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2010年11月13日

トーリ・エイモス 8

私は、一応クリスチャンでありながら、次のように言って憚らないようなところがあります。

私達日本人は、これらを「西洋から来た濁流」と認識しなければなりません。

それは、一つには、私達日本人は本来「ものを心で見る」ということに優れているのではないかと思うからです。

日本人の皆さん、そしてちーちゃん、トーリ・エイモスの PV は以前も少し見ましたが、ここでもう少し見てみませう。心で

Raspberry Swirl  *無音

Strange Little Girl  *無音

Hey Jupiter  *無音

Glory of the 80's  *無音


まともですか?


「心で見る」ことが大切。

「頭で見て」みますか?
つまり、
トーリがトーリの曲についてしている「説明」に
耳を傾けてみますか?

すると、あなたはこう思います。
「それもそうかなぁ」



音声は意図的に抜いてあります。
というのは、言ったように、
人間は、まず、言葉を聞けば言葉に騙されます。
そして、それと同じように、トーリの音を聴けば、
音楽として一定のクオリティを備えているだろう
トーリの音楽に騙されてしまう可能性があるからです。
情報は時に少ない方が、対象の本質を逃さず捉えられる
ことがあると思うのです。

私なりの感想を言えば、
Raspberry Swirl は「異常」であり、
Strange Little Girl は十分に「魔的」であり、
Hey Jupiter はトーリの顔が非常に気味悪く、
Glory of the 80's はお話にもならない、
サタニストそのものである、
ということになります。

「トーリはミュージシャンであって、
曲そのものこそがトーリの作品であって、
PV などはトーリにとって本質的なものではなく、
いわば手すさびである」などと、
寝ぼけた事を言わないでください。

2010年11月12日

トーリ・エイモス 7

トーリ・エイモスも天使と悪魔を弄ぶ



確かにトーリ・エイモスは、レディ・ガガなどと比べると、どこかしら上等である。まず、父親がメソジストの牧師ということで、彼女が主張するように彼女の若い頃に「抑圧」の問題があったのだとしても、それにもかかわらず、やはり彼女は基本的に「育ちがいい」のである。そしておそらく、その同じ環境のために、彼女は知的である。

けれども私は、それにもかかわらず、実在の神と天使に対する態度において、また反対の邪悪な存在に対する態度において、彼女も結局は他の者らと同じであると思う。人が自らの体に天使の羽根だの悪魔の羽根だの角だのを付けることが出来る時、あるいはそれに類した他の表現行為が出来る時、それはその人が、神と悪魔、天使と悪魔、善と悪などということに関し、本当には真剣に考えていない、考えることが出来ていない、ということを意味している。彼らは神や天使を、彼らの、彼らが言うところの「アート」の具、駒にしているのである。

Bono

Lady GaGa

Madonna

何故、こういうのがイケナイか。理由は簡単だ。「おこがましい」から。控え目に言って、それは「おこがましい」のである。(参照
こういうことをする時、それが私であれ、あなたであれ、彼であれ、彼女であれ、おこがましい。聖人で、仮にもこういうことを自らした人、自ら出来た人は、一人も居ない(「自ら」と言ったのは、何らかの教会権威の指導の下に、いわゆる「聖劇」を演ずることはあるだろうからだ)。それは、聖なるものと自分との間の遠い距離を、彼らがきちんと弁えているからである。


トーリ・エイモスは人の目に「深遠」に映る

私は以前、「レディ・ガガに比べてマドンナなどは、変な言い方だが、かなり精神がしっかりしており、確信的なのではないか」と書いたが、 その通りだと思う(自画自賛かw)。レディ・ガガは、「イルミナティ」のことなど何も知らない日本人の目にも、「天然」と映ったりする。彼女は気の毒にも、空っぽの人、魂の抜けた人、そして欧米の観察者たちの言う通りに、おそらく the Illuminati Puppet(イルミナティの操り人間)だろう。

Lady GaGa

しかし、トーリ・エイモスはそうではない。マドンナよりも更にそうではない。トーリ・エイモスは人の目に「知的」であり、更に「深遠」でさえあるだろう。トーリ・エイモスの音楽はカルロス・カスタネダであり、神話であり、精神分析学であり、ユング心理学であるだろう。知的である。

American Doll Posse
彼女はギリシャ神話の中から五つの女性像(女神像?)を選び、現代のアメリカに投影して、なにやら「女性」に関する心理学的なものを遊ぶ。(写真の5人は全てトーリである。)
そうして彼女は、そのようにしながら、おそらくは善と悪の問題をも心理学的にゴチャゴチャいじくり回し、相対化し、人々を神話を使った「ディベートの暗い森」の中に誘い込み、迷わせる。自分ではそれが善だと信じながら。

そして彼女の世界は、もちろん、シャーリー・マクレーンのような世界でもあるだろう。
Tori Amos
Shirley MacLaine
実際、彼女の That's What I Like Mick という曲には、シャーリー・マクレーンの名が出て来るのである。(その意味合いは知らないが。)

レディ・ガガやマドンナなどは共にエロ(破廉恥)であるから、ある程度心ある人は彼女らに近づかないだろう。けれど、トーリ・エイモスは彼女らとは違う。人々は彼女に知性と愛を感じる。その愛は、特に、「『狭苦しい善悪二元論』を超えた、温かく、広々、深々とした愛」だろう。「人々を『抑圧』から解放する愛」だろう。そしてその知性は、「人々に『真の自由』をもたらす知性」だろう。人々の目に、それら全てがそのように「映る」だろう。

そして実際、ファンとの交流の様を見ても、トーリはすこぶるフレンドリーで温かいようである。それは彼女の「人柄」であるだろう。そして、私はこれも、ある程度彼女が育った家庭環境の反映なのではないかと思う。つまり、私はメソジストの信仰を肯定するつもりはないけれども、「全」肯定するつもりはないけれども、それでも彼女のそれはある程度、彼女の父親(と母親)の、言ってみれば「善徳」のようなものから来ているのではないかという気がするのである。(私はカトリック仲間に気を使いながら話している。)

しかし、それにもかかわらず、そんなところに目を取られていては、私達は大変に、大変に間違う。
Osho なども、人々にどれほどの「愛」を感じさせていたことか! それは彼の弟子たちにとっては、まさに「巨大な愛」だった。「奇跡的な愛」ですらあったのだ。


