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2010年12月10日

悪魔のディベート

マシュー君


シルバーバーチとマシュー君、
両者の主張の類似点を短く拾いながら、
「悪魔のディベート」をほんの少し観察してみます。

その前に、少し予想されるクレームを牽制しておきます。
私は今「類似点を短く拾いながら」と言いましたが、それに対して「前後関係を読まなければ」というクレームが予想されます。

しかし、私は最近しばしば思います。
人はよく「前後関係を読まなければ」などといっぱしな事を言う、と。

私はあえてゴーマンかまして言いたい。警鐘を鳴らしたい。
あなたは「前後関係」を読めば「分かる」んですか?
むしろ、あなたは「迷う」んじゃないですか? 「前後関係」を読むと。
あるいは、いっぱい読むと。読めば読むほど。

「読めば読むほど理解がより進む」なんてのは、この場合(対象は霊的な事柄です)、幻想なんじゃないですか?

「前後関係」における言葉の巧みな配置によって、あなたは騙されてしまうんじゃないですか?
彼らの言うのは「半真理」です。「半真理」の巧妙さを打ち砕けますか?

半真理。これは私が勝手に意味をこめて使ってる言葉だけれど、要するに、
真理の「全体」のうち、一般に通りのいい部分だけを言い、強調することによって、残りの部分 ------- 一般にはあまり認知されない、しかし本当は人間の霊魂にとっても最も重要な部分 ------ を否定したり隠したりする、
というようなことです。そのような論法、ディベート術を称して「半真理を言う、弄する」と言ってみたりします。

悪魔/悪霊は ------- そのようなものが在るならば(在るのですが)------- それを使うでしょう。彼らは、あなたがそれを読んだハシから「ああ、これは嘘だな」と分かる嘘はつかないことでしょう。悪霊が悪霊らしい「黒い服」を着てあなたの前に登場することはないでしょう。
(私が悪霊の頭目なら、そんなことをする奴は即刻クビです)

← 悪魔の基本

あなたは善人ですか?

もしそうなら、「善人には悪人のことはよう分からん(かも)」ぐらいのことは思っていなければなりません。悪人のことをよく理解するのは悪人です。詐欺犯の心理と手口とその犯罪の規模を知っているのは、同じような詐欺犯だけです。善人にはちょっと想像がつきません。

しかも、この場合の相手は「悪人」ではなく「悪霊」です。私達はその顔の表情を見ることさえできません。

油断は禁物。「疑う」ことをしなければなりません。

ゴーマン。偉そう。すいません。

では、「心理戦のマスター」(悪魔を誉めるわけではありませんが)たる悪魔の言論を聞いてみましょう。私なりの解釈も付けてみました。
我々はイエスを直接知っているのだ
シルバーバーチ 私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主イエスの目に涙を見たことがあります。

わたしは何度となくお会いしております。
僕も彼の下で働いたことがあります。マシュー君
(本音)どうせ何を言っても人間達には確かめられないのさ。ま、言いたい放題ってとこだ。それに、この宣言 -------「私達はイエスを直接存じております」------- は、現在の宗教に飽き足らず(本当はただ発見に失敗しているだけだが)、それでいてまだ真理を諦めていない真面目な人間ほど気になるものだ。無視できない。喰いつくのさ。「私達は彼を知っています! あなた方は知らないのです!」 アッハッハッハ、いい餌だよ。

イエスは基本的には我々の誰とも変わるところのない人間である
シルバーバーチイエスだけでなく人間のすべてに神の分霊が宿っております。ただ、その神性を多く発現している人と少ない人とがいるだけです。
イエスはほかの人間の赤ちゃんとまったく同じように、妊娠して生まれました。(…)イエスは妊娠中の妻マリア・マグダレナと一緒に(…)マシュー君
(本音)これが「科学的」ってもんだろ。これが「平等」ってもんだろ。ふははは。

イエスは「偉大な霊能者」ではあった
シルバーバーチイエスは地上に降誕した偉大な霊覚者だったということです。

イエスは霊能者だったのです。今日の霊能者が使っているのとまったく同じ霊的能力を駆使したのです。偉かったのは、それを一度たりとも私的利益のために使わなかったことです。

その時のイエスの愛情あふれるお言葉——それまでに私たちが成し遂げた成果についての評価を披露され、新たなる力、新たなる希望、新たなるビジョンをもって新たなる目標に向かって突き進むように、と励ましてくださる時のあの温かい愛を、皆さんにも感じさせてあげたいのですが、それが出来ないのが残念です。教会が説く神格化されたイエス・キリストではありません。多くの有志を通して地球浄化の大事業に勤しんでおられる、一人の偉大なる霊です。
彼は(…)宇宙の法則を使ってからだを癒したり、姿を変えたり増やしたり、非物質化や再物質化するといったこと・・あらゆる魂に本来そなわっているいわゆる "奇跡" と言われることを演じる能力・・を彼ら(東方のマスター達)から学びました。マシュー君
(本音)イエスは偉大だ! 立派だった! しかし、ただの人間だった、ふははは。
どうだい、このお手並み。俺達はイエスを落とし、持ち上げ、落とし、また持ち上げる。そのような微妙な線を狙い、イエスを慕う人間どもの心理を攪乱する。やつら、目を白黒してやがる。
目的? 俺達としては、奴を神の座から引きずり下ろすことさえできたら、あとは何でもいいのさ。奴が誉められようと、讃えられようと、ノーベル賞を300個もらおうとね。奴が一人の「人間」として居てくれる限りは、あるいは「諸霊の中の特別に偉大な霊」として居てくれる限りは、あとは何だっていいのさ。
また、「超能力」。これは神から存在感を奪ってやるのに絶好な概念だ。「神由来の有り難い奇跡」などという観念など根こぎにしてくれる。全てを「自然」の一語で説明してやる。これこそ「天主(聖三位)」の失墜! そして「大霊(ルシファー)」の勝利だ!

教会など人間が作ったものに過ぎない
シルバーバーチ自分のことより他人のためを優先し、自分の存在を意義あらしめるほど、それだけ霊性が発達します。それはあなた方の一人一人の内部に宿る大霊が発揮されるということです。至って単純なことなのです。ところが人間は教会を建立し、何やら難しい説教をします。私にも理解できない難解な用語を用い、また、これぞ宗教とばかりに仰々しい儀式を行います。

教会と呼ばれているものの中には中世の暗黒時代の遺物が少なくありません。そもそも大霊はいかなる建築物であってもその中に閉じこめられる性質のものではありません。あらゆる所に存在しています。石を積み重ね、その上に尖塔をそびえ立たせ、窓をステンドグラスで飾ったからといって、大霊が喜ばれるわけではありません。
神が教会を何か建物であるとしたことはない。荘厳な大聖堂などは人間が考えついたもので、神の考えではない。教会とはすべて魂の内にあるものだ。それは人が敬い、感謝するこころだ。それは神の愛と光の中に精神が高まることだ。このように考えれば、教会は宇宙に届くことができる唯一の祈りと言える。マシュー君
(本音)俺達はこのように「半真理」を使う。実のことを言えば、神は「あらゆる所に存在」していると同時に、神自身が定め、神自身が地上に据えた教会という建造物の中に、一層存在しているというのが真実だ。何故なら、教会というのは、神が人間に対する愛情のため、人間に大いなる霊益を与えんとして地上に置いた特別の装置であり恵みの通路だからだ。しかし、俺達は半分しか言わない。教会自身「神は教会という建造物の中にだけ存在する」などとは教えていない。が、俺達はそれには触れない。教会という神の特別の配慮など、人間の視界からすっかり外してやる。
人間の内面の理想、いわゆる「生き方」「在り方」の問題についても、俺達は「半真理」を使う。既に言ったことでも分かるように、教会とは、人間が自分の内に正にそのような善き心を建設するための、それに欠かせない、神からの霊的助力や恩寵を与えるものだ。だから、本当は教会と人間の内面的努力の二者は矛盾しない。いや、本当は矛盾しないどころの騒ぎではない。人間は神の助力なしには、自分の努力だけでは、決してどこにも行けないほどだ。しかし、俺達はそのような「難しい真理」は決して口にしない。真理の「全体」を決して説明しない。常に一般に通りのいい、人間の地上的頭脳にフィットする、真理の半分だけを語る。一方の事のみを言い、他方の事はきれいさっぱり忘れさせてやるのだ。あるいは、気づかせない。車の両輪から片方の車輪を奪うようなものだ。誰も天国には行かせない。

