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2012年5月2日

オブセッション 2

悪魔はマインドを誘惑する
タンクレー神父の教えでは、悪霊による内的(internal)オブセッションは、記憶、想像、そして感情を標的とする。そのような誘惑には、日常生活から逸脱させる強迫的な妄想、不規則に現われる怒りや悲しみの爆発、そしてネガティブな考えやイメージなどがしばしば伴う。
というわけで、オブセッションについて調べているうち、タンクレー(Adolphe Tanquerey, 1854-1932)という高名らしき神学者の名を知った。
彼は『修養神学と神秘神学の概要(Precis de theologie ascetique et mystique)』(A Treatise On Ascetical And Mystical Theology)という著書の中でオブセッションのことに触れている。ごく概要的な内容だけれど、一応、試訳しておく。
悪霊による「通常の影響」に近いという意味で大抵の私達にも無関係ではないのは、1534番で語られている「内的オブセッション」だろうと思う。
オブセッション
1532.   その性質
オブセッションは一連の異常に暴力的で継続的な誘惑から成る。誘惑が外的感覚に影響を及ぼす(幻によって)時、それは「外的(external)」と言われる。そして、誘惑が気持ち(sensations)や感情を掻き回す時、「内的(internal)」と言われる。オブセッションが純粋に外的であることは珍しい。というのは、悪魔は霊魂への妨害をより容易なものにするという目的のためにこそ感覚に働きかけるのだからである。しかしながらこれまで、あらゆる種類の幻によって外的に取り憑かれたに拘らず霊魂の静かな平和を維持した聖人達が存在してきた。
1533.   悪魔はあらゆる外的感覚に影響を及ぼし得る
a) 「視覚」に対して、彼は時おり、ランジャックの尊者アグネス修母と他の多くの者にしたように、怖がらせ、そして徳の実践から離れさせるために、嫌悪を催させる醜悪な姿で現われる。また別の時には、しばしば聖アルフォンソ・ロドリゲスに対してしたように、罪に誘うために魅惑的な姿で現われる。
b) 「聴覚」に対して、コルトーナの福者マーガレットの生涯の中で語られているように、冒涜的な、あるいは淫猥な言葉や歌を聞かせる。あるいはパッツィの聖マドレーンと列聖されたアルスの主任司祭によって時おり経験されたように、恐ろしげな雑音を立てる。
c) 「触覚」に対して、二つの方法を取る。シエナの聖カタリナと聖フランシスコ・ザビエルの列聖についての教皇教書、あるいは聖テレジアの生涯の中に読むように、殴打し、傷を負わせる。あるいは聖アルフォンソ・ドロリゲスが彼自身の経験として語っているように、罪に誘うために抱擁する。
シュラム神父は、これらの現象は神経の過度の興奮からの純粋な幻覚である場合もあると言っている。しかしながら、そのような場合でも、恐るべき誘惑の契機となる。
