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2010年12月31日

黙示録の婦人

アルベルト・ドレクセル教授」において「後日触れる」としていた「黙示録の婦人」について。

1. ドレクセル神父への示現の中で「イエズス」はこう言った。
今の時代は迫害に屈しない信仰告白者達を必要とする時代である! 今の時代は、信仰の聖なる火で燃え盛る霊魂達、世界中の至る所で小羊に従う聖なる教会の生徒達、強く、はっきりしており、純粋であり、多くの生ぬるさ、飽食、怠慢、臆病、腐敗、不毛、欺く者と欺かれる者などの存在にも関わらず、聖なる天使の導きの保護のもと、黙示録の婦人の勝利を見んと馳せ参じる者達を必要としている時代である。(1970年3月6日)

2. そして黙示録はこう言っている。
黙示録12:1-5
また、天に大きなしるしが現われた。一人の女が太陽をまとい、その足の下には月を踏み、その頭には十二の星の冠を戴いていた。この女はみごもっており、子どもが生まれようとしていたので、その苦しみと痛みのために泣き叫んでいた。また、もう一つのしるしが天に現われた。それは、七つの頭と十本の角のある巨大な赤い竜であった。その七つの頭には七つの冠を戴き、その尾で天の星の三分の一を掃き寄せて、それを地上に投げつけた。この竜は、子を産もうとしている女の前に立っていた。子どもが生まれたら、それを喰い尽くすためであった。この女は男の子を産んだ。この子は鉄の杖を持ってすべての国民を治めることになっていた。この子は、神のみもとに、その玉座に引きあげられた。

この「女」についてカトリック信者が何と言うかは、少しキリスト教を知っている人なら先刻承知である。そう、それは聖母マリアのことである。

黙示録の言葉は「象徴的」なものであって、故に「多義的」であろうか? そうかも知れない。事実、この「女」に関しても、「それは教会を指すのだ」という意見が、カトリックの神学者などの間にもあるようである。しかし、私は違うと思う。この場合は、ズバリ、聖母のことであると思う。ドレクセル神父への示現の中の「イエズス」が言うように、「黙示録の婦人 = 聖母」であると。

その通りに、古来からカトリック絵画は、以下のように聖母を描いている。聖母は月を踏んだり十二の星の冠を戴いたりしている。















けれども、プロテスタントの人達にはいくらこのような絵画をたくさんお見せしても、「それはカトリックの勝手な解釈に過ぎない」と言われるのがオチであろう。

ではここで、例のやつに行きたい。つまり、人間の精神的な「解釈」とは少し質の違うもの、それとは一線を隔てたもの、このサイトのポリシー(?)であるところの「宗教における第一次的なもの」を見ていきたい。すなわち、誰か今まで、黙示録が言う「太陽をまとい、その足の下には月を踏み、その頭には十二の星の冠を戴いている女」をその目で見、しかもそれが聖母であるという「示し」(示現)を受けた者はあるのだろうか?

これに関して、私は、私が無知なせいかも知れないが、二つの例しか知らない。聖母出現で最も有名なルルドとファチマでも、示現を受けた子供達はそのような形象での聖母は見なかったようである。しかし、二つある。二つでは不足だろうか。それは「不思議のメダイ」と「グァダルーペの聖母」である。

不思議のメダイ
Miraculous Medal

一つは、カトリック信者なら誰でも知っている、非常に有名な示現である、いわゆる「不思議のメダイ」におけるそれである。19世紀の修道女、聖カタリナ・ラブレ (St. Catherine Labouré) に聖母が御出現になり、「不思議のメダイ」の製作と配布を御指示なさったものである。以下、「みこころネット」さんから引用させて頂く。
そして卵の形をした枠が聖母の周りを取り囲んだ。その枠の内側に「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼むわれらのために祈り給え」という金の文字が書かれていた。

カタリナの使命を明らかにする声が聞こえた。
「この型に従ってメダイを刻印させなさい。そのメダイを身につける人は皆大きな恵みを受けるでしょう。メダイは首にかけなければなりません。信頼をもってメダイを身につける人には恵みがたくさんあるでしょう。」
その声が消えると、その絵が反転して裏側が現れた。大きなM字の上に横棒がありその上に十字架が立っている。Mの下には二つの心臓、イエズスの聖心とマリアの御心があった。イエズスの聖心には棘の冠がかむらせられ、マリアの御心は剣で刺し貫かれていた。十二の星が全体を取り巻いていた

つまり、聖母(それが聖母であれば)御自身がそのようにメダイのデザインを事細かに指示されたのである。そうして出来たのがこの「不思議のメダイ」である。

右の裏面の写真に「十二の星」がある。

まあ、正確に言えば、十二の星が取り囲んでいるのはマリアを表わす「M」だけではなく「全体」だが、しかしとにかく、この十二の星が刻印された準秘蹟を人類に与えたのは「聖母マリア」なのである。

このメダイは霊験あらたかなようである。このメダイを身につける者は、聖母が「恵みがたくさんあるでしょう」とおっしゃったように、実際、回心等の多くのお恵みを頂くそうである。これはまた、カトリック教会において「準秘跡」でもある。

今、「霊験あらたか」などという言い方をしたのには、訳がある。私はどうしても、その言い回しを自分の中に持っている人達を、ここで一度牽制しておきたかったw。こう言いたかった。
「神が単に思想の事でなく、現におわすものならば、霊験あらたかなものの一つや二つ、あっちゃいけませんか。」
「霊験」は、悪にとっては「危険」となるようである。
「気をつけろ。メダイについてのその話は、すべて本当のことだ。部屋に置くな。危険を呼ぶぞ。」(参照

グァダルーペの聖母
Our Lady of Guadalupe

彼女は「月を踏んで」いる。

1531年12月12日、メキシコのインディオのマントに浮き出た超自然的な絵ということである。詳しくはやはり「みこころネット」さんの記事を見てください。

次のように考える人も多いだろうと思う。
「この聖母は何故褐色の肌をしているのか。それはカトリック教会が新大陸の先住民たちを改宗させるために彼らと同じ肌の色のマリアをこしらえたからであろう。つまり、この聖母が褐色の肌をしていることこそが、この絵が人造のものであることを証(あかし)している。」
まあ、それはそれとして承っておく。けれども、そのように思う人は、自分がそのような推測のためにこのような事を信じないのではないということにも醒めておく必要がある。そのような人は、聖母が白い肌と青い目を持っていたらいたで、今度は別の推論を立てて信じないのである。心の真相においては、「推測」のために信じないのではなく、ただ初めから心に持っている「結論」のために信じないのである。それぐらいのことはご自分で分かっていてください。