聖書は嘘でいっぱいだ
シルバーバーチ(聖書には)ずいぶん多くの、ありもしないことが書き加えられています。したがって聖書に書かれていることには、マユツバものが多いということです。出来すぎた話はみな割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから……
キリスト教についての真理は、それが(…)作り事を基にしていること、そして彼の教えが(…)故意にねじ曲げられたことです。マシュー君
(本音)聖書の信頼性を徹底的に奪ってやる。しかし俺達はそれほど力こぶを作って力説しなくてもいい。「組織や権力は腐敗する」という観念ほど、地上の人間達にとって親しい、しっくり来るものはないからだ。人間は大した検討もなく、ほとんど自動的に、この定式を教会にも適用するだろう! 俺達はそのような「純真」な人間が大好きだ、あははは。

イエスは時の権力者達によって神に祭り上げられたに過ぎない
イエスを信仰の的とするのでなく、生き方の模範とすべきである
シルバーバーチ地上の人間はあまりに永いあいだ教えを説く人物に関心を寄せすぎ、超人的地位に祭り上げて、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。わたしたちはもう、そんな、しょせん人間にすぎない者を超人的地位に祭り上げることはいたしません。

いくら立派な地位(くらい)ではあっても、本来まったく関係のない地位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽すゆえんとはなりません。父なる神の右に座しているとか、「イエス」と「神」とは同一義であって、置き替えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。

さらに許せないのは、そのイエスを神の座に祭り上げて、物質界の子等の手の届かない存在としてしまっていることです。これではイエスが意図した人間としての生き方の模範ではなくなってしまうからです。
(本音)ここでも俺達は「半真理」を使う。『キリストに倣いて』という有名な書物があることでも分かるように、教会は実際「イエスに倣う」ことを教えている。そして本来、イエスを「神」として仰ぐことと、人間の模範として仰ぐこととは、矛盾しない。両立することである。また、教会自身、決して「神としてのイエス」のみを教えているのではなく、弱さも人間的感情も持ったイエスのことも教えている。けれども、俺達はここでも半分しか言わない。俺達がするのはただ一つ、「祭り上げた! 祭り上げた!」と騒ぐことだ。こんな単純な手法が意外と功を奏するのだから驚きだ。
そして俺達はそのように教会を責めた後、ぬかりなくすかさず「イエスに忠義を尽くすべきだ。イエスを喜ばせるべきだ。悲しませるべきではない」とたたみかける。我ながらうまいと思う。純真な奴らはこれに喰いつく。ある意味、イエスに思い入れがある人間ほど、俺達のこの打ち出し方に惹かれるものだ。無視できないのだ。そして俺達は、この卓越したディベート術でもって、そのような人間の心をも徐々にイエスから外してやるのだ。このようにして、信仰の対象としてのイエスは滅ぶ! 諸霊の中の一つの高級霊としての、また人間としての、一つの「サンプル」としてのイエスのみが残るのだ!

権力者というものは汚い! 汚い! 教会の権力者も例外ではない!
シルバーバーチ地上は今やまったくの暗闇におおわれています。迷信と間違いと無知のモヤが立ちこめております。大霊の意志が届けられる道具はごくわずかしかいません。予言者の声は荒野に呼ばわる声のごとく、だれも聞いてくれる人がいません。洞察力に富む彼らの開かれた未来像はかき消され、聖なる道具(霊媒)は追い出され、聖職者の悪知恵と既得の権力が生ける神の声と取って代わってしまいました。(…)わたしたちは既得の権力というものは国家であろうと教会であろうと、民族であろうと階級であろうと一宗一派であろうと、そのすべてに反抗してまいります。すべての人間に自由を——崇高にして深淵、そして純粋な意味における自由をもたらしてあげたいのです。

わたしたちは、大霊を共通の親とする全人類の霊的同胞性を福音として説いております。その理解を妨げるものは地上的概念であり、虚偽の上に建てられた教会であり、特権の横領(※)であり、卑劣な圧制者の高慢と権力です。(…)
宗教的教義(ドグマ)は、とくに西欧の宗教において、そのような自然との調和を妨げ、大衆を支配し、自分たちの富を得るために何世紀にわたって教会指導者たちによってつくられたことです。(…)イエスを「唯一の神の子」とすることで、だれも到達できない高い地位に押し上げたのです。

キリスト教が生まれると、権力を握る人間たちは、自分たちの目的に適うようにその記録を改ざんし、イエス・キリストを「唯一の神の子」と描き、それが聖書になりました。そして人々と神の間に「権威」の層を置いたのです。
マシュー君
(本音)「汚い権力者」の話も効果テキメンだ。純真な者達に大受けだ。
俺達は「権威」と「権力」に関する注意深い考察など人間に許さない。人間が天主によって社会的存在として作られた限り、社会にも家庭にも学校にも「権威」が必要なのは明白である。だが、俺達は常に「権力」という言葉だけを使う。「権力者は悪い! 腹黒い! 圧政者だ! 搾取者だ! 卑劣だ!」と連呼する。実際、人間の世界には(教会にも)悪しき者があるのは事実だから、人間達はこれを簡単には否定できない。事の真実を知るためには本当はかなり仔細な検証が必要な場合でも、人間達のためにはただ連呼だけで十分だ。俺達は人間達に冷静に考える暇を与えない。
教会を「権威者」ではなくただ「権力者」と位置付けることによって、そしてすかさずイエスを誉め上げることによって、あるいは「イエスはそんな教会のことを悲しんでいるんだよ」とまことしやかに言うことによって(純真な奴らったら、これでしゅんとするんだぜ、ハーハッハ!)、俺達はますます人の目に、教会とイエスを分断できるのさ。

教会の内容物、教会が持っているものはことごとく、何の意味もない
シルバーバーチ教義、儀式、祭礼、教典などは関係ありません。祭壇に何の意味がありましょう。尖塔に何の意味があるのでしょう。ステンドグラスの窓にしたからといって、一体どうなるというのでしょう。法衣をまとったら、どこがどう違ってくるというのでしょう。そうしたものに惑わされてはいけません。何の意味もないのです。
(本音)ミサの祭壇の上でどれだけのことが起こっているかはカトリック信者だってよく分かっていないくらいだから、俺達は好きなだけ「儀式はただの形式だ! 形骸だ!」と断定しまくることができる。
法衣? そうだ、我々は、もしできるならば、どんな悪魔的な快楽でもってすべてのストラを引き剥がし、地獄へ引きずり下ろし、それを燃やすことだろう!