ちーちゃん、これら全てを理解してください。
探究してください。徐々に。

「裏付けられたものが欲しい」「暗闇を歩く炎が欲しい」 (Angelina) と言うのならば。

2010年11月10日

トーリ・エイモス 6

さて、前回「魔女狩り」なんていう言葉が出ましたが、今回のこの記事は、宗教に未だ真の関心を持てないでいる人の目に(私も昔はそれを持てないでいたわけですが)、それこそ「魔女狩り」のように映るかも知れません。
でも、自分としては、ただ「事実」を確認するためのつもりのものであります。

トーリと薔薇十字

トーリ・エイモスはシャーマンと一緒にドラッグをやる人である

まず、「トーリ・エイモス 3」に一箇所訂正有り。恥。

さて、その訂正箇所と同じ事柄について、つまり、トーリが「経験した」と認めた「エクスタシー旅行の中でのルシファーとの48時間の熱い情事」について、トーリは別の場所で次のように言っている。
I was taking drugs with a South American shaman and I really did visit the Devil and I had a journey.
私は一人の南アメリカのシャーマンと一緒にドラッグをやっていて、その時に本当にデビルを訪問し、そして旅をしたのです。


結局、トーリもまた、ドラッグ(合法か非合法かは問題ではない)をやりながら何か "ある種の境地" に入ろうとするその種の人達 ------- ビートルズ以来のその種の路線にある人達 ------- の一人だということだろう。


トーリ・エイモスはグノーシス主義者である

Good Fight Ministries とローズの会話(「トーリ・エイモス 4」)にもあったように、トーリはグノーシス主義者である。推測ではない。自分で明言している。

あるインタビュー記事から
Q :  You're not welcome in Catholic countries.
あなたはカトリック諸国では歓迎されませんよね。

T :  But I'm not a Catholic, I am a Gnostic.
でも、私はカトリック教徒ではありません。グノーシス主義者です。


とは言っても、多くの日本人にとっては「グノーシス主義? 何それ?」であるか、「グノーシスも一つの考え方でしょ。キリスト教はただ、それが自分たちの教義と合わないというで反対しているだけでしょ」と思うだけだろう。


Joseph Campbell


上のインタビュー記事をもう少し続けてみると、トーリの口から Joseph Campbell (Wikipedia) という人の名が出て来る。トーリが傾倒している人である。
Q :  You're not welcome in Catholic countries.
あなたはカトリック諸国では歓迎されませんよね。

T :  But I'm not a Catholic, I am a Gnostic. In early Christianity, I would have followed the Gnostic direction. But I live today and therefore I believe in the power of the myths, in what Joseph Campbell called “the power of the myths”. In American schools you won’t learn much about these myths.
でも、私はカトリック教徒ではありません。グノーシス主義者です。キリスト教の初期の時代ならば、私はグノーシス派の指導に従っていたことでしょう。しかし、私は現代に生きています。それで、私は神話の力を信じています。ジョセフ・キャンベル言うところの「神話の力」を。しかし、アメリカの学校では、それらの神話についてはあまり学びませんよね。


Joseph Campbell という人は、映画『スターウォーズ』でジョージ・ルーカスに多大な影響を与えた人として、また『神話の力 The Power of Myth』という本の著者として、日本でも若干知られている人らしい。では、どんな考えを持った人なのだろうか。

彼についての或る記事の中に、私は私にとって懐かしいところの言い回しを見た。著書『神話の力』からの引用だそうである。
キャンベル:私が一般論として学生たちに言うのは、「自分の至福を追求しなさい」ということです。自分にとっての無上の喜びを見つけ、恐れずにそれについて行くことです。(…)

モイヤーズ:そう考えてくると、私たちは(…)世界を救う旅路ではなく、自分を救う旅に出かけるんですね。

キャンベル:しかし、そうすることであなたは世界を救うことになります。いきいきとした人間が世界に生気を与える。これには疑う余地がありません。生気のない世界は荒れ野です。人々は、物事を動かしたり、制度を変えたり、指導者を選んだり、そういうことで世界を救えると考えている。ノー、違うんです! 生きた世界ならば、どんな世界でもまっとうな世界です。必要なのは世界に生命をもたらすこと、そのためのただひとつの道は、自分自身にとっての生命のありかを見つけ、自分がいきいきと生きることです。


「懐かしい」というのは、私も昔、幾つかのニューエイジ思想に接していたからである。その一つは Osho、バグワン・シュリ・ラジニーシであった。Joseph Campbell の上の言葉は、Osho の言い回しをどれほど彷彿させることか!

Osho
福音書には「実を見て木を判断せよ」という言葉があるが、彼と彼の教団の堕落ぶりは、脱会した彼の弟子の一人が書いた「ラジニーシ・堕ちた神 --- 多国籍新宗教のバビロン」に詳しい。

しかし、結論的に言ってしまうが、これらは勿論、反キリストの勢力である。あるいはこう言おう。これらは勿論、反キリストの勢力をその源泉(幽現の別なく)に持つものである。

日本においても、そして欧米においてさえ、上のような言葉(Joseph Campbell の、あるいは同様の Osho の)は、大抵、善いもの、人間を励ますものとしか思われないが、しかしはっきり言う、彼、あるいは彼らは、False Prophet、あるいは False Teacher である。


Joseph Campbell や Osho などのそのような主張が間違っていることを、私達はどのように確信できるのだろうか。それは、カトリックで「聖人」と呼ばれている人達の生涯をよく調べることによって、である。私としてはそう申し上げたい。カトリックを信じていない人でも、それを調べることはできる。

彼らの生涯の中には、しばしば、神からの、聖母からの、あるいは天使からのとされる「示現」がある。そこには、それ自身が言うところの「天が人間に求めていること」が明示されている。

そして、それを読めば、それが本物(真理)であるか否かは一時脇に置いても、それが私達に求めている事とニューエイジ思想が私達に勧めている事が正反対であることが、はっきりと、且つ容易に「分かる」のである。つまり、それらの示現が、私達に、ニューエイジ的な「ハッピーな生き方」などは勧めても求めてもいないということが、はっきりと、容易に分かるのである。