以上の二つが、私がカトリック界に見つけることのできる、「黙示録の婦人 = 聖母」であることを示す「宗教における第一次的なもの」である。

2010年12月4日

約束履行w その一

先日の「アルベルト・ドレクセル教授」で私はこういう事を言った。
ドレクセル神父への示現の中で、その「イエズス」は、尊者アグレダのマリアの『神の神秘的な都市』を高く評価したが、別の霊的通信もその本のことを高く評価している。それを後日紹介する。
さて、今回それを紹介する。

ただし、人はどう思うか知らないが、それはエクソシズムの記録である。

そこにおいて、〈悪霊の口〉が、『神の神秘的な都市』を、高く評価している。
〈悪霊自身〉は、それを、評価していない。反対に、呪っている。
しかし、〈悪霊の口〉が、それを、高く評価している。
(こんがらがりましたか)

これに関してはカトリック教徒の間にもひどく抵抗がある。多くの者は「そんなもの、悪魔が言ってることじゃないか」と言って取り合わない。
しかしながら、私は、それがカトリックの司祭達が執り行なったエクソシズムであることを重視する。イエズス・キリストの権威を着た司祭が悪魔に「自白を強要」したのであると思っている。実際、「叙階の秘跡」を受けた「神の人」、司祭は、天主からそういう権能を受けているからである。
その事の一つの証拠となるのは『アンネリーゼ・ミシェルのエクソシズム』である。あなたは見ただろうか。その中で司祭は嫌がる悪霊達に無理矢理「めでたし聖寵充ち満てるマリア、主御身と共にまします」と言わせている。

では、その内容をご覧にいれる。
注)これは翻訳である。文章にすると、悪霊はかなり落ちついてしゃべっているような感じになってしまう。けれども、エクソシズムの実際の場面では、悪霊は叫びつつ、呻きつつ、荒れつつ、これを言ったものであろう。

「自白を強要」されたのは「ベルゼブブ」という名の悪魔とのことである。有名人、いや有名霊、かなり大物の悪魔である。「熾天使の階級から落ちた堕天使」ということである。文中の( )は管理人。

1976年3月30日

B = ベルゼブブ、 E = エクソシスト

B:〔苦悩にゆがんだ表情で司祭の方に向き直る〕そうだ。アグレダのイエズスのマリアだ。それについては我々は人間よりもよく知っている。そうだ、我々はあの本を呪っている、あの本を恐れている! ああ、こんなことを強制的に言わせられるとは!〔ぶつぶつ不平を言った後、不安にかられた叫び声をあげる〕

(…)

B: 教会の始まりに関しては、もう一度繰り返して言うが、福音書には福いなる童貞のことはほとんど何も書かれていない。しかしその後、偉大な聖人達は天からの霊に動かされ、幻視と告げを通して、上の彼女〔上を指す〕の生涯と働きについての啓示を受けたのだ。

管理人注: 福いなる童貞(さいわいなるどうてい)= 聖母。「福いなる」=「祝福された」。「童貞」=「処女」。

それら偉大な聖人の中でも優れた者の一人は、未だ列聖もされていないアンナ・カタリナ・エンメリック (Anne Catherine Emmerich) だ!〔邪悪な喜びを感じて笑う〕 彼女は天の聖人達の中で最も偉大な者の一人だ。

管理人注: 悪魔が「邪悪な喜び」を感じたのは、デマを吐いているからではなく、アンナ・カタリナ・エンメリックが人々の注目を引いていないことが嬉しいのである。

次に偉大なのはアグレダの町出身のイエズスのマリアだ。彼女はアグレタに住んでいた。女子大修道院長だった。彼女の両親は早くから修道院に退いていた〔どなる〕 ...彼らは修道院に入る誓いを立てていたのだ。それ故に彼らは、自分達の娘、お気に入りの子供のために、この幻視という恵みを勝ち取ったのだ。

E: さあ、話せ、聖名によって... お前の言う核心について、今話すのだ!

B: 福音書には、福いなる童貞についてほとんど書かれていないから、今、彼女は、特にこの混乱の時代に、アグレダのイエズスのマリアの本を読むようにと、説教壇の高いところから皆に薦められることを望んでいる。

全てのカトリックの家庭は必らずこの本を持つべきだ。全巻そろえて持つべきだ〔激しく泣く〕 初めは一巻だけだったが、今は厳密に正確に言えば青色の四巻と、赤いバインダーで編集された八巻とで成っている〔うなる〕

管理人注: つまり、前に紹介したものは、日本語版も英語版も抜粋の抜粋であって、本当は全部で何巻にもなる本である。
Mystical City of God - TAN Books

E: 至聖なる三位一体の聖名によって、続けて語れ... 汚れなき御宿りの聖名によって、彼女の命令によってお前は話さなければならない!

B: だから、福いなる童貞はこの本がカトリックのどの家庭にも不可欠なこと、そして更にこの本はプロテスタント信者達にも薦められるべきであることを、司祭達が説教の中で話すように望んでいる。読者がこの本の豊かさを知ったら、すぐに理解するだろう、彼女は何と...

E: 至聖なる三位一体の聖名によって続けよ!

B: ... 何と素晴らしく、選ばれ、運命づけられた被造物であることか! 行ないにおいても、思いにおいても、かつて人間には一度も与えられることのなかったほどの威厳を備えた被造物だ。司祭達はこの非常に有益な書物を人々に知らしめ、全世界に配布しなければならず、皆がそれを早速読まなければならない。また、この本を読めば、我々悪魔の無限かつ完全なる不幸と、我々の頭を踏み砕くこの被造物の威厳と気高さについて理解できるだろう〔歯がみする〕

(…)

B: ああ、エンメリックとアグレダのそれらの本は憎むべき本で、我々は長い間それを恐れており、これからも永遠に恐れるだろう。下の方にいる我々は、これらに如何に対処できるかを、既にどれだけ長い間考えてきたことか... しかし、人間達はそれを読もうともしないのだ〔嘲笑〕 良きカトリック信者を自称する者達でさえ、家にそれらの本を置いていないのだ!〔長く引き延ばした嘲笑〕

(…)

B: 私はまたこれを繰り返すことを強いられる。『主イエズスの苦しみの受難』[邦題:キリストのご受難を幻に見て]を含め、天においては尊ぶべき「聖人」であるカタリナ・エンメリックの本、及びアグレダのマリアの本、そしてトマス・ア・ケンピスの小さな本『キリストに倣いて』などは、この上もなく貴重だ〔うめき声を出す〕 言いたくない。

管理人注: 『キリストに倣いて』についてはベイサイドでも出て来たことを思い出して頂きたい(参照)。これも小さな「一致」だ。

E: 聖名によりて ... 真実を語れ!

B: それらの本は広く読まれるべきだ。そして説教のテーマはそれらの本の中から選び出されるべきだ。その中には今日の混乱した世界にとって、また現代の信者にとって、非常に重要な考え方が書いてあるのだ。

E: 真実を語れ、ベルゼブブよ。聖父と聖子と聖霊、汚れなき御孕り、大天使聖ミカエルの聖名によりて、白状するのだ! ルシファーには、お前の告白を妨げる権利はない!