告解の秘跡など欺瞞である
シルバーバーチもしも自己中心の生活を送った者が、死の床での信仰の告白一つで、生涯を人のために捧げた人よりも高い界層に行けるとしたら、それは大霊を欺き、完全な公正が愚弄されたことになります。
(本音)これに反論できるのはよく教育されたカトリック教徒ぐらいのものだ。多くの者は、「死の床での信仰の告白一つ」、この「一つ」「一回」という外形的な数え方に抵抗できない。本当は(カトリックにおいては)厳しい痛悔を求められることを知らないのだ。俺もこの事を言うつもりはない。永遠に伏せておくつもりだ。
ところで、昔、仲間の一人が忌々しいエクソシストによって本音を言わされてしまったことがあった。奴は言ったものだ、「そのようにして告解者は、偉大な、また致命的な(悪魔達にとって)罪の許しを受けるのだ。『EGO TE ABSOLVO(私はあなたを許す)』... ああ、我々はいかにそれを憎んでいることか! 今日においても我々はそれを憎んでいる!」とね。とんだドジ野郎さ。

イエスはミサなど望んでいない
シルバーバーチ(イエスを記念した最後の晩餐の)儀式を催すことによって、身体的・精神的・霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれとしては最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、わたし自身には、そういうセレモニーに参加したいという気持は毛頭ありません。イエスご自身も、そんなことをしてくれたからといって、少しもうれしくは思われません。
(本音)ミサと聖体拝領。我々はそれを憎む! 地上から一掃してくれる!




管理人

読者の中には、これほど読んでもまだ、次のように思う人がいることでしょう。
「確かにシルバーバーチの言うこととエクソシズムで悪魔が自白させられたことは似ているけれど、それは "たまたま" なのでは? シルバーバーチはシルバーバーチとして、やはり一個の善霊なのでは? 言うことは似ていても、両者は動機の点で違っているのでは?」
では、私は前に言ったことをもう一度繰り返しましょう。
しかし、今「内容」のことを言ったので、もう一度前に戻って確認させてもらうが、「シルバーバーチ」における問題は、その言っている「内容」自体がどうのというよりむしろ、彼が「イエスをよく知っている」と「嘘」を言っているというところにあるのである。そして、彼が嘘を言っているのは「明白」である。(後日、「ベイサイド」以外の示現も紹介する。)
そして、嘘をついた上であの内容なのだから、その正体は推して知るべし、否、明々白々だということなのである。「嘘」と「内容」の二つを絡ませて見なければならない。

カトリックの示現を見慣れている者から言わせると、シルバーバーチは「イエスをよく知っている」と言ったからこそ、自ら「墓穴」を掘ったのである。
そしてまた、昔の私のように「霊界にはなにもキリスト教の神だけがあるわけじゃあるまいし...」と常識(これもまた一つの固定観念たり得る)のように思っている人に対しては、こう言いましょう。
あなたは一般的に言われる様々な「御神霊」というものを信じておられる。いいでしょう、それは今は脇に置いておきましょう。

けれども、シルバーバーチはとにかく西欧世界に降り立った霊なのです。キリスト教の「ミサ」がじゃんじゃん行なわれているキリスト教世界のど真ん中に降り立った霊なのです。そしてその上でそれ(ミサ)を否定しました。殆どどんなためらいもなくバッサリと否定し去っているのです。

彼は、変な言い方ですが「キリスト教のことをよく知らない日本の御神霊」などではないんですよ。クリスチャンの人間と堂々と聖書に関する議論をしているほどです。聖書にとても詳しいです。(聖母が「サタンというものは、聖書を説明することさえできるのです」と言ったことを思い出してください。参照) そしてまた「自分はイエスをよく知っている。何度もお会いしている」と言っています。

もしこれが日本の御神霊だったら(話の上での仮定です。私はそれを信じていません)ひょっとしたらキリスト教のことをよく知らないで「儀式は大したものではない」という一般論を吐いた可能性もあったかも知れません。けれどもシルバーバーチは違うんです。まったく違います。彼はキリスト教のことをよくよく知っています。だから、彼がまったくの嘘つきであることは明々白々だと言うのです。

誤解なきよう。私は「ミサ」を否定されたからというのでいわゆる「腹が立っている」わけではないのです。私はカトリックの示現の中に「わが教会」「聖体」「ミサ」のことなどを常に語る「イエズス」や「聖母」を見ていて、それが真実であると確信しているので、以上のような「判断」になるのです。感情ではなく、そのような「判断」で申し上げているのです。

2010年11月28日

尊者アグレダのマリアが受けた示現 2

これを読む前に前回の「前置き」を読んでもらいたいです。
いや、大したもんじゃないです。役に立たないかもです。でも、一応。恐縮です。
何故なら、人間ほど、「先入観」「固定観念」「偏見」、これらを持ちやすいものはないからです。ほとんど「歩く固定観念」とでも呼びたくなるくらいに。
ほんとっすよ? 今「大袈裟だなぁ」と思った人は、ちょっと読んでもらった方がいいかもです。「前書き」を。いや、天地神明に誓って大したものじゃないけど。
でも、「先入観」「固定観念」「偏見」、これらに関しては馬鹿みたいにうるさくなけりゃ、クソうるさくなけりゃ、きっと真理なんて手にできないっす。今「うるさいなぁ、もっと気楽にやりたいんだよぉ」と思った人は、きっと真理向きじゃありませんです。恐縮です。


引用文中の下線は管理人。
読点を数カ所、付加させてもらいました。
資料の入手に関しては最下段に付記しました。

神の神秘的な都市
The Mystical City of God


最後の晩餐

私たちが現在自宅で使用するコーヒーテーブルよりももっと低いテーブルの周りに座り、体を後ろにもたれて食事をするのが、ユダヤ人の習慣でした。主は、使徒たちの足を洗った後、現在の食卓のような高いテーブルを持ってくるように言いつけました。このことで、主は、下級の形式的律法に終止符を打ち、恩寵の律法である新しい晩餐を設立することになりました。このテーブル、つまりカトリック教会の祭壇で聖なる秘蹟が行われることを、主は希望されたのです。このテーブルは大変高価な布で覆われ、その上には皿と大きな盃ふうのコップが置かれました。その家の主人は、エメラルドのような宝石でできた皿と盃を提供したのです。全員が着席してから、主は種なしパンと葡萄酒を持って来させました。

主は心からの愛の言葉を使徒たちに話しました。御言葉は彼らの心の奥深くに達し、心を燃え上がらせました。御自身の神性と人性、救い、今祝おうとしている神秘の誓いについて申し渡しました。人々が相互に愛すれば、御子を愛する御父により愛されること、新しい律法と新しい教会の建設のため使徒たちを選んだこと、御母の崇高さと特権について、使徒たちの理解を更新させたのです。

我らの主キリストは、皿の上のパンを両手で取り上げ、永遠なる御父に心の中でお願いしました、「今、私が述べ、今後、教会で繰り返される言葉により、私が実際に真にこのパンの中に存在すること、私がこの約束を守ることを助け、許して下さい。」 この願いをしながら御目を天に上げている荘厳な様子は、使徒たち、天使たちと御母に、新しい深い畏敬の念を起こさせました。主は聖変化の御言葉を宣言し、パンの実質を御自身の真の体に変えられました。直ちに葡萄酒に対する聖変化の言葉を宣言し、御自身の真の血に変えられました。そして、永遠の御父の御声が聞こえました、「これぞわが愛子なり。我が喜び、世の終わりに至るまで我が喜びなり。我が子は人類の追放の間中、絶えず共にいるなり。」 同様の御言葉が聖霊により宣言されました。御言葉のペルソナの中のキリストの至聖なる人性は、御自身の体と血の秘蹟にこもる神性を恭しく拝みました。御母は一歩退き、聖なる秘蹟の中の御子を崇めました。御母の守護の天使たちや天の全天使たちと一緒に、エノクとエリアの霊魂も旧約の王たちや預言者たちを代表し、秘蹟の中の主の前に平伏しました。裏切り者を除く使徒たちと弟子たち全員はこの秘蹟を信じ、各人各様に謙遜と威厳を込めて崇めました。最高の司祭である主は、聖変化された御体と御血を両手で高く挙げました。この時、御母、聖ヨハネ、エノクとエリアは特別な理解を神から頂きました。どのように御体がパンの中に、御血が葡萄酒の中に存在するか、御体と御血が御霊魂と結ばれている故に生きている真の御子が現存すること、御子のペルソナが御父と聖霊のペルソナとどのように結合しているか、聖三位一体の一致の故に、御聖体は主の人性と共に聖三位一体であることを理解したのです。主のなさったことを司祭一人一人が再現すること、天地が崩れてもこの秘蹟は決して崩れないことも、御母を初めとする四人の深く理解するところとなりました。御母の理解は更に深遠でした。この秘蹟により、パンや葡萄酒の形色は変わらず、御体と御血も元のままであることがよく判りました。