それら示現は、聖人たちに、あるいは聖人たちを通して私達に、「祈れ。犠牲をせよ」と言い、時には「苦しみの価値」を強調する。そして勿論、福音書と声を揃え、「己れを捨て、己が十字架を取って主に倣え」と言う。
「自分の至福追求が一番! それをすれば全てがうまく行く」などという声は、そこには一切ない。
それ故、それら二つの思想、それら二つの道は、相容れない

だから、それら二つのどちらが「本物」であり「真理」であるかは別にしても、私達は次のように言うことができる。
A が本物であれば、B は本物ではない。B が真理であれば、A は真理ではない。
「その両者はただ "力点の置き方" が違っているに過ぎない」と言う人がいるならば、その人は目の見えない人である。

では、どちらが本物(真理)なのだろう。もちろん、この問いに「証明」や「証拠」はない。このような事柄は「探究」の分野であったり「恵み」の問題だったりする。けれども、もし私達がそれら聖人たちの生涯に「真理の輝き」を感じ、また天からのそのような声に「天からのもの」としての「真正さ」を感じることができるならば、従ってニューエイジ思想の偽(ニセ)なることをよく感じることができる、ということになるのである。

「示現」などというものはそれを受けたと称する者自身の無意識(潜在意識)の反映であり得る、と言うのだろうか。確かに。しかし、その疑問を解消するために役立つものが、一つある。それは、回心の恵みや超自然的な治癒等の「奇跡」である。
「声の真実さ」に「奇跡の真実さ」が伴えば、その出来事の真実さは私達の心の中で増大するだろう。そしてその時、私達は「真理の在処」を見つけるだろう。

私はまず、ルルド/ファチマをよくお調べになることをお勧めする。
【概要】 ルルド ファチマ

しかし、ちなみに嘆けば、この世の闇の部分に関して眼識のある小石泉牧師でさえ、ルルド/ファチマをよく調べない、よく見ない。
理由はもちろん色々あるのだろうが、一つは「ルルド/ファチマには聖母が出て来るから」なのではあるまいか。それで、そこでどんなに奇跡が起きようと、どんなに超自然的治癒が起きようと、検討しない、検討できない、検討したくない、検討する必要を感じない、ということになるのではあるまいか。
神の神秘力が働く場所には聖母マリアなどは「居てはならない」というわけであろうか。
おお、しかしそれら示現を虚心坦懐に読まれたし! 神は神秘である。そして人間は、神秘の前にはもう少し頭(ず)を低くしていなければならない。

2010年10月11日

トーリ・エイモス 5

トーリ・エイモスの事でも一応の結論を付けておく。簡単な事だ。


霊 流



トーリ・エイモスは、
「私は、エクスタシー旅行 の中で、
48時間、ルシファーとの熱い情事 の中に居た」
と言い、

片や鬼束ちひろは、
「(トーリの音楽は)
トリップ させてくれるから好き。
違う空間 に連れて行ってくれる」
と言っている。


何も起こらない方が不思議というものだ。


双方とも普通の「感動」ではなく「スピリチュアル」なものを意味している。
私は専門家ではないから言葉の正確なところは知らないけれど、とにかく、「霊的」、「心霊的」、その類のものだ。

この「トーリもうっとり(エクスタシー)、ちーちゃんもうっとり(安らぎ)」(と言うと何だか馬鹿にしたような言い方だが、そのつもりはない)の中で、何が起こっているか。

トーリが、その「エクスタシー」の中で、「ルシファー」なるものから、その霊魂に何を受けているか。

そしてちーちゃんが、その「トーリの音楽」から(それを経由して)、その「トリップ」の中で、自分の霊魂に何を受けているか。

私には明らかなように思われる。

ルシファーの召使いであるベンジャミン・クレームあたりに訊いてみたらいい。
彼は「伝導瞑想」と言い「オーバーシャドウ」と言う。
早い話、そこに伝わるものがある、その霊流というか、波動というか、その種のものに覆われる、包まれるということだ。

あって当り前だ。瞑想を通してではなく音楽を通してであっても、程度の差はあるかも知れないが、同様のこと、似たようなことが起こって当然だ。


「自分の事は自分が一番よく知ってる」というのは、本当か?

そして、ちーちゃん。
自分の事も人生も事もしばしば「よくわからない」と言うちーちゃんが、あるいは「わかろうとは特に思わない」と言うかも知れないちーちゃんが、こういう事に限って「わかる」ということはあり得ることか?

ちーちゃん、気をつけた方がいい。トーリの音楽からは離れた方がいい。

infection PV のことでは確かに私の考え過ぎがあったかも知れないけれど、この事はそれとは違ってずっと確度の高い事だ。

2010年10月7日

トーリ・エイモス 4

Good Fight Ministries の記事をもう一つご紹介する。前回の記事と同様、多くの人の目にはただ「キリスト教文化圏内の議論」としか見えないであろうようなものである。しかし、とにかく参考資料として出しておく。(トーリ・エイモスやキリスト教文化に関する参考資料というよりも、どちらかというと「人間の心の動き方」に関する参考資料として。)

内容は、前回紹介した Good Fight Ministries がトーリ・エイモスを expose(暴露)した記事に対して、ある一人のトーリファンが抗議の投稿をした、それに対して Good Fight Ministries が回答したものである。

今回も(そして、いつも)訳の正確さは保証しない。



トーリ・エイモスについての暴露記事の間違い

Good Fight の回答

やあ、ローラ、あなたの意見を聞かせてくれてありがとう。私は個人的には、各問題についての私達の立場をより詳細に説明する機会となるという意味で、私達のウェブサイトに対する反対意見を調べる機会というものを歓迎しています。下に掲げるのは、あなたのEメールとそれに対する私のレスポンスです。私は、ただ読み易さのために、あなたのコメントを「斜体字」にしました。

「こんにちは。私は、あなた方がおそらくこのメッセージを削除し無視することになるだろうとよく知っています。何故なら、私は、あなた方が今まで私のトーリファン仲間の何人かにそのようにしたことを知っているからです。彼らが礼儀正しく、親切で、ただトーリに関するあなた方の『暴露』の中にある間違いを単純に指摘しただけという事実にかかわらず、あなた方はゲストブックから彼らのメッセージを削除しました。それは、彼らがあなた方とあなた方の信条を共有しなかったというただそれだけの理由によるものです。」

