人間の霊魂にとって重大な事を言っている。その「霊的システム」は人間には分かりようがないが、とにかくそれはこう言っている。

ピースシンボルを身近に置く人間は、それと親しくする人間は、それに引かれ、邪悪な影響を霊魂に受け、真理の正しい識別からますます遠く離される、遠ざけられる。

それがそう言っているのは明らかだ。

そして、私は、その実現を、証明を、お二人のご家庭に見る思いがするのです。

どうか注意深く検討して下さい。

あなた方の霊魂に天主の御恵みのあらんことを!

2010年11月15日

宝瓶宮福音書は悪霊の作である

さて、「マシュー君」に続いて『宝瓶宮(ほうへいきゅう)福音書』についても触れておきたい。もっとも、それを手に取る人など滅多に居るものではないから、ごく軽く触れるにとどめる。私もよく知らないし。

そう、私もよく知らない。けれど、「マシュー君」が信頼に値しないものであることは二、三のことを調べれば直ぐに大して訳なく分かるように、宝瓶宮福音書についても同様だろう。「詳しく」というほど詳しくは調べる必要はないだろう。

私は、これを「アカシックレコード (The Akashic Records)」という語を中心に見ていくことを提案する。


リバイ・ドーリング


宝瓶宮福音書 (The Aquarian Gospel of Jesus the Christ) を書いたのは、アメリカのリバイ・ドーリング (Levi H. Dowling, 1844 - 1911) という人である。

しかし、「書いた」とは言っても、彼はその内容を瞑想の中で「アカシックレコード」という "宇宙の記憶貯蔵庫" みたいなものから写し取った(書き取った)のだそうである。

Wikipedia の「Levi H. Dowling」の項には、次のようにある。

Dowling wrote The Aquarian Gospel of Jesus the Christ (full title: The Aquarian Age Gospel of Jesus, the Christ of the Piscean Age) in the late 19th century and published it in 1908. He claimed it was the true story of the life of Jesus, including "the 'lost' eighteen years silent in the New Testament." Dowling claimed to have transcribed it from the Akashic Records.
ドーリングは19世紀後期に『イエス・キリストの宝瓶宮福音書』(フルタイトル:『イエス --- 双魚宮時代のキリスト --- の宝瓶宮福音書』)を書き、1908年にそれを出版した。彼は、それはイエスの生涯の真実の物語であり、「新約聖書では触れられていない『失われた』18年」を含んでいると主張した。ドーリングはそれをアカシックレコードから写したと主張した。


神智学協会、ブラバツキー夫人


Wikipedia の「アカシックレコード」の項を読めば、この語が圧倒的に神智学協会、オカルティスト達のものであることが分かる。

「アカシックレコード」の直接の原型はブラヴァツキー夫人(Helena Blavatsky。1831 - 1891年)著作「シークレット・ドクトリン」の中の「生命(いのち)の書」(the Book of Life) であり(…)

ブラバツキー夫人はルシファー崇拝者であることを思い出して頂きたい。(既出参照


エドガー・ケイシー


同じく「アカシックレコード」の項には、エドガー・ケイシー (Edgar Cayce) の名もある。(以下引用文中の下線は管理人)

(「アカシックレコード」として)一般的に話題に上るものは、暗黙的に、様々な問いかけに回答するエドガー・ケイシーのものを指している。(…)
アカシックレコードという概念は、地元名士の娘の治療を行ったことで、米国の新聞記事で取り上げられたエドガー・ケイシー (1877 - 1945) の名前とともに改めて知られるようになる。

異存はない。私にも覚えがある。この語を私が初めて知ったのもエドガー・ケイシーの本によってであった。

しかし、Wikipedia は続ける。

エドガー・ケイシーは神智学者アーサー・ラマース (Theosophist Arthur Lammers) に導かれて、過去に疾病の治療に用いていたものを、神智学を応用するが如く人生の苦悩、輪廻転生やカルマの問題へ応用を広げている。