御子の聖祭は続きます。御子は御聖体を割り、一つを頂きます。御自身を人間として認め、御聖体と聖血を敬虔に頂く様子は、我々に聖体拝領の仕方を教えただけではなく、人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれることを知らせています。主の聖体拝領により、タボル山での御変容の時のように、主の御体は短時間、輝きました。御母にはよく見え、他の三人には少し見えました。

主は御聖体と聖血を拝領し、永遠の御父を讃え、人間の救いのための犠牲として秘蹟にこもる御自身を捧げました。残っているパンの切れ端を大天使ガブリエルに渡し、御母の所に持って行かせました。大天使に大勢の天使が随行しました。御母は涙を流し、御聖体を恭しく拝領しました。その後で主はパンを使徒たちに手渡し、分け、配るように命じました。使徒たちも涙ながらに御聖体を拝領しました。使徒たちは司祭の権限を与えられ、聖なる教会の創立者となり、他の誰にもまして優先権を与えられたのです。主イエズス・キリストの御命令により、聖ペトロは御聖体をエノクとエリアに授けました。二人は大喜びして、将来、天国に入り、主なる神に御目にかかることを世の終わりまで待つよう改めて決心しました。心からいと高き御方に感謝した後、天使たちにより、二人の住居である古聖所に連れ戻されました。この奇跡により、主は、苦からの自然法と成文法を、御受肉、救世と人々との復活の中に組み入れることを示されたのです。これら全ての秘儀は、至聖なる聖餐の中に存在するからです。

元后の御言葉
ああ、私の娘よ、カトリック信者たちが石のように固くなった心を開き、聖体拝領の真の意味を掴むように心から希望します。御聖体の中に力と健康があります。悪魔に誘惑され、迫害されても問題ではありません。御聖体を頻繁に拝領することにより、信者は悪魔を克服できます。ルシフェルと部下の悪魔たちが御聖体に近づく時、地獄の拷問よりも怖い思いをします。教会の中に入り、御聖体が安置されている所にいると残酷な苦痛にさいなまれますが、人々を罪に誘惑し、滅びに導こうと一生懸命になっています。御聖体が市外を通る時、悪魔たちは怖さのあまり、逃げ回るのです。御聖体を敬虔に拝領する信者たちも悪魔にとっては苦手です。それでも悪魔たちは、信者に御聖体の有り難さを忘れさせ、無関心にさせ、世の中のことに気を配るように絶えずけしかけてくるのです。この目に見えない敵に対して、聖体拝領という武器を持って聖なる教会のためにあなたが戦うべしということは主の聖旨であり、私の意志です。罪を犯すカトリック信者たちを救うためには、敬虔に聖体拝領すること、次に私に取次を願うことが大変大事であることを肝に銘じなさい。又、御聖体に対し失礼な態度をとる司祭たちは、それを真似る信者たちよりももっと批難されるべきです。信心深く聖体拝領する人たちは、主の御体や御血を頂かずに殺された殉教者たちよりももっと大きな光栄を頂くのです。私はただの一回も御聖体を頂く価値はありません。私は原罪の汚れなく、セラフィム以上に愛徳を積み、全ての徳行に於て諸聖人以上の英雄的功徳を行い、私の全行為の意図は至高であり、私の習性も賜物も比較にならないはど高貴であり、御子に見習って苦労し、恩寵の功徳を受けない時は一時もありませんでしたが、これら全てを越えるのは「聖体拝領」です。聖体拝領するあなたは、いと高き御方を崇め、讃え、いつも主を受ける準備と何回でも殉教する覚悟をしなさい。


資料の入手について

日本語訳
尊者アグレダのマリアの記録
『神の都市』
甲斐睦興訳/昇る旭日の聖母会監修・発行

でも、申し訳ない、絶版である。
これはもともとカトリックの有志達が頑張って発行したもののようで、部数もそんなには多くなかったのだろう、今は「日本の古本屋」にも amazon にも、またおそらく公立図書館にも、見当たらない。(いつか何とかしたい)
何とかなった! 最近、或るカトリック有志がこれをPDF化してくれた!
CLICK!

英語訳
The Mystical City of God
Mary of Agreda (Author)
Fiscar Marison (Translator)

amazon

ネット上にもアップされている。
http://www.sacredheart.com/MysticalCityOfGod.htm
http://www.themostholyrosary.com/mystical-city.htm (PDF)



「カトリック信者たちが石のように固くなった心を開き、
聖体拝領の真の意味を掴むように」
「御聖体に対し失礼な態度をとる司祭たち」
これらの言葉から、この示現が、世の中に溢れている カンタン な人達が思うような「カトリック教理を神秘的に焼き直して宣伝しようとするもの」などではないことが分かるでしょう。カトリック内部の或る部分を非難、あるいは嘆いているわけですから。前回「対内的なものである」と言ったのは、この意味です。



シルバーバーチとの関連で

以下、全ては、「もし上の示現がその時の事実をその通りに映したものであるならば」という前提に立ってのことですが・・・

もし、そうであるならば、

シルバーバーチは、
地上の人間はあまりに永いあいだ教えを説く人物に関心を寄せすぎ、超人的地位に祭り上げて、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。

わたしたちはもう、そんな、しょせん人間にすぎない者を超人的地位に祭り上げることはいたしません。

いくら立派な地位(くらい)ではあっても、本来まったく関係のない地位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽すゆえんとはなりません。父なる神の右に座しているとか、"イエス" と "神" とは同一義であって、置き替えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。

などと言っているわけですが、それは当たらないことになります。何故なら、この示現には「崇めました」「平伏しました」などという言葉がありますから。

だいたい「祭り上げる」という言葉自体が、かなり悪意のあるものです(まあ、訳語ではありますが)。「イエス」がどうのという彼の表面上の「理屈」「議論」の裏に、その奥に、彼の「権威嫌い」の心性が透いて見えるかのようです。
(彼にとってのその「権威」とは何ですか? ------- イエズスの権威です! 彼はイエズスが嫌いです。「マスター・イエス」は好きであり、「よく知っている」のではあってもw。)

また、この示現によって、「ミサ」においては「儀式 = 単なる儀式」ではなく「儀式 = 人間に霊益を与えるもの」であることが分かります。

また、この示現によって、「教会」も「ミサ」もイエズス様が「設立」されたものであり、ミサで使われる祭壇・祭器もイエズス様が指示されたものであり、そして「今後、教会で繰り返される言葉」、つまり「聖変化の言葉」なども、イエズス様が「宣言」なさったものであることが分かります。

もう一度言えば、これら全ては「もし上の示現がその時の事実をその通りに映したものであるならば」という前提に立ってのことです。それはそうです。そして、この示現が本物であるという「証拠」はありません。

しかしながら、もし「神」というものが在るとすれば、それは人間にとっては「神秘」なものでありますから、つまり人間にはなかなか捕捉できないものですから、私達はともかく「仮定法」というものをあまり拒否しないで、隠れた物事を探らなければなりません。(「手探り」を嫌がる人には真理は探究できません。)

で、もしこの示現が真であるとすれば、シルバーバーチの「祭壇に何の意味がある」だの「祭壇がいったい宗教と何の関係がある」だのといった言葉(参照「シルバーバーチは悪霊である 3」)は、一般には通りのよいものだとしても、実はとんでもないものだということになります。


さて、ベイサイドの時と同じ質問をします。

シルバーバーチが「よく知っている」という「イエス」と、この示現の中の「イエズス」は、同一人物(同一霊)ですか???