私達は、あなた方のメッセージも、また誰のメッセージも、削除していません。事実、私達は、投稿された反対意見に対してさほど遠くない時に答えようと、ゲストブックの全ての投稿を集めています。このEメールの最後に、私達が今は表示されていないゲストブックの幾つかの投稿の問題に答えて近々投稿しようとしている公開書簡を添えます。まだ草稿段階なので、文法上のミスは許して下さい。

「けれど、私はまだ、何かをはっきりさせる必要を感じています。トーリ・エイモスに関するあなた方の『暴露』は、前後関係から切り離され、誤解され、あなた方自身のアジェンダに適合するようにねじ曲げられた引用でいっぱいです。私は、もし一人のトーリファンがあなた方のために幾つかの物事をはっきりさせたなら、あなた方はたぶんそれに感謝するだろうと思いました。では、始めます。

1. マリア・マグダレナ問題。それを示唆する非常に多くの証拠があります。つまり、そう、イエスとマリア・M が関係を持っていたということのです。大部分の神学者や聖書学者たち(クリスチャンかノンクリスチャンかを問わず)がこれを有効な理論として受け入れています。事実ではなく理論としてです。それは更にグノーシス派福音書によっても支持されています。もしあなた方が聖書の歴史について幾らかご存知なら、イエスの生活と時代に関する記述からしてグノーシス派福音書もあなた方が使っている福音書と同じほど有効なものであるということを理解するでしょう。これはそれほど冒涜的なことではありません。これはただ単純に考古学的な理論です。そこにはイエスの神性を掘り崩す何ものもなければ、また彼の神聖さを僅かにでも低める何ものもありません。」

「マリア・マグダレナ問題」は一つのもの(一つの問題)でさえありません。マリアとイエスの性的関係を裏づける証拠など全くもって何も無いのです。もし誰かがそんな理論を持っていたとしても、それは人間が猿から進化したとする理論と同じほど有効なだけです。もしあなたがそのような可能的見解に固執する幾らかの「神学者」を知っているとしても、それはただ、彼らが疑いもなく非常にリベラルで、聖書の不可謬性を堅持しないということです。「その見解を支持する証拠がある」と言うのでなしに、どうぞその証拠を提供して下さい。ユダヤの律法学的な (rabbinical) 書物を見れば、あなたはその中でイエスが「非嫡出子 (bastard)」として言及されていることに気づくでしょう。イエスはヨゼフとマリアの婚前交渉の結果として生まれた疑いがあると見られているからです。しかしこれは明らかに、聖書に基づけば真実ではありません。ですから人は、うろつき回るべきではないし、このようなナンセンスについて可能的有効性などというものを主張してもならないのです。イエスが性的関係を持っていたなどという「理論」についてもその通りです。

「2. あなた方は、キリスト教の暗い側面を露出させたいという彼女の願望について、トーリの言葉を完全に誤解しました。彼女はこれについて嘘を広めたいなどとは思っていません。それどころか、彼女は真実を言いたいのです。トーリが露出させたい暗い側面とは、十字軍に関する、宗教裁判に関する、魔女裁判に関するそれです。殺人も、レイプも、火炙りも、イエスが今も昔も決して支持しないことです。キリスト教の名において行われた、酷い、恐ろしい、恥知らずなこと。トーリはキリスト教とその信者に、歴史上のそれらの期間を認めて欲しいのです。そういうことです。彼女はただ、世界に、キリスト教の 2000年の歴史は悲しいことに「隣人を愛せよ」「汝、殺すなかれ」において欠けがあったということを理解して欲しいのです。あなた方は完全に彼女を誤解しました。彼女はキリスト教を破壊したいなどという望みを持っていません。彼女はただ、キリスト教の歴史が、その善の面も悪の面も両方、認識されることを望んでいるだけです。」

あなたの上の言葉は、引用されたトーリの言葉を正当化しません。このことは、彼女からの、彼女の歌詞からの、また同様に彼女が信じている事からの、他の多くの引用を調べることによって明らかです。どんなものであれ暴力行為や不信行為と真のキリスト教とを同一視するのは不合理です。非常にしばしば、人は十字軍、火炙り等々を指摘することをもってキリスト教を「暴露」します。しかし、これら全てがキリスト教であるというわけではありません。それらを為した人々は、明らかに人間のアジェンダを遂行していたのであって、「神の言葉」を堅持しようとしていたのではないのです。ですから、キリスト教に対するこの議論は短絡的です。真のキリスト教は神の言葉(聖書)を冒涜しません。神は偽善を作りません。逆らうことを選ぶ者達は責めを負うべきです。ひとつ、ご自分が一人の演説者だと想像してみて下さい。あなたは人々を愛すことや同情心を持つべきことなどのメッセージを広めます。しかしあなたのメッセージを聞いた一人の人が出て行って、誰かを殺したとします。そしてその人があなたの名によってこう言ったとします、彼または彼女が祈りの内にある時にあなたが彼らに話しかけたのだと、そしてあなたから「殺せ」というメッセージを受け取ったのだと。しかし、この種の行為は全て、あなたにとっては邪悪なものである筈です。ですから、私がこの者の行動をつかまえて「あなた方の暗い側面」とラベルを貼ったり、また、あなたのメッセージに心から同意した全ての人々に「暗い側面」とラベルを貼り、それをその人達の人生に適用したりすることに、いったいどれほどの意味があるというのでしょう? 答えはもちろん、それは全く無意味であるということです。

「3. 引用されたトーリの言葉、『なぜ人々はフェラチオされている神のことについて聞きたがらないのかしら? 私は、生まれ変わったクリスチャンならそれが好きなはずだと思ったのだけれど』は、トーリがわざと皮肉っぽく言ったのだと思います。彼女はジョークを言ったんです。真面目に言ったのではないんです。ジョークです。そもそも、彼女は彼女の歌のどこでも、フェラチオされている神について書いていません。」