彼も神智学協会と無縁ではなかったのである。

それどころか、「さてはてメモ帳」さんが林陽氏の驚くべき文章を紹介している。特筆すべきものであるから、枠で囲もう。

そして、第二次世界大戦という混沌が起こった。当時の有名なチャネラーだったエドガー・ケーシーは、「混沌から秩序」の方程式を知っていたようだ。彼は終戦の四年前にこう予言している。

「フリーメーソンの秩序に代表される普遍的思想を持つアメリカ主義が、世界情勢を解決する究極のルールになる。世界中がメーソンになってくれるわけではない。だが、メーソンの採用する原則に基づいて、一九四四年、四五年に平和の新秩序が設置されることになっている」

これは、国連設置を指した「当たり」予言として紹介されているものだが、メーソンが国連の指導原理になること、それが「新世界秩序」をつくることに彼が期待をかけていることを示す、重要な言葉だ。いったい、彼のチャネリングの源は何だったのだろうか?


国連が良いものだと信じている人には受けが悪いだろうけれども。

ソフトニューエイジの生みの親、エドガー・ケーシーは、健康相談では優れた力を発揮したが、その思想は、キリスト教の衣で覆った神智学だった。彼も、クンダリーニを目覚めさせることをしきりに説いていた。ケーシーの一番の財政支援者であったデーブ・カーンというユダヤ人富豪は、戦時中にロスチャイルドの右腕として働いた高位のメーソンだった。彼は、メーソンの神殿からケーシーヘの補助金が出ていたと自叙伝に記している。


これが、林陽氏だけなら、人は「ああ、変わったことばかり書いてる人だから」とか何とか言って済ますことができるかも知れない(林さん、ごめんなさい、私はそうは思ってませんから)。けれど Wikipedia までがケイシーと神智学協会との繋がりを言っているのである。そして、神智学協会とフリーメーソンは極めて密接な関係にあるだろう。だから、ケーシーがフリーメーソン員あるいはフリーメーソン支持者だったとしても、少しも不思議ではないだろう。

以上三者の生きた時代を見てみよう。

ブラバツキー夫人 1831 - 1891年
リバイ・ドーリング 1844 - 1911年
エドガー・ケイシー 1877 – 1945年

同時代である。しかも、ブラバツキー夫人は下の二人にとっていい感じの先輩である。
これはこの時代の一つの「潮流」であったろう。潮流を起こすのは、私の考えでは、地上の人間ばかりではない。

目的は? ------- もちろん「聖書を書き変える(改変する)」ことである。地上の神学者たちは、悪魔にほだされ、考古学をもって色々と聖書をいじって来た。しかし、そこにはある程度限界がある。けれども、アカシックレコード! これは万能である。これさえあれば、悪魔は、何でもござれ、白紙に捏造、大自由である。


マシュー君


さて、マシュー君は「アカシックレコード」について何か言ってないだろうか。

ありました。マシュー君メッセージの最新版で出て来ました。何ともタイミングのいい(?)

30. そして、ニルヴァーナの住民たちのスピリチュアル(霊的)な進化の到達レベルは地球の住人たちのレベルと一致しています。地球のための霊界として、その人生が "よい"、"平凡"、"悪い" とにかかわらず、そこが地球の住人たちの肉体死後の一つ目の駅です。一人ひとりの考えや動機そして行いのエネルギーがその人生を通して瞬間瞬間にアカシックレコードに記録されます。その総合エネルギーが、その人の人生のエネルギー記録に対応するニルヴァーナの部分へと自動的にその人を引き寄せます。


結論

だから、
どうすれば、
このような「繋がり」を見逃すことが出来るのですか?