シルバーバーチは、
私はあなた方が想像する以上にイエスと「親密な関係」にある
イエスはあなた方の「スピリチュアリズム」や「交霊会」を高次霊界における大審議会の主宰者としての立場から指揮・指導している
祭壇に何の意味がある
教会というものは、霊魂が未だ「本当の真理」に開かれていない人々のための幼稚なオモチャという以外には何の意味もない
教義も、教典も、儀式も、祭礼も、祭壇も、祭器も、聖歌も、僧服も、それら全て、一切合切、教会から削除してよい
と言っています。

その彼が「よく知っている」という「イエス」と、上の情景の中の「イエズス」は、同一人物(同一霊)ですか???


上の示現にはこう書いてあります。
(御子が)御聖体と聖血を敬虔に頂く様子は、我々に聖体拝領の仕方を教えただけではなく、人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれることを知らせています。
これを覚えておいてください。これと「一致」する他の示現を、私はなんぼでも挙げることができますから。

しかし、ここでさえ言えるのは、シルバーバーチが「よく知っている」と言う「イエス」は「カトリックの司祭達がミサを捧げたからといって少しも嬉しくは思わない」(参照「シルバーバーチは悪霊である 3 」)人ですから、従って、「人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれ」たりはしないということです。

同一霊ですか? しつこいけど。


私は「カトリック教徒」というより
一介の「探究家」です。
大したものではありません。
でも、性質としてはそうです。
だから上のような資料も読みます。
(大部分のカトリック教徒は
このようなものを読みません。)

しかし、とにかく、もう
カトリック教徒だからそう言うのだ
と言われても構いません。
そのようにカンタンに片付けられても構いません。
私はここで大声を出すことにします。

シルバーバーチ!
この大嘘つき野郎!

シルバーバーチ

2010年11月26日

シルバーバーチは悪霊である 4

シルバーバーチは何かに似ている

またもやベイサイドの預言から、「イエズス」が教会について言っている箇所を引用する。ただし、短い文だけを。何故なら、あまり前後を含めて引用すると、カトリック信仰を知らない人の目のためには、かえって焦点がぼけたことになりかねないと思うからである。
私はあなた方に、あなた方の小教区教会から去って欲しくない。私は、あなた方の神として、あなた方が留まることを望み、そう助言する!
1979年6月9日、イエズス 

わが教会の中には、私のために前面に立って戦おうとする者は一人もいないのか?
1974年8月21日、イエズス 

私達はサタンがわが教会を閉鎖することを望まない。
1984年4月14日、イエズス 

我々はわが教会における分裂を大目には見ないであろう。
1978年3月18日、イエズス 

そこに留まり、戦いなさい! わが教会を保ちなさい!
1977年5月14日、イエズス 


これだけでも明らかに分かるのは、この「イエズス」にとっては、教会はあくまで「わが教会」と呼ぶところのものだということである。

ところが、「イエスをよく知っている」というシルバーバーチは、「人間は教会を建立し」などと言い(前回参照)、「儀式」に関する発言(前回参照)と同様ここでも、一般に通りのよい「教会は人間が作ったものに過ぎない」との認識を既成事実化している。

他方の「イエズス」は、「教会は必ずしも無くても良い」などとは言っていない。全く逆のことを言っている。「わが教会を保つ為に踏みとどまれ。わが教会の為に戦え」と。

ところが、「イエスをよく知っている」というシルバーバーチは、こう言っている。
教義、儀式、祭礼、教典などは関係ない。祭壇に何の意味がある。何の意味もない。"聖なる書" と呼ばれている書物から活字という活字を削除してよい。"聖なる歌" を全部削除してよい。信者は儀式という儀式を全部欠席してよい。イエス自身もそんなことは望んでいない。
この勧めに従えば、教会は 空っぽ。


私は結論を急ぐつもりはなかった。しかし、書いてしまおう。

シルバーバーチの主張は、次のものに似ていると思うのである。
聖像を取り除け。それは人々をキリストから引き離すからと言え。ラテン語典礼をやめさせよ。それは多くの人にとっては意味不明の呪文のごときものだと言え。信心、歌をやめさせよ。聖なるオルガン音楽をやめさせよ。聖歌を廃止せよ。祭壇から聖人の聖遺物をことごとく排除せよ。祭壇そのものも排除せよ。ミサをする習慣を一掃せよ。「聖」の語を取り除け。祈祷書を取り除き、破壊せよ。すべての像と天使の絵を取り除け。修道服を捨てさせよ。すべてのカテキズム(カトリック要理)を焼き払え。教会を閉鎖に追い込め。告解をする慣習を取り除け。過去の教理はみな虚偽だったと宣伝せよ。真のキリストはもうすぐ来るのだと言え。
これにはまっても、教会は 空っぽ。

ご存知「イルミナティの極秘指令」である。(少しアレンジはしたが。)

よく見比べて欲しい。
どちらに従っても教会は空っぽになることといい、どちらもイエス(イエズス)を教会の外に放り投げていることといい、そっくりではないか?

私は思う。結局、

現幽所(ところ)は違えども、考える事は一緒

なのだと。

地上に居るイルミナティにおいては、
ドジって流出させてしまった文書において、敵意をむき出しにしている。

他方、霊界に居る「シルバーバーチ」と名乗る霊においては、
宗教的真理に疎い人達に対して、目も眩む「高級霊」の壮大な高みから、
聞こえのいい「半真理」を展開し、要するに「偽装」を行なっているのである。

(「疎い」とか、ドギツイ言い方をして御免なさい。)


しかし、今「内容」のことを言ったので、もう一度前に戻って確認させてもらうが、「シルバーバーチ」における問題は、その言っている「内容」自体がどうのというよりむしろ、彼が「イエスをよく知っている」と「嘘」を言っているというところにあるのである。そして、彼が嘘を言っているのは「明白」である。(後日、「ベイサイド」以外の示現も紹介する。)
そして、嘘をついた上であの内容なのだから、その正体は推して知るべし、否、明々白々だということなのである。「嘘」と「内容」の二つを絡ませて見なければならない。

カトリックの示現を見慣れている者から言わせると、シルバーバーチは「イエスをよく知っている」と言ったからこそ、自ら「墓穴」を掘ったのである。

ちなみに、霊的な事に不慣れな人のために言わせて頂くと、「たとえそのような嘘を言っているのだとしても、言ってる事自体がいいなら、私は気にしない」なんていうのは、駄目である。そのような嘘を言うのは「悪霊」なのだから。


霊的事象を広く探訪している人は、このような情景を見せられると、「キリスト教だけがあるわけじゃあるまいし。この宇宙は〈キリスト教の神〉と〈それに対抗する悪霊団〉だけから成っているとでも言うのか?」と呟きたくなるだろうと思います。お気持ちは分かります。私も昔、ニューエイジ思想、五井氏、岡田茂吉氏、などを通って来ましたので。
私はただ、分かるところから手を付けているに過ぎません。分かるところ、確実なところだけを相手にしています。「分からない霊界」を相手に、しかし「確実なるもの」を起点にして調べれば、その調査は、たとえ多少視野が狭くても、確実です。私にとってそれは、「確実なるもの」の起点を持たずに、視野を広く取り、「詳しく」なることもよりも、良いことなのです。
(誰に言っているのだろうw)


おまけ

ところで、
シルバーバーチは自分の祈りを
いつも次の言葉で始めるようだ。

「ああ、真白き大霊よ」
(Oh, Great White Spirit,)


真白き?