それがジョークであったとしましょう。しかし、彼女はどこかで、それはただのジョークだったと明言しましたか? そして、たとえそれがジョークであったことの証拠があったとしても、それは邪(よこしま)なジョークでした。その口から噴出するこのような品の無さを持っていて、この女性はどのようにして「スピリチュアル」であることができるのでしょうか? 聖書は言っています・・・

マタイ 12:33-37
「木が良ければ実も良く、木が悪ければ実も悪いと、判断しなさい。木はその実によってわかるのである。まむしの子孫よ、悪者であるおまえたちが、どうして良いことを語ることができるだろうか。口が語ることは心からあふれ出たものだからである。良い人は、良い物を入れた倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い物を入れた倉から悪い物を取り出す。あなたがたに言っておく。裁きの日に、人は自分が語った無益なすべての言葉について、申し開きをしなければならない。あなたはあなたの言葉によって正しい者とされ、また、あなたの言葉によって罪のある者とされるのである。」

「4. たぶん、粗悪なジャーナリズムと意図的な編集の最高の好例は、あなた方が彼女の歌『Spark』について書いた箇所です。その中で彼女は歌います、『もし神のマスタープランが完全であるならば、たぶん次に、私はユダにトライするだろう (If the divine master plan is perfection, Maybe next I'll give Judas a try.)』。トーリは『ユダのようになりたい』とは言っていません。あなた方はまず、この歌が何についてのものであるかを理解しなければなりません。トーリは1996年の後半に流産で苦しみました。彼女は赤ちゃんを心待ちにしていて、それで、それを失った時打ちのめされたのです。彼女はその流産に関して自分に責任があると思いました。というのは、彼女は1996年のツアーの終り頃に妊娠したのですが、その頃あまり健康でなかったのです。彼女はそうあるべきほどには自分の健康に気を配りませんでした。彼女は多くのストレスの下にいたし、その上、正しく食べなかったのです。『Spark』は流産についてのものです。彼女がそのアルバム(『Spark』はアルバム『From the Choirgirl Hotel』に収められています)について語っている言葉を、どこかのウェブサイトで見て下さい、彼女がそれについて語っているのを見ることができるでしょう。ユダについてのトーリの歌詞は、イエスを裏切りたいとは言ってません。彼女は自分が赤ちゃんを裏切ったと感じているのです。トーリは彼女の音楽の中で、神話的であったり宗教的であったりする言い回しを沢山します。これはその好例です。もしあなた方が歌の全体を聞くか歌詞の他の部分を読むかすれば、あなた方には分かるでしょう。繰り返します、トーリはイエスを裏切りたくありません、ユダになりたいわけではないのです。トーリは赤ちゃんを失った後、自分がユダのように感じたのです。彼女はそのことで自分を責めたのです。そして自分が赤ちゃんを裏切ったと感じたのです。」

私は今に至るまで、トーリがその歌詞を否定するかはっきりと説明するかしたのを見たことも聞いたこともありません。しかしあなたは、それにもかかわらず確信なさっているようです。あなたは私達に、あなたの主張を裏づける証拠か記録を提供してくれることができるのですね? とにかく、彼女の歌詞は、聖書あるいはまた神に対する彼女の尊敬の無さを露(あらわ)にしています。もし彼女が神に対する何らかの敬意を持っているならば、そしてこれらの歌詞によって多くの人々が惑うと理解していたならば、何故この歌は今もってここにあるのですか? 何故彼女はそれを棚から引き抜いてしまうか、少なくとも公的な訂正を入れるかしていないのでしょうか? そこが考えるべきところです。

「5. あなた方はまた、トーリの言葉『私はルシファーと結婚したいと思いました。(…)私はルシファーが邪悪な力だとは思っていません。(…)私は彼の音楽と共に彼の存在を感じます。あたかも彼が来て私のピアノに坐っているかのように』についても誤解しています。私はあなた方がまた何時ものようにそれを編集したのだと思います。うーん。。とにかく、トーリはルシファーを邪悪な力だとは考えていません。彼女がルシファーについて語る時、彼女は彼に関するキリスト教の概念を使っていないのです。彼女は古い多神教の概念を使っています。つまり、ルシファーは光の神の一人である、キリスト教が借用し、自分達の必要に応じてねじ曲げたところの一人の神である、ということです。そして、私が前にも言ったように、トーリはしばしばからかい半分のユーモアを言います。そしてインタビュー記事を読む時には、彼女がジョークを言っていたとしても、読んだ人にはそれがなかなか分からないかも知れません。可能性としては、彼女はジョークを言っていたか、あるいは皮肉っぽく言っていたということです。」

あなたが何をしようとしているかに気づいて下さい! あなたは幾つかのことを正当化しようとしています。第一に、あなたはルシファーに関するある種の「多神教的 (異教的) な概念」についてのトーリの見解を受け入れてしまっています。次に、あなたは次のような見解を表明しているように見えます、すなわち、キリスト教は「間違い」である、それは聖書をねじ曲げた、など。最後に、あなたはこれら全てを「可能性」に基づかせています。あなたが「可能性としては、彼女はジョークを言っていたか、あるいは皮肉っぽく言っていたということです」と言ったようにです。今のあなたは、トーリの言っていること、またあるいはトーリの意味していることについて、どんな確かな考えがあるわけでもないのに、それでいて、この明らかに超自然的な諸力 ------- 御者(おんもの; the One)つまり真の神のものではあり得ない超自然的な諸力 ------- に影響されている一人の人を擁護するために、Eメールを書く時間を取っているのです。あなたが擁護しようとしているあらゆるものが神を否定しているというのにです。

「6. 私はまた、Eminem(訳註:別のシンガー)についてのあなた方の記事の中で、あなた方がどのようにトーリの言葉の一つにまつわりついているかを見て、怒っています。あなた方の立場を支持する言葉だって、トーリの言葉の中に探そうとしさえすれば何トンでも取れるだろうに、あなた方がそうしなかったとは何とおかしなことでしょう。実際、トーリは、彼女の次のアルバムで Eminem の歌 (97 Bonnie & Clyde) をカバーしようとするでしょう。その歌がどんなに人をうんざりさせるものかを証明しようとして、そうするのです。もしあなた方がトーリ・エイモスのウェブサイトの中を見回せば、あなた方はこの曲に関する彼女の言葉の幾つかと、その曲が彼女をどれほどゾッとさせたかを見出すでしょう。Eminem に関するあなた方の記事の他の部分は、トーリに関するあなた方の記事と同じくらい ------- もしそれ以上でなければ同じくらい ------- 馬鹿げたものでした。あなた方は皮肉を理解するようではありません。Eminem は彼の歌の半分ぐらいで皮肉を使います。私でさえそれを知っています。そして私は彼を軽蔑しています。」