(…)

B: 世界の情勢は今や深刻だ。教皇はそのことで非常に苦しんでいる。しかし、彼はもはやそれを、言ってみれば「見る」ことができない。彼は殉教者だ。彼は聖ステファノ殉教者よりも苦しんでいる。彼はこれ以上ほとんど何も言えないから、お前達は少くともアグレダのイエズスのマリアの本、カタリナ・エンメリックの本、『キリストに倣いて』の本を広く配布する仕事を再開すべきだ。それが上のあそこにいる彼らが望んでいることだ。

(…)

B: 私、ベルゼブブはもう一度言わなければならない。聖書の中にある聖ヨハネの黙示録は、それが神秘的な言葉づかいで記されているために、大部分の人間はほとんど理解していない。もっとよく理解するためには、アグレダのイエズスのマリアの本を調べるべきだ。その中でこの黙示録に関する多くのことが明確に説明してある。今は終末の時代だ。だからこそ信者は皆この本を持ち、そこに書かれていることに従わなければならない。そうすれば、あらゆることがもっとよくわかるようになるだろう。

全文

つまり、『神の神秘的な都市』はそれ自身を指して「これは天国由来のものである」と言い、ドレクセル神父への示現の中の「イエズス」も同じことを言い、エクソシズムの中での〈悪魔の口〉も同じことを自白しているわけである。


アンナ・カタリナ・エンメリックに関しては、一応、日本でも二冊刊行されている。


キリストのご受難を幻に見て
(光明社)

聖家族を幻に見て
(光明社)

「一応」と言ったのは、在庫が常に不安定だからだ。
一般の流通には乗っていない。読みたい人は光明社に直接問い合わせを。

光明社〒065-0011 札幌市東区北十一条東2丁目2-10
TEL 011-721-7841, FAX 011-721-7851
営業時間:9:00〜17:00

カトリックの本というのは、そうそう売れるものではないので、いつ絶版になるか、いつ在庫を切らしてくれるか、分かったものではない。私は光明社の回し者でも何でもないけれど、もし読みたいならば、在庫がある時に買っておかなければならない。次はもう無いかも知れない。(今既に無いかも知れない)

『キリストに倣いて』については、あまりにも有名な本なので、翻訳についてあまりうるさいことを言わなければ、入手困難になることはない。バルバロ訳

尊者アグレダのマリアの『神の都市』は最近PDF公開された。CLICK!

2010年12月1日

アルベルト・ドレクセル教授

以下は、オーストリアのカトリック司祭、アルベルト・ドレクセル教授 (Albert Drexel, 1889 - 1977) が「イエズス・キリスト」から受けた(と称する)示現を書き留めた『信仰は従順より重要である(英 Faith Is Greater Than Obedience、独 DER GLAUBE ist mehr als GEHORSAM)』という本からの抜粋である。(日本語では本になったことはない。)

お若い頃晩年

今、カトリック教徒自身がわざわざ「と称する」と付加したのであるから、あなたも出来るだけ偏りのない目で読んで頂きたい。

カトリック教会自身は、この示現を公認も非公認もしていない。

今回もまた、「シルバーバーチ」や「マシュー君」が言っている事を念頭に置きながら読んで頂きたい。

私はこれをカトリック信仰の宣伝のためにするのではない。その手前のことである。もし「シルバーバーチ」や「マシュー君」が "嘘" を言っているなら、それらを信じるということは「悪霊について行く」ということになるからである。
(「シルバーバーチ」や「マシュー君」を人造、つまり人の手になるものではないかと思う人も多いようである。「マシュー君はイルミナティ側の作文ではないか」と。また、私が紹介しているカトリックの示現にしても同様である。「それらはカトリックの伝統主義派の作文ではないか」と。だが、私から見れば、これらは確かに「霊」からのものである。「霊」は在り、それからの通信も在るからである。)

ドレクセル神父は言語学や人類学の素晴らしい学者(教授)であられたようである。普通に考えれば、迷信深いタイプの人ではないだろう。

私は文中少し「管理人注」を付け過ぎたようである。過剰である。が、もったいないから消さない。カトリック教徒でない人は飛ばして読んでもらいたい。

1970年3月6日

私は、あなたがまだ若干の仕事、時間を必要とする仕事をしなければならないとあなたに話さなかっただろうか?

最初の仕事は、あなたが引き受けた仕事である。即ち、わが童貞母マリアを称揚することである。わが天の御父の摂理により、あなたは、天地の女王の特別の愛という価値ある援助者を得たのである。

あなたがこの特別の本のための適切な装丁を探すのに忙しかったことも私を喜ばせた。私はこの仕事(アグレダのマリアによる『神の神秘的な都市』の改訂版)に、その増大する配布に、そしてわが一にして真なる教会の信者達へのその効果に、祝福を与える。

管理人注: 前回皆さんにお見せした『神の神秘的な都市』のことを、この「イエズス」は「特別な本」と呼び、その配布に祝福を与えると言っているのである。ここに一つの「一致」がある。私はこの「連関と一致を探す旅」の中で、後日、別の霊的通信もまたこの本を高く評価していることをあなたに見せる。そこでもう一つの「一致」をお見せすることになる。そして私は言う。たいていの皆さんは「イエス・キリスト」と言えば聖書しか知らない。けれど、もしこれらの互いに一致する声が本当に真の天国からの通信だったら? それを聞くことは私達にとって素晴らしいことのはずだ。そして皆さんは「シルバーバーチ」や「マシュー君」などが提示する何かそれに似たもの(大光明霊団?)の声と私が紹介するそれらの声とを比較検討することができる。どちらが本当の天国からの声なのかと。どちらが「イエス・キリスト」の真の意向を伝えて来ているのかと。

厳しい試練がわが教会を襲っている。しかし私はローマのわが可視的代表者を強め、それを司教達に対してさえ知恵と堅固さで武装させる。

司祭達ばかりでなく司教達も、彼らの任務に関する違反や怠惰によって、時代の精神の影響下に入るであろう。彼らは聖なる使徒ペトロの後継者にのみ属している権限と同等のものを手に入れようとしている。

それ故、男も女も、不屈且つ冷静に戦い、祈ることが必要である。防衛し、信仰を堅く保ち、犠牲をし、そしてそのようにしながら、信者達の中で、また人々の中で、望み、信仰、そして信頼を維持しなければならない。私は正義のために迫害を忍ぶ祝福された者達を称讃しなかっただろうか?(マタイ 5:10) 私は言わなかっただろうか? 人々の前で私の味方だと宣言する者を、私もまた、天におられるわが父の前で、私はその者の味方だと宣言すると。(マタイ 10:32)

今の時代は迫害に屈しない信仰告白者達を必要とする時代である! 今の時代は、信仰の聖なる火で燃え盛る霊魂達、世界中の至る所で小羊に従う聖なる教会の生徒達、強く、はっきりしており、純粋であり、多くの生ぬるさ、飽食、怠慢、臆病、腐敗、不毛、欺く者と欺かれる者などの存在にも関わらず、聖なる天使の導きの保護のもと、黙示録の婦人の勝利を見んと馳せ参じる者達を必要としている時代である。

管理人注: 「今の時代」とは、もちろん私達の今現在も含まれるだろうけれども、しかしこの示現が1970年のものであることを考えれば、特に「第二バチカン公会議」との絡みで言われたことであるだろう。「黙示録の婦人」については後日触れる。

1970年7月3日

善き霊魂であれ。そして、わが教会の動揺と崩壊寸前の有り様を見ても落胆するな。また、世界の秩序が転覆されても動揺するな! サタンとその悪魔的な影響力が史上かつてなかったほどに人類と教会に働きかけているというのは本当である!