聖白色同胞団
(Great White Brotherhood)

白光真宏会
(White Light Association)

結局、そういうことなんじゃないですか?


参照
私は、五井氏の体から発しているこの光(写真右)が何の光なのかのかを疑うべきだと思うのである。(こういう写真は彼の場合一枚二枚じゃないのだが。)
高級霊から渡された如意宝珠から発せられる光ですか。あるいは人間誰しも内に蔵している「本心」の光ですか。
それを「疑う」べきだと思うのである。(疑う人はイジワルですか。)


里香ちゃん、しっかりしろ。

(五井氏のお孫さん)

お母さんに「ルシファーってどう思う?」って訊いてみなさい。
「ブラバツキー夫人ってどう思う?」って訊いてみなさい。

2010年11月25日

シルバーバーチは悪霊である 3

シルバーバーチは「何の意味もない」と言う

教義、儀式、祭礼、教典などは関係ありません祭壇に何の意味がありましょう。尖塔に何の意味があるのでしょう。ステンドグラスの窓にしたからといって、一体どうなるというのでしょう。法衣をまとったら、どこがどう違ってくるというのでしょう。そうしたものに惑わされてはいけません。何の意味もないのです。


霊言の愛読者の一人から「スピリチュアリストもキリスト教徒と同じようにイエスを記念して〈最後の晩餐〉の儀式を行うべきでしょうか」という質問が届けられた。これに対してシルバーバーチはこう答えた:

そういう儀式(セレモニー)を催すことによって、身体的・精神的・霊的に何らかの満足が得られるという人には、催させてあげればよろしい。われわれとしては最大限の寛容的態度で臨むべきであると思います。が、わたし自身には、そういうセレモニーに参加したいという気持は毛頭ありません。イエスご自身も、そんなことをしてくれたからといって、少しもうれしくは思われません


「イエスを記念した〈最後の晩餐〉の儀式」とは、カトリックで言えば「ミサ」である。故に、これによってシルバーバーチは「イエス自身も、カトリックの司祭達がミサを捧げたからといって、少しも嬉しくは思われません」と言ったことになる。さて、それは本当であろうか。

儀式よりも生活の方が大切です。宗教は儀式ではありません。人のために役立つことをすることです。本末を転倒してはいけません。"聖なる書" と呼ばれている書物から、活字のすベてを抹消してもかまいません讃美歌の本から "聖なる歌" をぜんぶ削除してもかまいません儀式という儀式をぜんぶ欠席なさってもかまいません。(…)

儀式にこだわった方法は迷信を助長します。そういう形式はイエスの教えとは何の関係もありません


自分のことより他人のためを優先し、自分の存在を意義あらしめるほど、それだけ霊性が発達します。それはあなた方の一人一人の内部に宿る大霊が発揮されるということです。至って単純なことなのです。ところが人間は教会を建立し、何やら難しい説教をします。私にも理解できない難解な用語を用い、また、これぞ宗教とばかりに仰々しい儀式を行います。


彼は「教会は必要ない」と言っている。少なくとも「必ずしも必要ではない」と言っている。彼のよく知っている「イエス」も当然同意見なのであろう。

信条・ドグマ・教義・儀式・祭礼・ステンドグラス・祭壇・法冠・外衣——こうしたものが一体宗教と何の関係があるというのでしょう?


このように、シルバーバーチは、「宗教」「人間」「人間の霊魂」にとっては、「教義」も「儀式」も「祭壇」も「僧服」も「聖像」も、そしておそらく「教会」そのものさえも、何の意味もないと言っている。

先行句を少し変えてみよう。
「宗教の本質的目的」「人間の真の霊性の開発・進歩」のためには、「教義」も「儀式」も「祭壇」も「僧服」も「聖像」も、そして「教会」そのものも、何の意味もない

また少し変えてみよう。
「人間がまだ幼児期にある時」には、「教義」も「儀式」も「祭壇」も「僧服」も「聖像」も、そして「教会」そのものも、幾らか意味があるかも知れない

シルバーバーチの言っている事はそういう事である。
そして、シルバーバーチがよく知っているところの「イエス」も、彼のこの考えに当然同意しているのであろう。

では、これら全てのニュアンスを念頭に、これらシルバーバーチの思念が次の「霊」達の思念と同じかどうかを見てみよう。(やはり「ベイサイドの預言」からのものである。)

多くの者が、わが体(訳注:御聖体のこと)を、不敬としか呼ぶことのできない方法をもって与えている。多くの者が、わが体を、神を侮辱する方法でもって受けている。そしてまた、多くの者が、ミサの聖なる犠牲において、不浄、不信心、心と行為における不純を促進している。
1979年5月26日、イエズス 

私の御子の恩寵、彼の肉体的な体(訳注:御聖体のこと)、あなた方のミサ聖祭における恵みを、しばしば受けなさい。しかし、それは奉献された手によってのみ、私の御子によって祝福された手によってのみ、御子の仕事をするため、御子を代理するために叙階された人の手によってのみ、あなた方に与えられなければなりません。
1971年2月11日、聖母 


儀式が「単なる儀式」であるならば、「単なるセレモニー」であるならば、このようには決して言われないことだろう。儀式が「単なる儀式」であるならば、どうして「不敬」とか「そこから恵みを受けよ」とかいうことになり得ようか。

わがミサに対する信仰を失ってはならない。それは有効である。人間はそれを歪めるかも知れない。しかし、それは有効であると、私が言う! ローマ・カトリック教会の合法的に叙階された司祭がミサを挙行する時それは有効であると、私が言う!
1976年12月7日、イエズス 


儀式が「単なる儀式」であるならば、「単なるセレモニー」であるならば、このようには心配されないであろう。

カトリックを知らない人のために、上の中の「有効」という言葉を説明しなければならない。
カトリックのミサにおいては祭壇の上で「パン」が「キリストの体」に変えられる。これを「聖変化」という。外観はパンのままだが、"実体" が「キリストの体」に変わるとされる。どのみち人間には分からない、「信仰」をもって向かわねばならない神秘的なことである。(宗教が「神秘的」なことを含まず、ただ「精神的」なばかりであるなら、修身と同じであろう。)
ところが、第二バチカン公会議以降、ミサの形態や式文が新しくなり、また神学校での司祭養成の中身も怪しくなったせいもあって、一部の者達から「これでは聖変化が起こらないのではないか(無効ではないか)」という疑義が提出された。これをもって教会から出る者達も現われた。
上の霊達の言葉はそのような状況に対応している。つまり、そのような状況を憂い、「いや、それは有効だから、出てはいけない」と言ったものである。


さて、ここで一つ、私らしい嫌な言い方をする。

聖書も仏典もほとんど開いたことがなく、祈りも瞑想もほとんどしたことがなく、神仏の "実在" ということをほとんどまともに考えたことがないような人が、堂々と「宗教の "本質" とは」と論ずることが出来たりする、不思議な、勘違いな人の世である。そのような「宗教を知らずに宗教を論ずる」ということが出来ると信じている人達は、ある者(人であれ霊であれ)が「宗教の本質は愛です」と言えば「そうそう」と思い、「宗教の目的はただ愛であるから、儀式など非本質的なものです」と言えば「そうそう」と思う。しかしそれは、言っちゃ悪いけれども「単純」というものである。あなたにはなお考えるべき多くの事がある。

たとえば、前回「あなた方は文章によって欺かれないように」という「聖母」の言葉があったけれども、試みに「儀式」という言葉を「秘跡」という言葉に置き換えてもらいたい。シルバーバーチが「宗教にとって儀式など何の意味もありません」と言ったのではなく、「宗教にとって秘跡など何の意味もありません」と言ったのだと。すると、あなたは「秘跡とは?」と考えなければならなくなる。そんなに直ぐには「そうそう」と頷けなくなる事態になる。

つまり、シルバーバーチは一般に通りのよい「儀式」とか「セレモニー」とかいう言葉を単純に置くことによって、それが「神秘的」なものである可能性を捨象しているのである。「儀式はただの儀式、ただ形だけのもの」ということを既成事実化している。

少なくとも私達はこのような「論法」に気をつけなければならない。


さて、そして、上に引用したベイサイドにおける「イエズス」のことである。
彼は、実際、シルバーバーチとは〈正反対〉に、儀式を「単なる儀式」とは見ず、「単なる形式・形骸」とは見ずに、何か非常に「神秘的」なもの、神秘的な形で人間の霊魂に多大な恵みを与えるものと考えているようである。

それ故に、
私達がここで最も考えなければならないこと、見極めなければならないことは、

この「イエズス」と名乗る霊と、シルバーバーチが「よく知っている」と主張している「イエス」は、はたして同一人物、否、同一霊だろうか?

