10.必要な目
大阪梅田教会について再開する。
それなりに重要な事に気づいたと思うので。
表題が偉そうで申し訳ない。
しかし、次の頁に進む前に、あなたの目に働きかけておきたい。 |
あなたに二つのものを紹介したい。
一つはこれである。
ご存知「契約の箱」のレプリカである。
クリスチャンであるあなたにお伺いしたい。これをこれ自体として見た時、あなたはこれに好感を持ちますか、持ちませんか。
クリスチャンはユダヤ教徒ではない。クリスチャンにとって契約の箱は救われのために必須のものではない。けれども、これは確かに、かつては*天主様の御栄光が宿っていたものではないだろうか。
私は、クリスチャンの中には、基本的にこれに好意を持つ人が多いのではないかと思う。はっきりとした悪感情まで持つ人は皆無ではないか、居たとしてもごく僅かではないかと。(嫌わなければならない理由があるだろうか?)
まあ、人の考え方はそれぞれだけれど、一応、
「クリスチャンの多くが、基本的には、契約の箱に好意的であろう」
これを私の一つの仮説とする。
「クリスチャンの多くが、基本的には、契約の箱に好意的であろう」
これを私の一つの仮説とする。
*
あなたに紹介したいもう一つは、これである。
これは一つの「玉座(throne)」である。
背もたれには所謂「黄金の子牛(Golden Calf)」を思わせるものがある。
背もたれには所謂「黄金の子牛(Golden Calf)」を思わせるものがある。
手すりは有翼のライオンのようであり、階段には猫のようである。
背もたれの牛の頭は実は金色ではなく白のようだけれども、それでも全体として明らかに異教的なものである。というか、ここははっきりと「悪魔的」と言っておくべきだろう。
従って、
「クリスチャンであれば、誰も、この玉座を『善い』と言わないであろう」
これを「仮説」と言うことはできない。そうですよね。
「クリスチャンであれば、誰も、この玉座を『善い』と言わないであろう」
これを「仮説」と言うことはできない。そうですよね。
*
しかし、以上紹介した二つは、実は同じ建物の中にあるのである。
この中に。
これは George Washington Masonic National Memorial という。ジョージ・ワシントンを顕彰するためにフリーメイソンが建てたものである。首都ワシントンD.C. からさほど遠くない、バージニア州アレクサンドリアに在る。単に記念碑的な建物というだけでなく、ロッジとしても使われているようだ(Alexandria-Washington Lodge No. 22)。
紹介した二つは、いずれも最上階にあるようである。
契約の箱のレプリカは Royal Arch Room に。
玉座のレプリカは Tall Cedars of Lebanon Room に。
契約の箱のレプリカは Royal Arch Room に。
玉座のレプリカは Tall Cedars of Lebanon Room に。
ちなみに、「Tall Cedars of Lebanon(高いレバノン杉)」というのは、フリーメイソンにとっての一つの重要な象徴であると同時に、マスターメイソン(親方)だけが入会できる会の名前でもあるようだ(Wikipedia-en)。その部屋はその会によって管理されているようである。
玉座の方は彼らによって「ソロモン王の玉座(King Solomon's Throne)」と呼ばれているようだ。ソロモンが実際にこのような玉座を持っていたかどうかは別にして、彼が異教に「かぶれた」ことは旧約聖書に書かれている。
列王の書 上 (バルバロ訳)
第11章 サロモン王は、おおくの異国人の女、モアブ人、アムモン人、エドム人、シドン人、ヘト人の女を愛した。つまり、主がかつて、イスラエルの子らにむかって、「あなたたちは、かの女(じょ)たちのところへはいってはいけないし、かの女たちも、あなたたちのところへきてはいけない。そうでなければ、〔かの女たちは〕あなたたちの心をまどわして、自分たちの神々に仕えさせるであろう」とおおせられたのに、サロモンは、この民々に属する女たちを強く愛したのであった。かれには、妻の位置にある七百人の妃たちと、三百人のそば女(め)とがいた。サロモンの女たちは、かれの心をまどわした。