(なんか、カバラの「生命の樹」みたいになっちゃいましたがw)

明らかじゃないですか。

で、まだ問題が残っているとすれば、前回「フリーメーソンは悪魔の会堂である。これを大前提とする」と書いたように、

そもそもフリーメーソンなるものは本当に悪魔の会堂なのか、
それとも単なる友愛団体であり善の組織なのか、

そもそも「ルシファー」なるものは本当に居るのか、
居るとして、それは通常のキリスト教の言うように悪の頭目なのか、
それとも多神の中の一善神、あるいは創造主そのものなのか、

ということです。これらの質問がすべての根底にあります。出発点。だから、この問題を解決しないと、私が今まで3回にわたって書かせてもらったことも「プチ宗教戦争の一情景」か「他者の趣味嗜好への余計な口出し」のようにしか見えないであろうことは確かなことです。

悪霊の能力

「マシュー君現象」が始まったのは、次のような次第らしい。無断転載御免。
1994年1月のある夜、突然スザンヌの頭に息子のマシューの声が聞こえてきました。

「お母さん、マシューだよ、本当に僕だよ」

マシュー・ワード君は1980年4月17日、パナマにいる父親の農場で1日働いたあと、ジープで帰路につく途中道路から外れ、彼の身体は投げ出されて、まもなく駆けつけた救急隊員の腕の中で息を引き取りました。17歳の若さでした。

悲しみに暮れる母スザンヌがふたたび息子マシューの声をテレパシー交信で聞いたのは、それから14年後のことでした。以来、母と息子との会話が今日まで続いています。

ジャーナリストでもあるスザンヌはその内容が尋常でないこと、さらには、マシューやそのほかの高次の存在たちとの交信メッセージを地球にもたらすことが、今生での自分の使命であることに早くから気づき、それをマシューブック(1〜4巻)として出版しました。

若くして死んだ息子の声をできるならもう一度聞きたいと願わない母親はいない。
また、霊的存在から「尋常でないこと」を聞かされ、聞けば聞くほどそれが「知恵に富んだもの」に思われた場合、初めは惑っても、やがて感激し、すっかり心を奪われるようになることの方がむしろ自然かも知れない。

が、カトリック教会なら、そんな時、まず徹底的に「疑う」ことを教える。そしてそれは「霊を試す方法」を持っている。滑稽に聞こえるかも知れないが、その霊に「聖水」をかけたり「信仰告白」を強要してみたりすることである。エクソシズムの儀式のことを言っているのではない。エクソシズムでも当然そのようなことをするけれど、というか、それはその種の行為の塊だけれど、それ以前に、霊の出現を受けたと報告する信者に、司祭が「今度その霊が現われたら聖水をかけてみなさい。信仰告白させてみなさい」というようなことを指示したりするということである。つまり、そこには「疑い」の精神がある。霊に関してはまずもって「疑い」なのである。そしてそれ全てが教会の指導のもとに進められる。(基本的、本来的、理想的には。つまり、他の社会と同じく、カトリック教会もなかなか理想通りには行かないことを認めないわけにはいかないが。)

何を読むのも結構だ。というか、仕方がない。人間には我があるから、止めてもその時はどうにもならないことの方が圧倒的に多い。(実例 - この中に「サンジェルマン伯爵は悪霊です」との指摘がある。正しい。しかし、抗議者のものの言い方にも難がある。若い子だろう。)

けれど、私達は、少なくとも以下に見るような「悪霊の能力」を -------「能力」という言葉には肯定的な響きがあるから、本当はあまり使いたくないが ------ 少なくとも「可能性」として、「あり得ること」として、「念頭に置いておく」ぐらいのことはすべきである。

前回、「霊界の生物である悪霊たちは、地上の人間たちのことを、具体的に、細かく、よく知っています」と書いたけれど、それは、悪霊とは以下のようなものだろうからである。「マシュー君」が実のところ何であるかを、このエクソシズムの中の悪霊がよく自白していると思うのである。Robert W. Pelton という人が書いた有名なエクソシズムの記録 The Devil and Karen Kingston を、日本の或る人が紹介したものである。