ということである。

シルバーバーチの言っていること自体はそれほど悪いことには思われないと、多くの人は思うかも知れない。けれども、もし、シルバーバーチが「よく知っている」と主張しているところの「イエス」が、本当のイエス、本当のイエズス・キリストではないとしたら、それは・・・「もの凄いこと」になるのである。

「えらいこっちゃ! どえらいこと!」なのである。 Do you understand?

何故なら、もしそうであれば、

自ら「高級」を名乗る霊が、「真理」の名のもとに、また「愛」の名のもとに、「嘘」を言っている

ということになるのだから。(ここは単純に考えなければならない。)

そして、次の質問は、こうである。

霊界において、それほどの「嘘」をつくものは、何か?

よくよく考えてみなければならない。


もちろん、その逆のことも公平に言っておこう。

ベイサイドで「イエズス」を名乗っている霊こそが、本当のイエズスではないのかも、ニセモノなのかも、

と。

2010年11月24日

シルバーバーチは悪霊である 2

聖書について

シルバーバーチは聖書について次のように言う

ここでぜひともご注意申し上げておきたいのは、イエスに関する正しい記録はきわめて乏しいのですが、その乏しい記録に大変な改ざんがなされていることです。ずいぶん多くの、ありもしないことが書き加えられています。したがって聖書に書かれていることには、マユツバものが多いということです。出来すぎた話はみな割り引いて読まれて結構です。実際とは違うのですから……


聖書の「非信頼性」を言うこの言葉が真実であるとすれば、天国はもはや聖書のことを決して「The Holy Bible」とは呼ばないであろう。(慣用句としてさえ。)

しかしながら近年の預言である「ベイサイドの預言」では、そこに登場する「霊」達は、聖書から「Holy」という語を除くことなく、「The Book of life and love」という呼称をやめることなく、確固として聖書の全くの「信頼性」を人々に訴えかけている。

以下は「ベイサイドの預言」から聖書について言及されている箇所をベイサイド関係の老舗サイトの一つである These Last Days Ministries が抜き出し、まとめたものである。

未信者の方々においては、この内容自体、具体的なこと細かいところは、とりあえず問題とする必要はないと思う。必要なのはただ、その「筆致」を全体的に、且つ素朴に見ることである。「聖書」について、これらの霊がどのような姿勢・意識を持っているかは、語られている具体的な事柄はピンと来なくても、十分感知することができると思う。

なお、私がこの「ベイサイドの預言」というものを引用することを、たとえ聖書の擁護のためであろうと、歓迎しないカトリック教徒がたくさん居る。たくさんというより、大部分がそうである。その意味については、別途コチラ(既出)を読んで頂くしかないが、ここではむしろ、以下の言葉を素朴な心で読んで頂きたいと思う。

訳の正確さは必ずしも保証しない。というか、できないw。下線強調は管理人。


古い聖書
あなた方は皆、生命と愛の書、聖書を持っていなければなりません。新しい流行を受け入れてはなりません。書店の中に古い聖書を見つけようとしなさい。私の子供達。というのは、多くのものが人間の肉の性質に合うように変えられつつあるからです。繰り返します。罪が一つの生活様式にまでなっています。
1992年10月6日、聖母 

ほんの二、三章
私はあなた方皆に、日にほんの二、三章ずつ、生命と愛の書、聖書を読むようにと頼みます。私の御子の弟子達の全てが、知識を得なければなりません。というのは、あなた方は科学的なマインドによって攻撃されるでしょうから。しかし、ズケズケと話しかけられる時にも、何を言おうかと心配しないでください。言葉は聖霊から与えられるでしょうから。
1976年4月10日、聖母 

ヨハネ、ヨエル、マタイ
生命の書、すなわち聖書について何も知らない人達のために、あなた方は昔の預言者達の手引き (direction) を読んであげなければなりません。ヨハネ、ヨエル、そしてマタイは、あなた方に真理と預言の言葉を残したのです。
1973年4月14日、聖母 

理解
あなた方は聖書をよく学ばねばなりません。そうすればあなた方は、永遠の聖父が本当にシンプルな道をあなた方に与えておられることを理解するでしょう。それは人間の理解を遥かに超えたことです。というのは、祈りと苦しみと犠牲なしには、あなた方は聖書を理解する為の恵みさえ、聖父から受けることはないでしょうから。
1979年10月2日、聖テレジア 

あなた方の心の中に
生命と愛の書、聖書は、あなた方から取り去られることは決してないでしょう。そして、一度読まれた言葉はあなた方のハートの中に残り続けるでしょう。家庭の父親達、母親達。あなた方の子供達に、この知識の模範を与えなさい。子供達を静かなコーナーに伴い、読んで聞かせなさい。というのは、そのようにして彼らは真理を学び、光を与えられるからです。
1974年3月18日、聖母 

神学者
現在、私の御子の家にさえ、人類に悪魔の教義をもたらしている多くの神学者達がいます。彼らが教えているのは人間の教えであって、神の教えではありません。多くの者が、愛と生命の書、聖書の中の言い回し (wording) を変えるという傲慢を犯しています。それらの変更は人類を罪の束縛の中へと誘い込むことでしょう。
1979年6月2日、聖母 

ソドムとゴモラ
同性愛というあなた方の言葉は、ソドムとゴモラの物語によって説明されることができます。聖書を読みなさい……
1992年10月6日、聖母 

15分
お聞きなさい、私の子供達。あなた方は、聖書を読むことに大いなる恵みがあるということを理解しなければなりません。たった15分という短い時間にさえ、それがあるのです。あなた方は免償の恵みを受けるでしょう。忘れましたか、私の子供達。私の御子の家の現代化の中で、あなた方は免償を意味を忘れましたか。私の子供達、それは、あなた方がそうする必要のある時に、煉獄の霊魂達に譲ることのできるものです。
1985年7月25日、聖母 

家宝
神の王国への道は、聖書を読むことの中に見出されます。人は神を知りません。人はもはや聖書の啓示の中に神を探そうとしていません。
流刑にある霊魂は、ただ神の言葉によってのみ養われるのです。聖書はあなた方の家庭の家宝です。
1970年4月7日、聖母 

福音書
ヴェロニカ − テレジアが言っています。彼女は生前、いつも、その小さな本を彼女の服(修道服)の折り目のところに入れ、持ち歩いていたと。私は今、彼女がそれを持って私のすぐそばに居るのを見ています。それは福音書です。今、テレジアが言います:
「私は生前、博識な者でも学者でもありませんでした。しかし、私が持ち、必要とした全ては、この小さな本だったのです。そしてキリストに倣いて』も大事にしました。」
1972年12月31日、聖テレジア 