トーリのことを正当化するためにあなたが頼りとすることのできるのは、彼女はただ本当に皮肉屋なのだという一事だけです。この種の偽装、あなたが騙されているようであるこの種の偽装は、ここ Good Fight Ministries に居る私達の悲しみとするところです。

「今この時点で私があなた方に言わなければならないことは、これで全てです。私は、あなた方がたぶんこれを無視し、私のことを一人のサタニストとして、祈りを必要とするトーリ・エイモスを愛する異教徒として片付けるだろうことを知っています。それで結構です。あなた方が私について考えたいと思うことを何でも考えて下さい。」

ローラ、あなたは無視されませんでした。私は、私にEメールアドレスを提供してくれる個人には、返答を返そうとのあらゆる試みをしています。しかしながら、その通りです、ローラ、あなたは祈りを必要としています。私はあなたに、まことと愛をもってこれを言います。もしあなたがキリスト教は間違いだという嘘を受け入れるならば、その時あなたは実質的にイエスを拒絶しているのです。イエスはあなたが生命を得るために死なれました。聖書は彼を受け入れる人々について、彼はそのような人々に神の子となる資格をお与えになった(ヨハネ 1:12)と言っています。しかし聖書は、救われるために表面的に「イエスを信じること」を言っているのではありません。聖書は「悪魔でさえ神を信じている」(ヤコブの手紙 2:19)と言っています。そしてその上で、悪魔たちは救われない、と明言しているのです。

「けれど、私はトーリ・エイモスについてのあなた方の記事に在るおよそあらゆる間違いを指摘できたと思います。もしあなた方が私を信ぜず、私の指摘を信用しなくても、あなた方がそれらを確かめることのできる多くのトーリ・エイモスのウェブサイトがあります。それでもあなた方があなた方のトーリ・エイモスについての記事を変えたくないならば、お好きなように。どうぞ、誤った情報を保って、人々をミスリードして下さい。けれど、率直に聞きますが・・・あなた方は本当に、イエス・キリストの名において、人々に誤った情報を流したいのですか?

ごきげんよう。
ローラ。」

あなたが提示してくれたものに基づいて言うなら、私はあなたの主張、あなたが私達のトーリ・エイモスについてのページに在る「およそあらゆる間違いを指摘できた」という主張に、強力に反対しなければなりません。しかしながら、もしあなたが同様に私に強力に反対するならば、どうぞあなたの主張を裏づける確かな証拠か記録を私達に提供して下さい。

ローラ、私達にEメールを書くための時間を取ってくれてありがとう。そして、あなたが率直で成熟した方法で自分を表現してくれたことにも感謝します。私がこう言うのは、私達に反対するEメールの多くが、全く下品で失礼なものであるからなのです。

あなたは私達の暴露ビデオ「They Sold Their Souls For Rock & Roll(彼らはロックンロールに自分の魂を売った)」をもう見ることができましたか? もしそうでないなら、そしてあなたがそれを見ることに興味があるなら、ただ私に郵送のための住所を教えて下さい。そうすれば、無料版をあなたに出荷するよう手配しておきます。

もう一度、ありがとう、ローラ。
Steve Aguilar
–Titus 1:9

2010年10月6日

トーリ・エイモス 3

その言葉

ロック音楽の中に潜むサタニックなものを追及し暴露し、世人、特に音楽を愛する若者達に警告を発する良い仕事をしている一団がある。アメリカのプロテスタントの(と思う)人達が運営している Good Fight Ministries である。下は、彼らがトーリ・エイモスについて書いている主要記事。

注) 私は自分の英語力に自信がない。細かいニュアンスが分からないところは想像で補っているようなところがある。だから、私の翻訳(の名に値しない)は常に「大要を掴めるだけのもの」と考えて頂きたい。




トーリ・エイモス

ビデオを見て下さい!


トーリ・エイモスは、キリスト教ばかりでなく彼女の造り主イエス・キリストをも馬鹿にする多くのことを言っている。彼女は次のようなことを言い、イエス・キリストを冒涜している。

「私は常にこう信じてきました。イエス・キリストはマリア・マグダレナ(マグダラのマリア)を実際に好きだったと。彼は彼女と性的な関係を持っていたに違いないと。私は、イエスとしたい、という考えで罪悪感を感じていたのかも知れません。」

(訳註: 同様趣旨の発言 参照1  参照2

トーリは、自分にはキリスト教に対する使命がある、と明言した。

「ええ、私にはまさに一つの使命があると思っています」とトーリは言った。「キリスト教の暗い面を暴くというね。」

(訳註: ビデオにもあったように、1998年における Rolling Stone 誌とのインタビューでの発言であるらしい。参照

しかし、トーリが暴くことの出来たキリスト教の暗い面 (dark side) とは、彼女が上記のイエスとマリア・マグダレナについてのような嘘によって、あるいは下記の彼女の音楽の幾つかについての彼女の言及に見られるような歪んだ冒涜によって、神の真理に余計な何かを付け加えたり、それをねじ曲げたりすることで、それに被らせようと試みてきたキリスト教の目の周りの打撲痕 (black eye) であるに過ぎない。

「なぜ人々はフェラチオされている神のことについて聞きたがらないのかしら。私は、ボーン・アゲイン・クリスチャンならそれが好きなはずだと思ったのだけれど。」

(訳注: 同上)

トーリは彼女の多くのファンを永遠の滅びに導いている非常に混乱した若い女性である。トーリは、彼女をその道徳的腐敗から救うために尊い御血を流し給うたキリストを拒絶している。彼女は彼女の歌「Spark」の中で、自分はむしろ裏切者イスカリオテのユダになりたい(それと立場を同じくしたい; would rather identify with) と言っている。