以前、「マシュー君」を愛好している人のブログに、この記事を紹介させてもらったことがある(上のブログの人ではない)。その人は読んだ。そして、言った。「なるほど、参考になりました。けれど、あなたが私にこれを紹介した意図が分かりません。」
信じられない反応だったが、そのような人のために、文中で下線強調することにする。
ロジャース牧師と悪霊の長い戦いが続いた。しかし、そのかいはなかった。悪魔はロジャース牧師の命令のことごとくにべちゃべちゃとしゃべって答え、大きな声で笑い飛ばすだけだった。

ロジャース牧師は戦術を変えてみることにした。この悪魔に何か書くように命令してみた。すると、意外なことにカレンはスラスラと何かを書きはじめたのである。決してうまくはなかったが、筆跡は、あえていえば、未来の人間が書いたような奇妙な文字だった。

"私は心霊のカウンセラーにして、つたなき綴り人だ。"

ロジャース牧師はその内容を見て、すぐに旧約聖書の「申命記」の第18章第10節〜12節を思いだした。
「占いをする者、卜者、易者、魔法使い、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。主はすべてこれらのことをする者を憎まれるからである」
聖書は、心霊現象、占星術などの占い、黒魔術、白魔術などの魔法を、数千年も前から危険なものとして厳しく禁止していた。そこでロジャース牧師は、慎重にこの悪魔に問いかけてみた。

「それではおまえは、自分が心霊の相談相手だというのだな。奇跡の治療を施すことができるというのだな。また、死者と話すことができるというのだな」

「そうよ、もちろんそうよ。それに、ほかにもいろいろなことをしているわ。おまえも知っているように、こんなことは、実際、珍しいことではないわ。何万人もの人間が、おまえたちがいうところの降神術の会や交霊会に参加して、その後、この現象の立会人になってきているわ。
ええと、確か、おまえが親しくしていたはずのキリスト教司教のパイク(プロテスタントの有名な牧師。死ぬ前に降神術や霊媒に没頭する)でさえ、彼の死んだ息子と連絡をとりあっていたわ」

ロジャース牧師は驚いた。これまで幾度となく悪魔ばらいを行ってきたが、これほど霊界の一面を語ってくれた悪魔はいなかったからだ。

人間というものは、生来、とてもだまされやすい当然、人間が、死んでしまった愛する者や友だちと連絡をとりあえるはずはないわでも、この人間のだまされやすさが、私たちに好都合なの。全部をおまえに話してやろうか。
心霊主義というドアは、今や私たちの世界に大きく開かれたままなのだよ。おまえも知っているように、そのことを理解していない人間がいっぱいいる。たとえば、おまえたちのいうところの "幽体離脱" は、私たちのカによって、魂が肉体から分離された状態で歩きまわされているのだよ。
で、いずれ彼らは死に、私たちの仲間になるというわけさ」

ロジャース牧師は大きな風船玉のようになったカレンのほうを黙って見つめながら考えこんでいた。聖書に書かれていることはまぎれもない事実だったのだ。今、世界中で流行している心霊現象は、悪霊のなせる業なのだろうか。

バカな人間たちは、本当に死者と直接話していると信じているのよそう、私はおまえにこのことをいってしまおう ------- 彼らは死者と直接に話しているのではないの

「では本当は、だれが、または何が、これらの人々と話しているのだ?」ロジャース牧師はたずねた。

「おまえはその質問に対する答えを知っていると思うが……。お互いにだますのはやめよう。それをやっているのは、私たちの仲間だし、彼らは、死んだ男や女の真似をしているだけなのだから死んだ人間を真似るというのは、私たちにとってこの世でいちばん簡単なことなんだからその死が最近のことでも、何世紀も前のことでも、いっこうにかまわない
おまえも知っているように、私たちの世界では時間など無関係だからねそれに私たちには、死者とごく親しかった人しか知らない多くの事実を暴くことができる暴くことによって、私たちは生きている人々を信用させ、スムーズに私たちの(心霊の)集会に引きこんでしまうことができるのさ