1534.   悪魔はまた、内的感覚にも働きかける。想像力に、記憶に、そして、それを興奮させるべく情念(passions )に。悩みの種となるイメージはしつこく想像力に付きまとい、それを追い払おうとするあらゆる努力にも拘らず、そこに留まる。人は怒りの発作の、絶望の苦悶の、本能的な嫌悪感の虜になったようになる。あるいはまた、もっともな理由が何もない危険な感傷性の虜になったようになる。疑いもなく、それが本当のオブセッションであるかどうかを識別するのは、時に困難である。しかし、誘惑が、突然性、暴力性、継続性、そして通常の方法における原因究明の困難性を一度に持つならば、それが悪魔の陣営からの介入であると結論してよい。疑いがある場合は、カトリックの医師に助言を求めることが常に良い。医師はその現象が何らかの病理的な状態であるかどうかを検査することができる。そして、もし病理的な状態なら、それに適切な治療を処方する。
1535.   霊的指導者の態度
彼は賢明な思慮と父親らしい親切を併せ持たなければならない
a)  もちろん彼は、確かな証拠もなしに、それが本当のオブセッションだと考えてはならない。しかしとにかく、それがオブセッションであろうとなかろうと、暴力的でしつこい誘惑に攻撃されている悔悛者に対して、彼は憐れみに満ちていなければならない。そして、賢明なるアドバイスをもって、彼らを助けなければならない。彼は特に、我々が誘惑について、それに対する抵抗の仕方について、そして悪魔の誘惑に対する特別の救済策について何と言ってきたかを、彼らに思い出させなければならない。
b)  もし誘惑の頂点で若干の乱れが生じたとしても、そこに意志におけるどんな同意もなかったならば、彼は彼らに、同意のないところには罪もないということを思い出させなければならない。疑いのある場合でも、もしその人が習慣的に罪を避けている人ならば、そこに過ちはなかったと、少なくとも重大な過ちはなかったと、彼は判断してよいだろう。
c)  熱烈な(fervent)霊魂を扱っている場合、指導者が、これらの継続する誘惑は上述したような外的影響に由来した試練とは違うのではないか、と自問するのももっともなことである。もしそうならば、彼は彼らに、彼らの霊魂の状態に合ったアドバイスを与えなければならない。
1536.   d)  もし悪魔によるオブセッションの存在が確かであると、あるいはその可能性が高いと判断されるなら、霊的指導者は非公式に、ローマ儀式書の中のエクソシズムを、あるいはもっと短い何らかの式文を用いることができる。〔しかし〕もしそのようなことをすることを決心しなければならないとしても、もしそのことを悔悛者に告げることがただに悔悛者を心配させるか興奮させるかするだけだと判断されるなら、指導者はあらかじめ悔悛者にそのことを言うべきではない。あなたのために教会によって承認された祈りを唱えます、と告げるだけで十分である。荘厳なエクソシズムは裁治権者の許可なしには用いられることはできない。許可のない時には、以下の憑霊(possession)に関しての中で示すような予防的処置だけとしなければならない。
このブログは、今ではひどく自由に書いてしまっているけれど、当初は鬼束ちひろさんのために始めたものだった。
「もっともな理由が何もない危険な感傷性の虜になったようになる」
ちーちゃん、私はこの箇所であなたのことを思い出した。
何故なら、あなたは過去のインタビューの幾つかで、「自分には特にこれといったトラウマはない」と言っているからだ。
あなたが「危険な感傷性」を持っていたかどうかは知らない。ただ、この「理由のなさ」という一点で、私はあなたのことを思い出した。

