16.フリーメイソンはノアも好きである
「おまけ」である。あまり読むに値しない。
フリーメイソンが「ノアが好き」な様を、絵でざっと見て頂く。
以下は、フリーメイソンのサプライショップが販売しているものである。
(画像はリンクされている)
以下は、フリーメイソンのサプライショップが販売しているものである。
(画像はリンクされている)
「いにしえの棟梁ノアのレインボー記章」といったところか。
三角の中の N はもちろんノアの N である。
三角の中の N はもちろんノアの N である。
「Royal Ark Mariner、大棟梁ノアのエプロン」か。
「Royal Ark Mariner、讃うべき棟梁ノアのエプロン」か。
このように、彼らはノアを高く持ち上げているのである。
(もちろん、彼ら独自の文脈のもとに。)
(もちろん、彼ら独自の文脈のもとに。)
*
しかし、私はもう少し神経を使わなければならないかも知れない。というのは、上に挙げた記章とエプロンは、フリーメイソンの中の Royal Ark Mariners というグループ(ある種の位階のようだが)のものだからである。だから読者の中には「そのグループはフリーメイソンの中でも特殊なものなのではないか。これだけでは “フリーメイソン一般” がノアを特別視しているとは言えないのではないか」と思う人も居るかも知れない。
しかし、違うのである。“フリーメイソン一般” がノアを特別視しているのである。確かに、自分達のメダルや旗に「ノア印」を付けるという、そこまでの事をしているのは、幾つかのグループに限られるようだけれども。
フリーメイソン一般がノアを特別視していることを、語学の堪能でない私が彼らの原文を引きつつ説明するのは、あまり簡単ではない。それに、私はあまり彼らの思想に深くアクセスしたくない。シグナルを拾うことぐらいしかしたくない。(彼らについての本を読むことはあるが、それはいつも「拾い読み」程度である。)
しかし、例えば、検索していると、「Noah's Ark Lodge」という言葉にしばしば出会う。
また、フリーメーソン・スコティッシュ・ライトの第21階級は「Noachite, or Prussian Knight」と呼ばれているが、Noachite は「ノアの末裔」と訳されている。
つまり「熟練建築家としてのノア」である。
私が知るところ、彼らの考え方はおおよそ次のようなものである。
1.
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「ノアの方舟」 は半端な船ではない。偉大な建造物である。形状
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2.
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それ故、それは石ではなく木で出来ているけれども(ノアは「石工」ではないかも知れないけれども)、ノアが偉大な建築家であることには変りはない。
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3.
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彼がどうしてそれほど偉大であり得たかと云えば、彼がカバラ等のの奥義に通じていたからだ。
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つまり、「ノアはフリーメイソンだった」と、彼らは言うのである。
自分達の「偉大な先輩」の一人だったと。
自分達の「偉大な先輩」の一人だったと。
もちろん、彼らが「ノアはフリーメイソンだ」と言う時、1717年だかに結成されたという所謂「近代フリーメイソン」とは別のものを言っている。また、「近代フリーメイソン(思弁的フリーメイソン)」の前の「実践的フリーメイソン」、つまり石工職人とも違う。彼らの主張によれば「古代フリーメイソン」というのがあるのだそうである。何千年も前からカバラなどの秘儀を研究し、実践し、今に伝えた人々が。
*
そういうことなのである。(不十分だったかも知れないが。)
つまり、彼らも、聖書中の事柄、人物などを、ある種の仕方で「嫌いではない」ことがあるのである。ただし、それはあくまで彼ら独自の文脈においてであるので、私達は決して喜ぶことはできないし気を許すこともできない。
つまり、彼らも、聖書中の事柄、人物などを、ある種の仕方で「嫌いではない」ことがあるのである。ただし、それはあくまで彼ら独自の文脈においてであるので、私達は決して喜ぶことはできないし気を許すこともできない。
おまけ、終り。
ひとこと
最近の中国との衝突にしても、
これなのでは?
これなのでは?
私達の戦争理解
イノセントな人達は (1)「戦争とは国と国と間のもの」と考える。
解析家達は (2)「戦争とは国を超えた或る者らが仕組むもの」と考える。
勿論、後者の方が遙かに正しい。
解析家達は (2)「戦争とは国を超えた或る者らが仕組むもの」と考える。
勿論、後者の方が遙かに正しい。
しかし、そこに留まっていたのでは、まだ十分ではない。
(3)「戦争は人間の罪に対する懲罰である」
(3)「戦争は人間の罪に対する懲罰である」
しかし、地上の解析家達には「人類には懲罰される如何なるものもない」ぐらいにしか思えないので、結果、例えば「ノアの方舟」に関しても、それから、黙示録が警告する「終末」に関しても、「流用されたもの」と「本来的なもの」とを混同するのである。
地上の解析家達は、いまだ傲慢だし、いまだ真の疑問を*得ていないし、それから、いまだ単純である(失礼な言い方だけれど)。
*「解答を」ではなく。
疑問を得ていないのだから解答を得られる筈がない。
疑問を得ていないのだから解答を得られる筈がない。
彼らの目には、世の「信仰家」と呼ばれる人々こそ単純に見えるのだが、本当のところ、そうでもない。
しかし、これについて書くとあまりに長くなりそうなので、やめておく。
彼らの「頑なな目」にも神の恵みのあらんことを。
彼らの「頑なな目」にも神の恵みのあらんことを。
*
そして、私達信仰家にとっては、これである。
「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れることはない。
むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできるお方を恐れなさい。」
マタイ 10:28
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