しかし、天主の介入と聖霊の働きを通して、他のどんな働きよりも増して、天使達の助力、超自然的力の介入、善き霊魂達をもたらす働きなどが、一つも作られないとでもいうのか?

この働きは天主から起こるのである!

わが教会の全ての信徒達は、平和のうちに、また堅固な精神を持って、未来に進むように。サタンは荒れ狂うだろう。そして、信仰と彼ら自身の奉献から内的且つ外的に離れ去った司祭達が、彼のベスト・パートナーであろう。

管理人注: 物事はそう簡単ではないことに気づいて欲しい。ここにあるのはベイサイドと同じ筆致、そして『神の神秘的な都市』と似た筆致である。まず、彼にとっては、この「霊」にとっては、それはあくまで、どこまでも、「わが教会」なのである。それがそうでなくなることは決してない。しかしながら次に、彼は、その中に「サタンの煙」が混入していることを指摘し警告することをためらわないのである。

罪に一度も触れることのなかった無原罪のマリアは勝利するであろう。私と私の十字架に従い、忠実で、私の肉と血における私の現存を愛をもって信ずる私の群れは少なくなるかも知れないが、信仰、祈り、信仰と望みの告白、そして真理に対する愛は、最後には勝利するであろう。

嵐は猛威を振るうだろう! 自然においては、それは岩を割り、ダムを決壊させるだろう。しかし天主は全能である。真理は強力である。恩寵は豊かで、溢れんばかりである。それ故、私が置いた岩は終わりの日まで続くだろう!

1970年8月7日

私はあなたに聖なる天使達のことを話した。そして私は言う。この仕事はわが天の御父の摂理によって行なわれる仕事である。それは現在と未来の大いなる混乱と不安と破壊から、ローマのわが教会を救うためである。

教会の中に害毒をまく者達はその仕事を始めたが、祝福された召使いでありわが教会の羊飼いであるわが司祭達も同じく仕事を始めたのである。教会はこの仕事に霊的に参与している司祭達によって救われるであろう。この仕事は天にその起源を持つのである!

そして、天国と恩寵の神秘である超自然を否定することによって、彼らは自然を偶像化する。それ故、あなたが現代における最も大きな背教とその創始者について書いた本が出版され、広く伝えられることがわが願いである。(ドレクセル神父がテイヤール・ド・シャルダンについて書いた本『新しい預言者?』のこと)

管理人注: 『新しい預言者? テイヤール・ド・シャルダン ー その理論の分析』(1969年)。その中でドレクセル神父はテイヤールのことを否定的に書いている。「第二バチカン公会議後のキリスト教における、そして特にローマ・カトリック教会における現代主義あるいは新現代主義は、超自然的なものに全く背を向け、この世の事柄だけを偏愛する姿勢によってとりわけ特徴付けられます。これはヨハネ23世の言う『現代化』の偏った解釈と誤用です。テイヤール・ド・シャルダンの理論がその決定的な基礎となりました。彼は過去に背を向け、天主と超自然を一般的な進化論のプロセスと融和させ、信仰というものをオメガ・ポイントで終わる漸進的な発展の中に行動的に参加する事と宣言しました。その原理は世俗的事柄への人間主義的礼賛に寄与しました。」(参照
そして、恐ろしい事に、ベイサイドの聖母は、テイヤールが天主の真理を甚だしく歪め、その汚濁を世界中に広めたために、そして「神の人」(司祭)としての使命を裏切ったがために、今、永遠の火に焼かれている、と言っている。(参照

わが一にして真なる教会の破壊はまだ終わらず、これからも続くであろう。危険と破壊は、ローマのわが可視的代理者が決断の言葉を発するまで増大するであろう。その日が来るまでは、腐敗と留まるところのない混乱の毒がその破壊を続けるであろう。

管理人注: 教皇様の「最後の決断」とは何か? 私はフランスの神秘家マリー-ジュリー・ジェニーが言ったとされる事を思い出す。彼女によれば「ある時一人の教皇様が、最後の瞬間に彼のポリシーを翻し、聖職者達に荘厳なアピールをする。が、彼は従われない。反対に、司教達の会議は更に大きな自由を要求し、もはや教皇には従わないと宣言するだろう」ということである。そして、私のもとに届いた情報によると、ある時、日本のカトリック信者がバチカンにトリエントミサを求めた際、日本のある司教は「トリエントミサをするならバチカンから離れる」と言ったそうである!

それ故、あなた方全ては、わが童貞母マリアの仲介の御力に強く信頼して、祈り続けるべきである。何故なら、聖なる三位一体の力によって彼女は、サタンとその悪魔的な群れ、また彼に仕える人間の下僕と協力者達に対する征服者として作られたからである。

管理人注: 私はこの事(聖母は悪魔の群れに対する征服者として作られた)についても『神の神秘的な都市』から引用することができる。真正な示現たちは互いに非常によく「一致」するのである。

あまりに多くの信者達が、天主の不忠実な召使いとなってしまった不幸な司祭達の影響を受けて、この素晴らしい御母マリアから背を向けてしまった。これは彼らの倒壊というだけではなく、彼らの人生における謙遜の徳、純粋さ、そして敬意の倒壊である。これらの可哀想な欺かれ裏切られた被造物達は、公然と、あるいは心の中で、天の御父を捨て、忘れている。私がそれを通して祈れと世界と人々に教えたところの天の御父をである。

1970年9月4日

ますます多くの司祭達がわが童貞母マリアに背を向ける。そして、数え切れない数の信者達が教会の不忠実な息子達の誘惑に従っている。それ故、彼らは全永遠を失う大きな危険の中にあるのである。

管理人注: プロテスタントの少なくない人達の心の中には「カトリック = 聖母マリア」という図式が存在するであろう。けれども、現実はこうなのである。カトリック自身がそれから離れているのだ。これを知ってあなた方は「好ましい方向性」と思うだろうか? しかし、私は保証して言うが、そうではない。決してそうではない。霊的真実はこの「イエズス」が言う通りであろう。宗教においては「教義」は問題ではない、「事実」だけが問題である。そして、聖母に関するこれは「事実」であろう。私は「教義」のことを話しているのではなく、私が今まで〈観察〉して来たところの「霊界事情」のことを話しているのである。

しかし他方、信者の多くや他宗派の者達がマリアに振り向き、彼女を称揚することに貢献していることは、聖霊の神秘な御働きの印ではないだろうか?