「もし神のマスタープランが完全であるなら、たぶん次に、私はユダにトライするだろう。(If the divine master plan is perfection, maybe next I'll give Judas a try.)」

(訳註: 歌詞

彼女はそのようにユダと同調した発言をしたばかりでなく、サタンとより親密な関係を持ちたいとの望みや、サタンが彼女の音楽とその一時的な成功に力を与えたことなどを認めている。

「私はルシファーと結婚したいと思いました。私はルシファーが邪悪な力だとは思っていません。私は彼の音楽と共に彼の存在を感じます。あたかも彼が来て私のピアノに坐っているかのように。」

(訳註: ビデオにもあったように、1996年における Spin 誌とのインタビューでの発言であるらしい。参照

私達はトーリの音楽から離れていなければならない。そして、彼女の霊魂のために、神が彼女に悔悛の恵みを与えて下さるように祈らなければならない。トーリが悔悛することはありそうもないとしても、イエスはユダにさえ、彼が自殺する前に悔悛する機会をお与えになった。しかし、それには遅過ぎ、彼は地獄の「彼自身の場所(自分の行くべき所)」(使徒行録 1:25)に行ったのである。イエスは「滅びの子」としてのユダに言及され、その人はむしろ生まれなかった方が良かったであろうと明言なさった(マタイ 26:24)。ユダにとって、それはなんと痛ましい永遠の遺産であることか。そしてトーリの場合も、もし彼女がイエス・キリストの方を振り向いて己が罪を悔悟することを拒絶するならば、同様となるであろう。これはまた、トーリ・エイモスによって騙され、ユダの足跡に従うことを選び、彼らの罪のための代償の内に死に給うた人(イエス・キリスト)を拒絶する全ての人にとっても、同じ墓碑銘となるであろう。あなたは選択する。あなたは、イエス・キリストを受け入れ、彼があなたのためにあなたが受けるべきであった罰をあなたに代って十字架上で受け給うた代償を受け入れることもできるし、あるいは、決して渇きの癒されることのない、昼夜を問わず永遠に安息することのない場所である火の湖で、永遠に、永遠に苦悩するという天罰を自分で支払うこともできる。もしキリストの方に振り向くことを拒絶するなら、あなたは永遠に亘って呻吟するであろう。そしてその時、あなたは自分自身の他、その責任を帰すべき何ものも持たないであろう。レッド・ツェッペリンの歌のように -------「それは誰の罪でもない、俺の罪なのさ」(訳註: Nobody's Fault But Mine - 歌詞)。

親愛なる読者の皆さん。私達の真剣な望みと熱い祈りは、あなたが主イエス・キリストの愛を受け入れ、彼の幸いな王国で永遠の生命を楽しむことです。

--- END ---




さて、冒頭のビデオをご覧になった方なら、トーリもまたあの「不思議な目隠し」(私は付け加えておいた)をしていることに気づいたでしょう。


infection の PV の時(の先入観)と同じように、「これは当然、曲の内容と関係があるのだろう」と考えますか?


次は spinner というサイトにおけるインタビュー記事(ココ、あるいはそのコピーがココにある)から。トーリはこんなことを言っている。

* ちなみに、文中の「Father Lucifer」とは彼女の曲のことである!

私のお気に入りの思い出、この事をお話したら失礼します。私の父のことですが、彼が Father Lucifer を聴いたのは、彼が教会から帰って来てからのことでした。彼はフォークを下ろして ------- テーブルの周りには皆が居ましたが ------- こう言ったのです、「トーリ・エレン、私は、君が私に関するこれをどのようにして書くことができたのか分からないよ。どうやってそれができたんだね?」。私は言いました、「何のこと?」。彼は言いました、「Father Lucifer のことだよ」。私は言いました、「ワォ、お父さん、なんてこと。違うのよ。私がハワイに居た時のことよ。私はそこでエクスタシー旅行 (ecstasy journey) の中に居て、ホノルルのノースショアの浜辺で、48時間のルシファーとの熱い情事 (a torrid love affair with Lucifer for 48 hours) を経験したってことなの」。そしたら、父が言いました、「そうか、イエスを誉め称えよ! 私は今、とても良い気分だよ。そうか、良かった。ホッとしたよ」。

お父さんという人もどうかしているとみえる

【訂正】

2010年11月8日

上の文章で、「Well, praise Jesus! I feel so much better now.」、これを文字通りに受け取ってしまい、「そうか、イエスを誉め称えよ! 私は今、とても良い気分だよ」などと訳してしまったが、上のように訂正した。

「Praise Jesus!」というのは「Oh, my God!」と同じく慣用句なのではないか、と思いついたのである。きっとそうだろう。娘からルシファーのように思われているのではないかと心配していた父親が真実を知ってホッとした、という構図だろう。
英語に詳しくないのに訳すからこうなる。ああ、恥ずかしい。まだ確かなことは分からないが、一応訂正しておく。

また、トーリの父親はメソジストの牧師だった人だが、私は別の記事で知ったのだが、彼は自分の娘が「ルシファー」について肯定的に歌ったりグノーシス主義に傾倒していたりすることで、心を痛めていたらしい。また、まっとうなメソジストの牧師なら当然だが、娘の勧めにもかかわらず、グノーシス派聖書を手に取ろうとはしなかったらしい。現在もそうだろう。
なので、「どうかしている」というのは私の誤解でした。取り消すと共に、トーリのお父さんにお詫びします。

トーリと父親 Edison Amos
1998年2月22日、彼は娘への愛のため、おそらくは異教的であるだろう娘の結婚式に出席した。いつの日か、彼の悲しみが癒されますように。

私が英語力に自信がないことは既に白状した。上の訳には問題があるかも知れない。けれど、トーリが「私はかつて、或る時、エクスタシー旅行の中で、ルシファーとの48時間の熱い情事の中に居た」と認めたということは、私の英語力の危うさに関わらず、確かだろう。

2010年10月4日

トーリ・エイモス 2

そのパフォーマンス

今回の表示は殊の外ひどいです。
吐かないようにして下さい。


God (1994年) *音は抜いてある


ここに見られるのは、男と女、人間と動物、清浄と汚穢など、異質なものの間のあらゆる差別を取り払おうとする態度であって、サタニズム特有のものである。彼女はキリスト教会(に模したもの)の中に蛇(サタンの象徴)を持ち込み、多人数でそれを持ち上げながら狂乱している。