オブセッション 1

憑霊関係では、私達は普通、ポゼッション(Possession)しか知らない。
が、オブセッション(Obsession)というものもあるそうだ。 obsess
更には、オプレッション(Oppression)というものも。 oppress
悪霊による  オプレッション  と  オブセッション  と
ポゼッション  の違いは何?
答え
悪霊の活動のこれらの形態は、悪霊からの通常の影響とは起こる頻度が違うことから、特別のもの(extraordinary)と呼ばれています。
悪霊からの通常の(ordinary)影響は、一つの悪霊又は複数の悪霊が私達の想像力の中に私達を誘惑するものを注ぎ込む時に起こります。
〔それに対し〕特別の影響は、一つの悪霊又は複数の悪霊が、天主の許す御意志(the permissive Will of God)によって、特定の方法で人間に影響を及ぼすのを許された場合に起こります。
悪霊によるオブセッションとは、悪霊が、対象の人間がある特定の思いを心の中から追い出すことができないように、その人の心に反復的に又継続的に影響を及ぼす時のことを言います。
悪霊によるオプレッションとは、悪霊が、対象の人間を内面的に攻撃するのでなしに、その人の、家族、親戚、身体的健康、またそれに類する事柄を含む外面的人生を破壊しようとする時のことを言います。
悪霊によるポゼッションは、一つの悪霊又は複数の悪霊が、対象の人間が自分の体に起こる事に関し意志による統御を持たないように、その人の体を身体的に〔物理的に〕引き継ぐところにその本質があります。
obsession」という言葉を辞書で引くと「強迫観念」という言葉が出て来る。それで、私は或るエクソシズムにおける悪霊の自白を思い出した。
強迫観念、「包囲された憑依」現象についてはっきり言おう。悪魔が体にとりつくのとは異なる。だが、聖母が許せば、悪魔はその人間の体に近づく。悪魔はそれから働き出す。悪魔はそいつに注ぎ込む。そいつの意志に影響を与える。おのれの憎しみと悪しき感覚を、直接、そいつの霊魂に注ぎ込むのだ。
そいつが行動を起こす前からこれが争いを起こす。われわれは殺人さえ起こせるが、争いと議論を起こすことの方が多い。(中略)
彼は「包囲された憑依」現象によって誘惑されたのだ。これによって争いと議論に誘われても、人はそういう人間は争い好きで怒りやすいのだとしか考えない。霊どもが彼を包囲しているのを見れる人間はいない。〔しかし、実のところ〕それは超自然現象なのだ。(中略)
「包囲された憑依」にしろ「内的な憑依」にしろ、后〔聖母〕はすべてを正常に戻せる。
上で「包囲」と訳されている語は、
英語で言えば「besiege」かも知れない。
St. Catherine of Siena Besieged by Demons
悪霊に包囲されたるシエナの聖カタリナ
人間の学問は「通常の影響」と「特別の影響」を分けるわけだけれども、また学問としてはそれでいいわけだけれども、しかし現実的には、その二つの間に明確な境はないだろうという気がする。
上の悪霊の言葉を初めて読んだ時、私は、これは正に或る局面での私達(私達全てではない)のことだと思ったものである。自分が以前から動物的に直観していたものを、ここで確認してもらったような気がしたものである。(悪霊に恩は着ないが、悪霊に強制してそれを言わせたであろう天国の権威には感謝する。)
私達が「信仰」について或る種類の重要な主題を議論している時など(悪霊は、実際、そのような局面に非常なる関心を持つ)、私達は「感情を煽られる」ことがあるのである。つまり「外部から」「内面を」煽られることが。
ところが、「人はそういう人間は争い好きで怒りやすいのだとしか考えない」とあったように、人は、他者の事ばかりでなく自分の事でも、ほとんど常に、それを「自分の感情」であるとしか思わないのである。思えないのである。「頭」は、まず、それ以外の「解釈」の道を知らないのである。