熱心な祈りは、聖なる童貞マリアを讃える聖地から天へ、絶え間なくのぼってゆく。償いの意向を持った真実の祈りは、そのような場所におけるものでも、神を喜ばせる。そうだ、そのような場所でのそのような祈りがしばしば助力と癒しを得るということは本当である。天の御父は人の心を見通し、聖霊はその思いのままに吹く。(ヨハネ 3:8)

霊魂の内において起こる神秘は人間の肉体における可視的な神秘よりも更に偉大であると考えよ。

現在ほど、そしてこれから来る未来ほど、祈り、犠牲、償いが極めて必要とされる時代はかつてなかった。私の使徒と弟子達の時代以降、教会がこれほど大きな危険の中にあった時代はかつてなかった。そしてその理由は、教会の敵達が教会の内部にいるからである。彼らの破壊行為は公然と行なわれ、且つ善の名のもとにおいて行なわれている。

かつて私の使徒達の中に一人の裏切り者が見つかった。しかし今、裏切り者は増加した。背教の毒は司祭になろうとしている人達の心に徐々に染み込む。価値のない召使いが神を誤って把握するこの時代は禍いである。彼らは彼ら自身を恐ろしい冒涜の罪の中に落としている。

実に、地獄に仕える彼らがわが教会を打ち負かすことは不可能であろう。何故なら、それはわが教会だからである。しかしそうであれ、教会は大いなる混乱に襲われるであろう。そして信者は迫害に苦しむであろう。

信者の数は減少するであろう。しかし、彼らの恐れを知らない信仰告白は、世の光のように輝くであろう。そして、三位一体の天主の力と恩寵によって祝福されるであろう。

天主の教会がその神聖性を奪われた地方では、ミサ聖祭は個人的な場所で捧げられるであろう。

しかし、知れ、確かに知れ。マリアは、不忠実な人々によって中傷され見捨てられて来たが、忠実な信者を特別の保護によって勝利に導くのである。

祈れ! 聖なる天使達の力に信頼して祈れ! 彼らは至る所におり、光に溢れ、サタンとその協力者達の計画に対抗している。


このへんにしておきます。更に読みたい方は、コチラ

英語訳(抄訳)

ドイツ語(全文)

参考(英語)


Faith Is Greater Than Obedience, DER GLAUBE ist mehr als GEHORSAM


心の カンタン な人は、こう思う。

「カトリックの伝統主義派のものでしょ」

それで、おしまい Y(・_・)Y チーン

電子レンジみたいな奴ら
ちょーカンタン

そういうのが
物事を「理解する」ことだと思ってる。


いやいや、非難はやめよう。
キリスト教徒らしからぬことだ。


森田玄・きくちゆみ御夫妻、
山川紘矢・亜希子御夫妻、
そして西園寺昌美氏。

もし「ベイサイドの預言」に見る、
『神の神秘的な都市』に見る、
そして今回のドレクセル神父への示現に見る、
このような「御神霊」(上の人達のためにあえてこの語を使う)が
「真のイエス・キリストの御神霊」なのだとしたら(前提/仮定)、
教会や祭壇には大して(あるいは、何ら)意味はない」などと
言っているそれら、「イエスを知っている」と言いつつ
そんな事を言っているそれらは、すなわち「悪霊」なのです。
決まってるじゃないですか!

決まってないの? では、言い換えます。
 「皆さんにおいても、少なくともその『可能性』ぐらいは
大いに疑わなければなりません」と。

「悪霊」と言っても「黒く」見えるとは限りませんので。
「悪く」見えるとは限りませんので。
彼らは「光の天使」にも「知恵の天使」にも化けますので。
正に「手八丁口八丁」ですので。
「詐欺の海千山千」ですので!

私はいたずらに恐れているのではありません。
それが「事実」なのですから・・・


「霊界のことはいろいろに考えられる。不思議な世界なので。」
ですって?

ああ、しかし、私は申し上げたい。
「悪霊を」調べた方が良い、と。
「非真理を」調べた方が良い、と。

「神を」ではなく「悪霊を」、
「真理を」ではなく「非真理を」、
調べた方がいいです。

「信ずる」ではなく「疑う」ことをすべきです。
私は宗教信者にしてこう言います。
「疑うことは大事です」

世界の信頼性を追うよりも、
世界の危険性に気をつけた方がいいです。
現界に対してはそうしてるじゃないですか。
現界に関しては「陰謀」を思うでしょう?
なんで霊界にもそれがあると思わないんです?
世界の「信頼性」ばかりを追うと、
私達の探究の旅は甘くなります。

山川紘矢・亜希子御夫妻などは、
お二人とも東大出で、
私から見ると正におばけみたいに頭のいい人達ですが、
しかしまた、なんという「純真」な人達でしょう!
イノセント過ぎます。
決して侮辱するために言うのではありませんが、
それにしても「お人好し」「甘ちゃん」です。
もう少し「疑う」ということもお覚えになった方がいいです。


演説、終り。

尊者アグレダのマリアの『神の都市』は最近PDF公開された。CLICK!

2010年11月28日

尊者アグレダのマリアが受けた示現 2

これを読む前に前回の「前置き」を読んでもらいたいです。
いや、大したもんじゃないです。役に立たないかもです。でも、一応。恐縮です。
何故なら、人間ほど、「先入観」「固定観念」「偏見」、これらを持ちやすいものはないからです。ほとんど「歩く固定観念」とでも呼びたくなるくらいに。
ほんとっすよ? 今「大袈裟だなぁ」と思った人は、ちょっと読んでもらった方がいいかもです。「前書き」を。いや、天地神明に誓って大したものじゃないけど。
でも、「先入観」「固定観念」「偏見」、これらに関しては馬鹿みたいにうるさくなけりゃ、クソうるさくなけりゃ、きっと真理なんて手にできないっす。今「うるさいなぁ、もっと気楽にやりたいんだよぉ」と思った人は、きっと真理向きじゃありませんです。恐縮です。