脱線するが、それはたとえばこうである。
ニューヨークに聖ヨハネ大聖堂という米国聖公会のカテドラルにして或るオカルト組織の本部がある(詳細)。その教会の公園にはいろいろなレリーフが飾られているらしいのだが、その中の一つがこれだというのである。


Pitiful creature of God, used to deprive us of Eden and God's favor. Your name warns us of evil people. But God made you and God loves you. Creature of God. The snake.
(私達からエデンの園と神の寵愛を奪うために使われた憐れな生き物。あなたの名は邪悪な人々を喩えるために使われる。しかしあなたは神に作られ、神はあなたを愛している。神の被造物。蛇。)

何事にも一理ぐらいはある。けれど、これはキリスト教会にはひどく不釣り合いなものである。というか、やはり明白なサタニズム、その表明であろう。(もっとも、訊かれれば言い訳は幾らでも立つのであるが。)


もう一つ脱線。あるエクソシズムで、悪霊に憑依された女性が叫んだこと。

「現実は非現実があって現実なのよ。清浄は不浄があって清浄なんだし、充満は空虚があって充満なのよ。芳香は悪臭あっての芳香、神聖は冒涜あっての神聖ということだわ。」

(マラカイ・マーチン著「悪魔の人質」より)

「だから俺達にも居らせろ! 居る権利がある!」と叫ぶものがあるのである。



そしてトーリは、

花とネズミを愛し、

蛇を持ち上げ、

豚に授乳する。


Glory of the 80's (1999年) *音は抜いてある


サタニスト以外の何だというのか。





これは、昔レイプされた時の直後の絶望的な気持ち(死にたかった気持ち)をこのように表現したのだそうである。


これもそのたぐいか。




しかし、死と悲惨に「倒錯する」のは良くない。


もちろん特に酷い例を挙げたのである。
病巣を見るのに公平さは要らないから。


酷い表示をして申し訳ない。
しかし、これでも私は気持ち悪いと思っているのである。
実際に吐き気がしている。

しかし、問題は、
鬼束はこの人のことを気持ち悪いと思っていない
ということである。

上のようなものもはそんなに数多いものではないし、
それにどのみち「表現」なのだ、と、
それぐらいにしか思っていないのだろう。

そうであってこそ、
自分も「X」みたいなものを作れるのである。

(「芸術の使命」を読んで下さい。)

そして、この人の音楽で「トリップ」し、
「違う空間」に行っているのである。

トーリ・エイモス 1

公然たるルシファー崇拝者

私は鬼束のことで、「憑霊」という、普通なら大変に失礼な言葉を出した。
普通なら大変失礼であるにもかかわらずそれを出したのは、それが重大事であって、しかも私には彼女が憑霊されているとの確信めいたものがあったからだ。

(霊的なことを信じる人自体が少ないけれども、彼女のこれに気づく人が多いほど良いと思う。そして鬼束自身も何とか、気づいた人を通じてでも、自分でもそれに気づかないかと思うのである。)

どういうところで確信めいたものを持ったかというと、もちろん第一は最近の彼女の顔貌である。そして次に、彼女の発言、行動。

しかし、彼女の周辺を調べるうち、私はもう一つの事に突き当たった。そしてますます、「これは憑霊されない方がおかしい」と思ったのである。


鬼束のフェイバリット・シンガーの一人に、トーリ・エイモス (Tori Amos) という人がいる。アメリカの女性シンガーである。


(同じ人である)

これが、なんと、公然たるルシファー崇拝者なのである。

嗚呼、鬼束は「霊的な体質」は持っているが、「霊的な判別」を持っていない。
本当に、これくらいのことが分からなくてどうするんだと思う。


インタビュー記事から、この人についての鬼束の言葉を見てみよう。

barf:休み中って、何してたの?
鬼束:マンガ読んでた。本屋よく通って。音楽も聴いてた。トーリ・エイモスとか。それくらいかな。あと、嵐を聴いてましたね(笑)。
(『BARFOUT!』2007年11月号)
http://tod.cocolog-nifty.com/diary/2009/11/barfout200711-5.html

最後に彼女自身が聴いて安らぐ音楽についてたずねると、トーリ・エイモスの名を挙げた。「トリップさせてくれるから好き。違う空間に連れて行ってくれる」。では自分の音楽もそうありたいかと聞くと、「それはある。でも、まだまだ彼女のようになるにはほど遠い」と彼女は言った。
http://shop.tsutaya.co.jp/cd/product/4988005481696/

彼女がトーリをリスペクトしているのが分かる。
それともう一つ、「トリップ」とか「違う空間」とかの言葉遣いである。
これは普通の「感動」とは少し違う。


上の彼女の言葉だけで十分だが、ついでに言うと、私は調べるうち、鬼束側の表現とトーリ側の表現との間に次のような類似を見出した。


Onitsuka - King of Solitude

Tori Amos - Strange Little Girl


Onitsuka - DOROTHY

Tori Amos - Crucify

また、言葉の方で言うと、鬼束の infection の中に「この舌に雑草が増えて行く」というのがあるが、トーリの曲に「Cloud on my Tongue」というのがある。

まあ、偶然かも知れないが。


鬼束のフェイバリット・ソングの一つは「Smells Like Teen Spirit」というものであるらしい。



アメリカのニルヴァーナというロックバンドの曲であるというが、トーリ・エイモスもカバーしている。鬼束は彼女の歌によってこの曲を知り、好きになったのではないか。(暗い歌で、作曲をしたニルヴァーナのフロントマンはサタニストであり --- 参照 --- 、ショットガンで自殺している。)


鬼束のフェイバリット・シンガーが一人や二人でないのは勿論である。
しかし、このトーリ・エイモスという人が彼女にとって中でも少し特別な人であることは、彼女の言葉によって確かだろうと思う。

次のページからトーリ・エイモスという人のことを調べる。
最初に、彼女の表現、パフォーマンスを、動画と写真でざっと見る。酷いものばかりを集めた。病巣を見るのに公平さは要らないからだ。
そして次に、彼女の発言、言葉を見ていく。