頭の覆いヴェール
私の子供達。女性達がミサの聖なる御生贄の際に頭を覆わないのは、傲慢な(訳註: あるいは「挑戦的な」)態度なのです。彼女ら (They) は従わないでしょう。というのは、彼女ら (They) は、人は聖書の言い回し (wording) を変えてはらないということを理解できないからです。人間、そして教会位階は、聖書の言い回し (wording) を人間本性 (mankind's instincts) に合わせて変えてはなりません。
1978年7月15日、聖母 

全体として
生命と愛の書、すなわち聖書をほとんど知らない人達は、今世界をうろつき、選ばれた者達をさえ騙そうとしている偽の証言者達の恰好の餌食となるでしょう。あなた方は文章によって欺かれないように、あなた方の聖書をよく読まなければなりません。聖書は、こちらから少し、あちらから少しと、部分的に引用されればいいというようなものではありません。あなた方はその全体を知らなければなりません。というのは、サタンは多くの者の心に毒を盛ったからです。そして、サタンというものは、聖書を説明することさえできるのです。
1979年5月26日、聖母 

黙示録
私の子供達。聖ヨハネの啓示書、黙示録を読みなさいとの私の助言に従った人があまりにも少ないので、私はとても悲しんでいます。それを読みなさい、私の子供達。あなた方を照らしてくださるように、私の御子に、永遠の聖父に、また聖霊に頼みなさい。そうすれば、それらのページはあなた方にとって明確なものとなるでしょう。
それらのページは巻物のように開示されるでしょう。そして、あなた方は来たるべき日々について完全な理解を得るでしょう。長年の間人類から隠されて来たものが、世界をその自己破壊から救うため、開示されようとしています。
1981年6月13日、聖母 

全く明白
人間は、時代を経るごとに、不満げになり、プライドに満ちるようになりました。彼は聖書の中に、言葉についての彼自身の解釈を加えよう、持ち込もうとして来たのです。しかし、心の単純な人達、プライドと傲慢に屈しなかった人達にとっては、聖書の言い回し (wording) は全く明白なものです。
1976年7月15日、聖母 

1965年
私は次のように願う。わが声を聞いている全ての人は、自分の聖書を持たなければならない。もし持っていなければ、探しなさい。しかし、わが子らよ、正しい聖書を、1965年以前に印刷されたものを見つけるべきである。
1985年10月5日、イエズス 

前進
あなた方は、右手に十字架を持ち、左手に聖書、生命の書を持って、前進しなければなりません。そして、この本を否定する者は全て、光の側の者ではありません
1974年5月22日、聖母 

ただの一語でも
あなた方は、生命の本、聖書を、人間を喜ばすために変えることはできません。そうしてはなりません。そうする時、あなた方はサタンを喜ばせているのです。あなた方は聖書の次の言葉を覚えておかねばなりません。誰であれ − 女であれ、物心ついた子供であれ、およそ人間と呼ぶに相応しい者であれば − 生命の書、すなわち聖書の中のただの一語でさえ変えようとするならば、生命と光の王国、すなわち天国の外に放り出されるであろう。光から放り出され、サタンに支配された暗黒の中に投げ込まれ、永遠に滅ぼされるであろう。
1978年7月15日、聖母 

物語に過ぎない?
もし彼らがあなた方に「聖書は人間の手によって書かれた物語に過ぎない」と言うならば、それは嘘だと知りなさい。もし彼らがあなた方に「神学者達がこの1982年現在に言っている事を信じることの方が良い。実際、大きな声では言えないが、他の全ての神学者達は愚かだったのだ」と言うならば、それは真実でないと知りなさい。それが事実です。そのように言う司祭は嘘つきです。
1982年6月18日、聖母 


これらの言葉が私達に「聖書を全面的に信頼せよ」と言っているのは明らかである。もし聖書がシルバーバーチの言うように「大変な改ざん」「多くのありもしないこと」「多くのマユツバもの」を含んでいるならば、誰がそれを「生命と愛の書」と呼べようか? 「家宝」と呼べようか? 「それを毎日読みなさい」と言えようか? 「そこから光を得なさい」と言えようか?

これらの言葉は、この世の多くの人々が不信を抱くところの人間組織から来たものではなく、また、個人の脳髄(潜在意識)から派生したものでもなく、「霊」から来たものである。(私の理解では。)

そして、シルバーバーチの言葉も、人間の手になるものではなく、やはり「霊」から来たのものであろう。(私の勘では。)

あなたはどう思うだろう。

シルバーバーチは悪霊である 1

シルバーバーチの霊言については、私も昔、多少読んだことがある。が、現在、本は一冊も持っていないし、また、買うつもりもない。

しかし「スピリチュアリズム・ブックス」というサイトに、彼に関する本が4冊、なんと全文がアップされている。


これらを使うことにする。

そのサイトの「著作権について」の内容により、引用の量はごく控え目にする。引用箇所の前後を確認したい方は、その都度引用元へのリンクを付記するから、各自確認されたい。(念の為に言うと、私はなにも前後関係を無視して自分の都合の良いところだけを抜き書きするのではない。全文は常に開示されているのだから、気になる方はご自分で確認されたい。)

シルバーバーチは「自分はイエスをよく知っている」と言う

通信して来ている霊は、正確に言えばシルバーバーチではなく、シルバーバーチを媒介として使う一個の「高級霊」であるということのようである。しかし、以下、単に「シルバーバーチ」と呼ぶ。

シルバーバーチは次のように言う。
私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主イエスの目に涙を見たことがあります。


「あなたがご存知のイエスについてお聞かせください」という質問に対して ---
わたしは何度となくお会いしております。(…)あなた方がスピリチュアリズムと呼んでおられるこの真理(…)の普及の指揮をなさっておられるのです。交霊会をはじめとするさまざまな仕事を指示しておられるのが、ほかならぬイエスその人なのです。(…)わたしたちが実際にお会いし、そして激励の言葉をいただいているのが、実在の高級霊、かつて地上で “ナザレ人イエス” と呼ばれていた方なのです。


わたしは、その大審議会を主宰される、かつて地上で “ナザレ人イエス” と呼ばれた人物が、わたしたちの業績に逐一通じておられるお言葉を述べられ、新たな力、新たな希望、新たなビジョン、新たな目的をもって邁進するようにと励ましてくださる時のそのお姿、そのお声、その偉大なる愛を、願わくば皆さんにも拝し、聞き、そして感じ取らせてあげられればと思うのですが、それができないのが残念です。


以上このように、シルバーバーチは「イエスのことをよく知っている」そうである。まず、これを大前提としよう。

シルバーバーチは「イエスは “スピリチュアリズム” や “交霊会” を指導している」と言う

上の二番目の引用を参照のこと

シルバーバーチを信じるとは、このような事を信じるということなのである。江原氏であろうと誰であろうと、優れた「霊能」があるのだろうと何だろうと、このような事を信じるということなのである。

さて、しかし、私は、イエズス様、あるいは聖母、あるいは天国に属する他の霊が直接的に「スピリチュアリズム」や「交霊会」に言及している箇所を見出すことはできなかった。(「オカルト」や「ウィジャー盤」について語ったものはあったけれども。)

しかし「悪霊の能力」にあったように、聖書は申命記において「占いをする者、卜者、易者、魔法使い、呪文を唱える者、口寄せ、かんなぎ、死人に問うことをする者があってはならない。主はすべてこれらのことをする者を憎まれるからである」と言っているのだから、聖書の内容を全面支持する「霊」の声を引くことによって、シルバーバーチの主張に対抗することができるだろう。

できるのは、対置し、対抗することだけである。霊的な事に「証明」はない。
しかし、人は本当の事を「感じ取る」心を持っているであろう。