引用文中の下線は管理人。
読点を数カ所、付加させてもらいました。
資料の入手に関しては最下段に付記しました。

神の神秘的な都市
The Mystical City of God


最後の晩餐

私たちが現在自宅で使用するコーヒーテーブルよりももっと低いテーブルの周りに座り、体を後ろにもたれて食事をするのが、ユダヤ人の習慣でした。主は、使徒たちの足を洗った後、現在の食卓のような高いテーブルを持ってくるように言いつけました。このことで、主は、下級の形式的律法に終止符を打ち、恩寵の律法である新しい晩餐を設立することになりました。このテーブル、つまりカトリック教会の祭壇で聖なる秘蹟が行われることを、主は希望されたのです。このテーブルは大変高価な布で覆われ、その上には皿と大きな盃ふうのコップが置かれました。その家の主人は、エメラルドのような宝石でできた皿と盃を提供したのです。全員が着席してから、主は種なしパンと葡萄酒を持って来させました。

主は心からの愛の言葉を使徒たちに話しました。御言葉は彼らの心の奥深くに達し、心を燃え上がらせました。御自身の神性と人性、救い、今祝おうとしている神秘の誓いについて申し渡しました。人々が相互に愛すれば、御子を愛する御父により愛されること、新しい律法と新しい教会の建設のため使徒たちを選んだこと、御母の崇高さと特権について、使徒たちの理解を更新させたのです。

我らの主キリストは、皿の上のパンを両手で取り上げ、永遠なる御父に心の中でお願いしました、「今、私が述べ、今後、教会で繰り返される言葉により、私が実際に真にこのパンの中に存在すること、私がこの約束を守ることを助け、許して下さい。」 この願いをしながら御目を天に上げている荘厳な様子は、使徒たち、天使たちと御母に、新しい深い畏敬の念を起こさせました。主は聖変化の御言葉を宣言し、パンの実質を御自身の真の体に変えられました。直ちに葡萄酒に対する聖変化の言葉を宣言し、御自身の真の血に変えられました。そして、永遠の御父の御声が聞こえました、「これぞわが愛子なり。我が喜び、世の終わりに至るまで我が喜びなり。我が子は人類の追放の間中、絶えず共にいるなり。」 同様の御言葉が聖霊により宣言されました。御言葉のペルソナの中のキリストの至聖なる人性は、御自身の体と血の秘蹟にこもる神性を恭しく拝みました。御母は一歩退き、聖なる秘蹟の中の御子を崇めました。御母の守護の天使たちや天の全天使たちと一緒に、エノクとエリアの霊魂も旧約の王たちや預言者たちを代表し、秘蹟の中の主の前に平伏しました。裏切り者を除く使徒たちと弟子たち全員はこの秘蹟を信じ、各人各様に謙遜と威厳を込めて崇めました。最高の司祭である主は、聖変化された御体と御血を両手で高く挙げました。この時、御母、聖ヨハネ、エノクとエリアは特別な理解を神から頂きました。どのように御体がパンの中に、御血が葡萄酒の中に存在するか、御体と御血が御霊魂と結ばれている故に生きている真の御子が現存すること、御子のペルソナが御父と聖霊のペルソナとどのように結合しているか、聖三位一体の一致の故に、御聖体は主の人性と共に聖三位一体であることを理解したのです。主のなさったことを司祭一人一人が再現すること、天地が崩れてもこの秘蹟は決して崩れないことも、御母を初めとする四人の深く理解するところとなりました。御母の理解は更に深遠でした。この秘蹟により、パンや葡萄酒の形色は変わらず、御体と御血も元のままであることがよく判りました。

御子の聖祭は続きます。御子は御聖体を割り、一つを頂きます。御自身を人間として認め、御聖体と聖血を敬虔に頂く様子は、我々に聖体拝領の仕方を教えただけではなく、人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれることを知らせています。主の聖体拝領により、タボル山での御変容の時のように、主の御体は短時間、輝きました。御母にはよく見え、他の三人には少し見えました。

主は御聖体と聖血を拝領し、永遠の御父を讃え、人間の救いのための犠牲として秘蹟にこもる御自身を捧げました。残っているパンの切れ端を大天使ガブリエルに渡し、御母の所に持って行かせました。大天使に大勢の天使が随行しました。御母は涙を流し、御聖体を恭しく拝領しました。その後で主はパンを使徒たちに手渡し、分け、配るように命じました。使徒たちも涙ながらに御聖体を拝領しました。使徒たちは司祭の権限を与えられ、聖なる教会の創立者となり、他の誰にもまして優先権を与えられたのです。主イエズス・キリストの御命令により、聖ペトロは御聖体をエノクとエリアに授けました。二人は大喜びして、将来、天国に入り、主なる神に御目にかかることを世の終わりまで待つよう改めて決心しました。心からいと高き御方に感謝した後、天使たちにより、二人の住居である古聖所に連れ戻されました。この奇跡により、主は、苦からの自然法と成文法を、御受肉、救世と人々との復活の中に組み入れることを示されたのです。これら全ての秘儀は、至聖なる聖餐の中に存在するからです。

元后の御言葉
ああ、私の娘よ、カトリック信者たちが石のように固くなった心を開き、聖体拝領の真の意味を掴むように心から希望します。御聖体の中に力と健康があります。悪魔に誘惑され、迫害されても問題ではありません。御聖体を頻繁に拝領することにより、信者は悪魔を克服できます。ルシフェルと部下の悪魔たちが御聖体に近づく時、地獄の拷問よりも怖い思いをします。教会の中に入り、御聖体が安置されている所にいると残酷な苦痛にさいなまれますが、人々を罪に誘惑し、滅びに導こうと一生懸命になっています。御聖体が市外を通る時、悪魔たちは怖さのあまり、逃げ回るのです。御聖体を敬虔に拝領する信者たちも悪魔にとっては苦手です。それでも悪魔たちは、信者に御聖体の有り難さを忘れさせ、無関心にさせ、世の中のことに気を配るように絶えずけしかけてくるのです。この目に見えない敵に対して、聖体拝領という武器を持って聖なる教会のためにあなたが戦うべしということは主の聖旨であり、私の意志です。罪を犯すカトリック信者たちを救うためには、敬虔に聖体拝領すること、次に私に取次を願うことが大変大事であることを肝に銘じなさい。又、御聖体に対し失礼な態度をとる司祭たちは、それを真似る信者たちよりももっと批難されるべきです。信心深く聖体拝領する人たちは、主の御体や御血を頂かずに殺された殉教者たちよりももっと大きな光栄を頂くのです。私はただの一回も御聖体を頂く価値はありません。私は原罪の汚れなく、セラフィム以上に愛徳を積み、全ての徳行に於て諸聖人以上の英雄的功徳を行い、私の全行為の意図は至高であり、私の習性も賜物も比較にならないはど高貴であり、御子に見習って苦労し、恩寵の功徳を受けない時は一時もありませんでしたが、これら全てを越えるのは「聖体拝領」です。聖体拝領するあなたは、いと高き御方を崇め、讃え、いつも主を受ける準備と何回でも殉教する覚悟をしなさい。


資料の入手について

日本語訳
尊者アグレダのマリアの記録
『神の都市』
甲斐睦興訳/昇る旭日の聖母会監修・発行

でも、申し訳ない、絶版である。
これはもともとカトリックの有志達が頑張って発行したもののようで、部数もそんなには多くなかったのだろう、今は「日本の古本屋」にも amazon にも、またおそらく公立図書館にも、見当たらない。(いつか何とかしたい)
何とかなった! 最近、或るカトリック有志がこれをPDF化してくれた!
CLICK!