2011年9月20日

憑霊 (Demonic Possession) 2

A. 音楽雑誌『papyrus(パピルス)』2011年4月号での鬼束さんの回想の一節
異変に気づいたのは、セカントアルバム『This Armor』を発表して、二度目の全国ツアーを行っていた二〇〇二年のこと。当時はそれこそ、寝る暇もないくらいめちゃくちゃ忙しい日々を送っていたから、少しくらい眠れなくても深刻には思っていなかった。疲れすぎて逆に眠れないことは、よくあるものだし。だけどそれが、一日、二日の話じゃなくなってきた。体は疲れ切っているのに、来る日も来る日も深い眠りが訪れない……。
「なんか眠れないんだよね、最近」
スタッフにぼやいていた矢先、世にも恐ろしい体験をした。ツアーのステージで幕が開いた瞬間、お客さんの顔がすべて悪魔に見えてしまったのだ! 逃げ出したい気持ちを必死にこらえて歌い続ける。同じような状況が、その後のライブでも立て続けに起こった
「これ以上ステージに立つのが怖いんだけど」
私の訴えを聞いて、様子がおかしいと思ったプロデューサーが調べてみると、それはパニック・ディスオーダー(パニック障害)の症状のひとつだという。そしてその病気は、不眠を併発しやすいということも判明した。
B. 映画『エミリー・ローズ』より
▶ 別に遊びでこのような表示をしているわけではない。他者の人生と映画を安易に引き比べてオモチャにしているつもりはない。
私にとってはただ、「憑霊」は真面目に向かうべき問題なので。
一回目の「憑霊(Demonic Possession)」でも書いたが、「憑霊」は差別語でもない。私の信ずるところに従えば、誰でも多かれ少なかれ霊の影響を受けているのだから。
「精神病」、これも昔は差別語に近かった。しかし、今は必ずしもそうでない。世の中の理解が進んだからだ。
▶ 私は、鬼束さんが体験したことは、やはり霊に関係したことだと思う。
映画『エミリー・ローズ』は実話を基にしている。ドイツのアンネリーゼ・ミシェルという若い女性に起こったことだ。人は「映画」というとエンターテインメントだと思い、あまり真面目に受け取らないかも知れないが、しかし上の画像に見るようなことは、実際その女性が体験したことだ。
鬼束さんと同じく、人の顔が恐ろしい悪魔的なものに見えたわけだ。
否、私としても、「だから同じだ」と短絡しない。私も、そのような状態のことは「症例」として精神医学書の中に整理されているだろうことぐらいは知っている。
▶ 私たちは「議論」することもできる。「霊」というのは有るのか無いのか。「憑霊」などというものが本当にあるのか。単に「精神病」ということで簡単に説明がつくものではないのか。等々について。
しかし、私はただ、上の一番下の画像に見る字幕に注意を惹き付けたいと思う。Oare e posibil? ルーマニア語らしいが、英語では Is it possible? だ。「憑霊。そんなことがあり得る(possible)ものでしょうか?」
議論はしないが、少し言えば、まず、この事自体には誰しも賛同すると思うが、「科学は万能ではない」。(そう、これには誰しも賛同する。紛糾するのはその先からだ。)
そして、私には、科学による「説明」あるいは「解釈」は、もともとその手法に限定された一方向からのみ見た上の「説明」であり「解釈」である、という気がする。(学がないからうまくは言えないが。)
科学的な推論や科学的な結論も、必ずしも「間違って」はいないだろう。しかし、必ずしも間違ってはいないが「一面的」である可能性が常にあるだろう。精神医学なんていうのは特に、そうなる可能性が大だろう。悪くすれば、そこにおける「説明」「解釈」は後付けのようなことになりかねない――そんな世界のような気がする。
そもそも、精神医学なら精神医学の学問世界「全体」が、「閉じた世界観」というか、「閉じた体系」?なんだと思う。
▶ とは云え、私としても、霊的な原因、あるいは原因の霊的な理解というものを、あるいは原因の全的な理解というものを、確かになど描けない。
何と言っても、霊界側の動きは「目に見えない」のだから。
私に言えるのはただ、「獏たる確信」という矛盾したようなものだけだ。
私が「漠然と確信」しているのは、悪霊は人間の弱点につけ入るということだ。
それは人間の弱点の傷口に指を入れ、広げようとする。
そうして、その広げられた穴から、人の内面(精神状態)を引っ掻き回す。
▶ 参考: ビデオ「アンネリーゼ・ミシェルのエクソシズム」 CLICK!
同エクソシズムの文書記録から憑霊と精神病の関係を伺わせる箇所 CLICK!
ちなみに、精神科医によるこのような表題の本もあるわけである。
まあ、内容は、あまりに「気まま」に書かれた軽いコラムの集合であって、まったくお勧めしないけれども。(そして第一、絶版だけれども。)
そして、この著者も、「精神病は100パーセントおばけの仕業だ」とは言わないだろうけれども。
▶ 鬼束さんは最近、少なくとも表向き、快調のようだ。
しかし私は、まったく、少しも、喜ぶことができない。
何故なら、身も蓋もない言い方になるが、悪霊の影響力に「親和して」しまったように見えるからである。それと「融和して」しまったように見える。それ故のある種の安定であるように見える。
まあ、直感的に、霊感的に?、そう思う。
あなたの写真からは、良いものが出ていないし。(むしろその逆だ。)
私の目には、残念ながら、より悪くなったように見える。
今のあなたのハッピーさは、いわば「悪魔のハピネス(La felicità del Diavolo)」であるであるように見える。