この悪魔の話を聞きながら、サター牧師はひとつだけ聞いてみたいことがあった。それは彼の教区のなかで流行しているウィジャー盤(映画「エクソシスト」の主人公がこの霊界ゲームによって悪魔にとりつかれる。日本では「コックリさん」がこれにあたる)についてである。
多くの人々が、この霊界との通信ゲームに熱中していたからだ。
サター牧師は、注意深くそのことを質問してみた。

「ウィジャー盤も同じさ。福音書著者の友だちさんよ」
すぐに返事が返ってきた。この悪魔は、サター牧師の抱いている疑問を少しもいやがっている様子はなかった。むしろ自慢しているようだった。

「おまえもよく知っているように、これをおもしろ半分に使っている者もいる。もっとも、真剣に使っている者もごく少数だがいる。だが、どちらもこのウィジャー盤からメッセージを受けようとしているのさ。
多くの人々は、これで霊の世界と直接に連絡をとりあったと思いこんでいる。私たちの世界に引きずりこまれていることも知らずにね。そして、私たちが彼らのなかに入りこむのに、少しも恐れを抱いていないのだよ。むしろ、私たちからカをもらうことを歓迎している。私たちのためにドアを開けて待っているというわけさ」

そこまで語ると、この年老いた悪霊は、突然、話すのをやめた。
「マシュー君」を信じている人達、あるいは現在書店の「精神世界」のコーナーを賑わしているチャネリング関係の本を信じている(あるいは心惹かれている)人達は、くどいようだが、少なくとも上の内容が真実である「可能性」ぐらいは、常に念頭に置いておかなければならない。(押し付けではなく勧めである。)
また、その上で、前回私が簡単に列挙してみたような諸「事実」を、もう一度よく見、考えてみなければならない。(同上。)


冒頭で「ある人が紹介したものである」と書いたが、その「ある人」とは鬼塚五十一氏である。最初にそれを言わなかったのは、鬼塚五十一と聞いて「咄嗟に反応」する人が多いだろうからである。人間においては、この「咄嗟に反応」というのが常にイケナイ。それはその人の中に一定の(固定的な)反応パターンが出来上がってしまっていることを意味する。感情的好悪の反応が回路のように出来上がってしまっていることを意味する。その時、人は半ば自動人形である。

とにかく、このエクソシズム記録の「紹介」に関しては、紹介する人が鬼塚氏であろうと他の人であろうと、大差はなかったであろう。

その鬼塚氏の著作とは、『サタンよ去れ! 戦慄の悪魔ばらい』(学研)というものである。雑誌『ムー』との関連で出されたものらしく、その装丁は島村菜津さんの『エクソシスト急募』(参照)など比較にならないほどにヒドイ。
原書と同じく、現在絶版である。が、amazon で中古品が安く手に入る。
原書は、全文かどうかは分からないが、ネット上に PDF がアップされている。
http://joestallard.com/download/The_Devil.pdf

最初に言うべきだったかも知れないが、この Karen Kingston のエクソシズムの文献的信頼性については、それ自身が「これは本物のエクソシズムの記録である」と謳っているだけであるようである。アンネリーゼ・ミシェルのエクソシズムのように、あらゆるエクソシズム記録が匿名性を排してくれれば助かるのだが、そうも行かないようである。(つまり、私はこれを「記録」と信じているわけだが。)

「マシュー君」 は悪霊である

突然ですが、
そして鬼束とは直接の関係はありませんが、
マシュー君」は悪霊である。

これはかなりハッキリしている事です。

では、順を追って。

フリーメーソンは悪魔の会堂である。

まず、これを大前提とする。従って、この点について異存や迷いのある方は、この先を読んでも無益かも知れない。

↓ ↓ ↓

米国聖公会のニューヨークのカテドラル「聖ヨハネ大聖堂」は全くフリーメーソン製である。(参照

またそれはリンディスファーン・センター (Lindisfarne Center) という組織の本部である。その仕事はロックフェラー兄弟基金やロックフェラー財団などからの補助金によって支えられている。(参照