英語訳
The Mystical City of God
Mary of Agreda (Author)
Fiscar Marison (Translator)

amazon

ネット上にもアップされている。
http://www.sacredheart.com/MysticalCityOfGod.htm
http://www.themostholyrosary.com/mystical-city.htm (PDF)



「カトリック信者たちが石のように固くなった心を開き、
聖体拝領の真の意味を掴むように」
「御聖体に対し失礼な態度をとる司祭たち」
これらの言葉から、この示現が、世の中に溢れている カンタン な人達が思うような「カトリック教理を神秘的に焼き直して宣伝しようとするもの」などではないことが分かるでしょう。カトリック内部の或る部分を非難、あるいは嘆いているわけですから。前回「対内的なものである」と言ったのは、この意味です。



シルバーバーチとの関連で

以下、全ては、「もし上の示現がその時の事実をその通りに映したものであるならば」という前提に立ってのことですが・・・

もし、そうであるならば、

シルバーバーチは、
地上の人間はあまりに永いあいだ教えを説く人物に関心を寄せすぎ、超人的地位に祭り上げて、肝心の教えそのものをなおざりにしてきました。

わたしたちはもう、そんな、しょせん人間にすぎない者を超人的地位に祭り上げることはいたしません。

いくら立派な地位(くらい)ではあっても、本来まったく関係のない地位に祭り上げることは、イエスに忠義を尽すゆえんとはなりません。父なる神の右に座しているとか、"イエス" と "神" とは同一義であって、置き替えられるものであるなどと主張しても、イエスは少しも喜ばれません。

などと言っているわけですが、それは当たらないことになります。何故なら、この示現には「崇めました」「平伏しました」などという言葉がありますから。

だいたい「祭り上げる」という言葉自体が、かなり悪意のあるものです(まあ、訳語ではありますが)。「イエス」がどうのという彼の表面上の「理屈」「議論」の裏に、その奥に、彼の「権威嫌い」の心性が透いて見えるかのようです。
(彼にとってのその「権威」とは何ですか? ------- イエズスの権威です! 彼はイエズスが嫌いです。「マスター・イエス」は好きであり、「よく知っている」のではあってもw。)

また、この示現によって、「ミサ」においては「儀式 = 単なる儀式」ではなく「儀式 = 人間に霊益を与えるもの」であることが分かります。

また、この示現によって、「教会」も「ミサ」もイエズス様が「設立」されたものであり、ミサで使われる祭壇・祭器もイエズス様が指示されたものであり、そして「今後、教会で繰り返される言葉」、つまり「聖変化の言葉」なども、イエズス様が「宣言」なさったものであることが分かります。

もう一度言えば、これら全ては「もし上の示現がその時の事実をその通りに映したものであるならば」という前提に立ってのことです。それはそうです。そして、この示現が本物であるという「証拠」はありません。

しかしながら、もし「神」というものが在るとすれば、それは人間にとっては「神秘」なものでありますから、つまり人間にはなかなか捕捉できないものですから、私達はともかく「仮定法」というものをあまり拒否しないで、隠れた物事を探らなければなりません。(「手探り」を嫌がる人には真理は探究できません。)

で、もしこの示現が真であるとすれば、シルバーバーチの「祭壇に何の意味がある」だの「祭壇がいったい宗教と何の関係がある」だのといった言葉(参照「シルバーバーチは悪霊である 3」)は、一般には通りのよいものだとしても、実はとんでもないものだということになります。


さて、ベイサイドの時と同じ質問をします。

シルバーバーチが「よく知っている」という「イエス」と、この示現の中の「イエズス」は、同一人物(同一霊)ですか???

シルバーバーチは、
私はあなた方が想像する以上にイエスと「親密な関係」にある
イエスはあなた方の「スピリチュアリズム」や「交霊会」を高次霊界における大審議会の主宰者としての立場から指揮・指導している
祭壇に何の意味がある
教会というものは、霊魂が未だ「本当の真理」に開かれていない人々のための幼稚なオモチャという以外には何の意味もない
教義も、教典も、儀式も、祭礼も、祭壇も、祭器も、聖歌も、僧服も、それら全て、一切合切、教会から削除してよい
と言っています。

その彼が「よく知っている」という「イエス」と、上の情景の中の「イエズス」は、同一人物(同一霊)ですか???


上の示現にはこう書いてあります。
(御子が)御聖体と聖血を敬虔に頂く様子は、我々に聖体拝領の仕方を教えただけではなく、人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれることを知らせています。
これを覚えておいてください。これと「一致」する他の示現を、私はなんぼでも挙げることができますから。

しかし、ここでさえ言えるのは、シルバーバーチが「よく知っている」と言う「イエス」は「カトリックの司祭達がミサを捧げたからといって少しも嬉しくは思わない」(参照「シルバーバーチは悪霊である 3 」)人ですから、従って、「人々が御聖体を粗末に扱うことを悲しまれ」たりはしないということです。

同一霊ですか? しつこいけど。


私は「カトリック教徒」というより
一介の「探究家」です。
大したものではありません。
でも、性質としてはそうです。
だから上のような資料も読みます。
(大部分のカトリック教徒は
このようなものを読みません。)

しかし、とにかく、もう
カトリック教徒だからそう言うのだ
と言われても構いません。
そのようにカンタンに片付けられても構いません。
私はここで大声を出すことにします。

シルバーバーチ!
この大嘘つき野郎!

シルバーバーチ

2010年11月27日

尊者アグレダのマリアが受けた示現 1

私の長たらしい前置きの次に掲げるのは、カトリックの「尊者アグレダのマリア (María de Ágreda)」が聖母によって見せられたヴィジョン(幻視)を書き留めた『神の神秘的な都市 (The Mystical City of God)』という本の一節である。
もちろん、聖書以上のものではない。が、カトリック教会はこれを「信仰に矛盾しないもの」として認めている。(この本は最近PDF化された。CLICK!