さて、サロモンが年をとったとき、かの女たちは、かれの心をいざなって、異国の神々に仕えさせたので、かれの心は、もはや父ダヴィドの心のように、ただ神である主にのみ忠実なものではなかった。こうしてサロモンは、シドン人のアスタルテ女神(めがみ)と、アムモン人の恥ミルコムに仕え、主のみまえにいまわしいことをし、父ダヴィドのようには、主に忠実を守らなかった。そのころサロモンは、イエルザレムに面した山の頂(いただき)に、モアブの恥ケモシュと、アムモンの子らの恥モロクのために、それぞれの高台(たかだい)をつくった。異国生まれのすべての妻たちのためにも、おなじようなことをした。かの女たちは、それぞれの偶像に、香といけにえとを捧げていた。
けれども、主のおんいきどおりは、サロモンにたいしてもえあがった。
さて、サロモンが年をとったとき、かの女たちは、かれの心をいざなって、異国の神々に仕えさせたので、かれの心は、もはや父ダヴィドの心のように、ただ神である主にのみ忠実なものではなかった。こうしてサロモンは、シドン人のアスタルテ女神(めがみ)と、アムモン人の恥ミルコムに仕え、主のみまえにいまわしいことをし、父ダヴィドのようには、主に忠実を守らなかった。そのころサロモンは、イエルザレムに面した山の頂(いただき)に、モアブの恥ケモシュと、アムモンの子らの恥モロクのために、それぞれの高台(たかだい)をつくった。異国生まれのすべての妻たちのためにも、おなじようなことをした。かの女たちは、それぞれの偶像に、香といけにえとを捧げていた。
けれども、主のおんいきどおりは、サロモンにたいしてもえあがった。
*
しかし、そのような詳細は、さして重要ではない。
私は要するに、「同じ一つの建物の中に『善いもの』と『悪いもの』とが同居している、混在している」、この構図を皆さんに見せたいのである。
私は要するに、「同じ一つの建物の中に『善いもの』と『悪いもの』とが同居している、混在している」、この構図を皆さんに見せたいのである。
つまり、
或る一つの建物の中に「善いもの」(善く見えるもの)があるからといって、それだけで安心することはできない。
「善いもの」の方に視線を取られたあなたは、つい全体までも「善い」と思ってしまうかも知れない。しかし、そうであってはならない。そうであってはならない「場合」がある。
「善いもの」があっても、その横に「全く悪いもの」があるなら、全体は「全く悪い」。そのような「場合」がある。
...ということを、偉そうに言えば、覚えておいてもらいたいのである。
偉そう序でにもう一つ言わせてもらえば、このようなことを覚えたあなたの「目」は、一つ “鍛えられた” ことになる。と思う。
このことは、次からの話に関係する。願わくは、忘れないで頂きたい。
(大した事にも思われない事を、私がこのように大ゲサに言うのは、この世には、気づきにくい「偽装」があるからです。)
(大した事にも思われない事を、私がこのように大ゲサに言うのは、この世には、気づきにくい「偽装」があるからです。)
以下は「欄外」のものと思って頂きたい。
私にとっても主要なものではない。
私にとっても主要なものではない。
1
怒られるかも知れないけれど、私にはどうしても上の玉座で思い出さずにはおれないものがある。目黒教会。
2
もう一つ、「混在」の小さな例を挙げておく。
W・カーク・マクナルティによれば、これは19世紀初めにイギリスの捕虜になったフリーメイソン結社員であるフランス兵が作ったブローチということである。
W・カーク・マクナルティによれば、これは19世紀初めにイギリスの捕虜になったフリーメイソン結社員であるフランス兵が作ったブローチということである。
まあ、「個人的」な作品かも知れない。しかし、ともかく、ここにはフリーメイソン結社員が作った工芸品の中における「キリスト教的」にも見えるモチーフと「完全にフリーメイソンのもの」であるモチーフの「混在」が見られる。
ここまで連想すると、行き過ぎか(参照)。しかし、もし天主の敵が天主の教会を乱そうとするならば、必ずや、その聖堂を、特にその祭壇の場所を乱そうとするだろう。そこは信者の信仰の目が向けられる場所である。彼らはそこに一つの偽装を置くだろう。「キリスト教的」に見せかけてはいるが、実のところ彼らに属するもの、その象徴なり構成なりを置くだろう。何も知らぬ信者達がその場所に敬虔なる視線を注ぐのを見て、彼らは愉快がるだろう。私達はその確実な例を知っている。大阪梅田教会である。そして私は、これは「確実」とまでは言えないが、目黒教会と聖トマス大学のチャペルに関しても疑うのである。