↓ ↓ ↓

リンディスファーン・センターの重役の一人はデイビッド・シュパングラー (David Spangler) である。

彼は「ルシファーのイニシエーション」なるものを説いている。

同上) (参照

↓ ↓ ↓

ルシス・トラストのロゴと
似ていませんか?
シュパングラーは Findhorn Foundation や Findhorn Publications から多くの著作を出している。(参照

それもその筈、シュパングラーはフィンドホーン共同体の礎を作った者らの一人なのである。(参照

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マシュー君は「フィンドホーン共同体の役割は何ですか?」という質問に対して、初めに次のように言っている。

I welcome this opportunity to mention the joy and gratitude among all of us at this station for the light that for several decades has been increasingly generated by the Findhorn Community.
私は、ここ数十年の間フィンドホーン共同体によってますます放射されるようになった光についての喜びと感謝をこの場に居る私達皆の間でお話できるこの機会を喜ばしく思います。(参照

この最初の挨拶だけで十分。これ以上訳す必要はありません。

よって、
「マシュー君」は悪霊である。

終り。


ただし、「マシュー君」といっても、勿論、その写真の男の子じゃありませんよ。とんでもない。おそらく悪霊は、人々の警戒を弱めるために、意図的にこの清潔そうな男の子の「像」を採用したのでしょう。「マシュー君」を信じた人達、あなた方は知らず知らず、このたった一枚の写真にも「作用」されませんでしたか? 心理的に影響されませんでしたか? いわば悪霊の「イメージ戦略」に引っかかりませんでしたか?

それから、基本的な事として、霊界の生物である悪霊たちは、地上の人間たちのことを、具体的に、細かく、よく知っています。それから、人が考えている事も、わけなくそばから(同時的に)読み取るようです。だから、たとえば生前の本当のマシュー君とその母親しか知らない事を「マシュー君」が知っていたとしても、それが本当のマシュー君であるということにはなりません。というか、悪霊でしょう。母親でさえ騙されるでしょう。

それから、悪霊は知能が低いものばかりではないようです。哲学や神学の一くさりや二くさり、わけなく論ずる悪霊も少なくないようです。だからこそ、地上の人間たちの中に、それらの悪霊にインスパイアされて、怪しき学問体系、つまりオカルトやら「秘教」やらの学問体系を造る者たちが出て来るわけです。

また勿論、悪霊は地上の世界情勢のこともよく知っています。


また、フィンドホーンには「サン・ジェルマン伯爵」とか「白色同胞団」などの悪霊ども(と私は普通に確信します)も居ますよ。

シャーリー・マクレーンや上記のデイビッド・シュパングラーなどの著作の翻訳で有名で、ニューエイジ思想の罠にこれ以上ないというほどガッツリ嵌まっておられるのは、日本の山川紘矢・亜希子御夫妻です。

紘矢氏の2000年5月31日の覚え書きにはこうあります。

「パークビルディングの僕のとまっていた部屋から階段を下りたところに、ひとりの人物の肖像画がかかっていました。ふと、誰の肖像?と思ってよく見てみると、なんとそれはサン・ジェルマン伯爵の肖像画だったのです。」(参照

フィンドホーンの施設の一つにサン・ジェルマン伯爵の肖像画が掛かっていたということでしょう。

その肖像画とは、覚え書きと日付は違うけれど、これかな?(参照 - この中の2000年7月2日の写真)

サン・ジェルマン伯爵は、あるいは「サン・ジェルマン伯爵」を名のる「霊」は、シュパングラーのお仲間でシュパングラーと同じく「ルシファー」を讃えているマダム・ブラバツキーと大変仲がおよろしいようですよ。(検索

だから、フィンドホーンを肯定する「マシュー君」は、ブラバツキーとも、サン・ジェルマンとも、白色同胞団とも、そして勿論ルシファーとも、お友達です。

だから、いいんですか? そんなものを信じて。

ほかにも多少ありますが、あとはお手数ですが、サイト内検索で御検索下さい。