前置き

キリスト教徒というのは「教義的な人達」である。
たとえば、「プロテスタントか、カトリックか」が(他の宗派もあるが)、とても気になる人達である。それが重要と見える。

けれど、私は思う。
以前も書いたけれども、「真理探究」においては、本当は、各宗各派の「教義」は問題ではない。「事実」だけが問題である。霊的「事実」だけが。ある既成宗教の「教義」が価値あるものとすれば、それは、それが「事実」に合致している時である。「教義」が先行するのでなく、「事実」が先行する。「事実」に関する探索がなければならない。ある宗教、ある教え、ある教団・教会に対する「信じます」、つまり信頼は、あくまで「最終的」なものでなければならない。当り前である。

「事実」が探られなければならない。赤子の目をもって。
けれども、私達の目はあまりに「理屈」に汚されてしまっている。私達はあまりに過去に学んで来たものの「蓄積」を通して対象を見る。対象を見ているようでありながら、実はその「蓄積」を通して、いわば対象を「翻案」しつつ見る。現在そこにあるものをそのまま見るのではなく、必ず自分の「過去」を通して見る。つまり「記憶」を通して。記憶の中の「構造物」を通して。そして、多くの人には、それが悪いこと、私達の目を「曇らせる」ものであることが分からない。

しかし、そこを何とかして欲しい。これを読む時、なるべく「理屈」で汚されていない目を回復しつつ(私達だって旅の最初の頃はそのような目を持っていた筈だ)読んで欲しい。過去に学んで来たもの、今自分の脳の中に「蓄積」されているものを一時脇に片付けて、読んで欲しい。大丈夫、健忘症にでもならない限り、後でなんぼでも取り返せるから。心をなるべく白紙にして、赤子の如きものにして、読んで欲しい。

プロテスタントの人達は、もしそのような「赤子の目」が一時的にでも回復されていなければ、この示現が含むカトリック的要素 -------「聖母」「祭壇」「秘跡」「権能的司祭」------- を見て、直ぐに「カトリック」と思うことだろう。おそらく殆ど「自動的」に抵抗を覚えることだろう。しかし、もう一度言うが、何度でも言うが、これは「事実」の問題なんだ。「カトリック」云々ではなく、「プロテスタント」云々ではなく、「事実」の問題だ。「これは何だ? 事実か?」ということ、それだけが大事だ。そういうプリミティブな、原初的な目を持つことが、意外と大事だ。

それに、人はこういうのを読んで直ぐに「カトリックだ、カトリックだ」と言うけれど、私の理解に従えば、これは「カトリックの宣伝」ではなく「カトリック教徒を教えるため」のものなんだ。「対外的」なものではなく「対内的」なものなんだ。勿論、人類一般に教えるものでもあるだろうけれども、しかし先ずは、第一には、「カトリック教徒を教えるため」のものなんだ。カトリックの示現というのは、どれもだいたいそのようなものだ。プロテスタントの人達を嫌がらせるためではなくw、「カトリック教徒を教えるため」のものなんだ。

何故か?
カトリック教徒自身が「分かっていない」からだよ!

カトリック教徒は(私も含めて)霊的な「事実」、天的な「事実」を、聖書や教理を通して言葉では教えられてはいても、そしてそれを一応は「信じて」はいても、事はなにぶん非常に霊的・神秘的・超自然的なことなので、普通人間には想像すらつかないことなので(これを分かれというのが可哀想になるくらいに!)、本当には分かっていない、本当には「理解が及んで」いないからだ。「全然」と言っていいくらいに。(もちろん私も含めて。)

だから、間違っちゃいけない。人はたとえば「聖体」と聞いて直ぐに「カトリック!」と思うだろうけれど、カトリック教徒自身がその「御聖体」の何たるやを「分かっていない」んだ。神秘的なこと霊的なこと超自然的なことが「よく分からない」という点では、実はカトリック教徒も一般の人達とそうは変わらないのさ。中には「聖変化」を大して信じていない者もいるだろう。だから、天国が、福音書に追加し、教理に追加して、いろいろと教えてくるわけだ。

「福音書は足りない。それには不足がある」というわけじゃない。そうじゃない、決して。しかし天国としては、人類があまりに「分からんちん」なので、いわば「実際上の必要」のもとに、いろいろと教える必要に「駆られる」んだ。追加的に教える必要に。何故なら、天国は人類の行く末を心配しているからだ(まあ、マシュー君もそうだろうけどねw)。それが福音書から後の時代における天国からの干渉・介入、つまり啓示・預言の類の意味だよ。(もちろん、中には偽物のものもあるけど。見分けなくちゃならないけど。)

まあ、以上すべて、「私の理解に従えば」の話ではあるけれど。

しかし以上により、『神の神秘的な都市』を読む時も(読むとは限らないよね。読んでくれたらありがとう!)、「対象」(本の内容)のことだけではなく、是非、自分の「目」のことも、少し気にして欲しいんだ。

書き過ぎた。ページを改める。
そして、『神の神秘的な都市』のアップは明日にする。ごめん。

2010年11月20日

親愛なるRKさん (^^)

「一致」のもう一つの例

2006年
アメリカという国は、このお爺さん、93歳ですが、この人が支配しています。金融も、石油も、軍需も、麻薬も、食料も、すべてこの人がボスです。(…) デイヴィッド・ロックフェラー、93歳です。さっきからロックフェラー、シオニスト、ユダヤ権力、という名前が出てるでしょ? CFR、FRB、そのへんを全部まとめている大ボスがこの人です。


親愛なるリチャードさん、私はあなたに、あなたの存在に、感謝します。
けれども、人間の世界ではほとんど「頂上的」な明敏さをお持ちのあなたも、さすがに、天国にまではかないません。あなたがデイヴィッド・ロックフェラーについて上のように語ったのは2006年(上のビデオでは)でしたが、天国は同じ事について1975年の段階で既にはっきりと言っていたのであります。

1975年
大天使聖ミカエル: あなた方の国を陰で動かしている一人の男がいる。彼は間もなくこちらに近づき、自分の姿を現わすだろう。彼はその権力への欲望の故に、あなた方の国を危うくする者である。彼は世界の金権力の全てと手を結び、それらを一つの統合体----世界政府-----の中に加えた。こちらに来て、自らを現わせ、頭目よ!

ヴェロニカ: おお、何と言うこと! おお、何と言うこと! 陰に隠れている男はミスター・ロックフェラーです! 彼が陰に隠れている男です!



「天からの示現」だの「大天使聖ミカエル」だのと聞いて、霊的な事柄に慣れていない人は、閉口するだろう。
ただでさえ閉口するのに、その上、次のような情景が私達の眼前に広がっているのである。

ベイサイドのメッセージは「天からのメッセージ」、
マシュー君のメッセージも「天からのメッセージ」、
ベイサイドには「大天使聖ミカエル」がおり、
フィンドホーンにも「大天使ミカエル」がいる(確認)。

o(_ _o)……

あなた(リチャードさんのことではない)は「見分けたい」と思いますか?
どれが本物でどれが偽物か、あるいは両方とも偽物か、あるいは両方とも本物(?)か、あるいは両方とも単に人間の脳髄から出たものか。

「見分けたい」と思いますか?

思わないよね。