2012年3月10日

検証?  洞察?  識別?  (1)

私の駄目な霊魂も、彼の霊魂も、多くの人の霊魂が、救われますように。
けれど、やはりここでは、私はいつもの「冷酷」な「指摘口調」を採ろう。
「直言」させて頂こう。
「個人攻撃」のように見られるかも知れない。
しかし、彼も「表現者」である。
ある程度「責任」ある「発信者」「流布者」である。
* * *
2月27日、「マシュー君」 は悪霊である 3 をアップした。
同日、それをアップしたことを飄平さんにお伝えした。
飄平さんはその私のコメントを表示して下さった。参照
3月6日、飄平さんは新しいマシュー君に関する記事をアップなさった。参照
私は、前回のコメントで「あとは、飄平さんの人生は飄平さんの人生だから、飄平さんにお任せします」と書いたことをつい失念*し、再び次のように投稿した。
(*激昂して「われを忘れた」わけではない。ただ、やはり明確にさせて頂きたかった。)
私は先日お知らせした私のブログの記事に次のように追記しました。
「私は、ほかの誰でもない飄平さんにお知らせしたのである。アポロの月面着陸を信じている人には知らせない。飄平さんは、完全にかどうかは知らぬが、ほぼ、アポロの月面着陸は捏造であると考えている人である。だから、お知らせしたのである。飄平さんは、今のままでは、一方ではアポロの月面着陸を否定し、他方ではアポロの月面着陸を肯定するマシュー君を肯定する、ということになる。飄平さんは物事の『整合性』というものをお気になさらなければならない。」
 http://to-chihiro.blogspot.com/2012/02/3.html
飄平さん、出来得れば(強制できるものではありません)、これに対する飄平さんの現時点における態度表明をお願いします。
投稿 JG | 2012-03-06 20:35
形としては、私は飄平さんに「迫り」「詰問」した。
しかしそれは、傲慢気味に言えば、そして正直に言えば、飄平さんがご自分の目を見直されることを望んだからである。すなわち、私は他者の外的行動を自分の圧力で左右したいとは思わない。今後飄平さんがマシュー君のメッセージを流布し続けるも続けないも飄平さんの自由である。私が関心があるのはあくまで「内面」である。(外的行動はその「結果」に過ぎない。)
上の私のコメントから、飄平さんとの若干の新たなやり取りがあった。
以下、私は飄平さんのコメントを丸ごと転載することは差し控えるが、そのやり取りは同じ記事のコメント欄参照に読むことができる。
私が飄平さんに提示したのは、こうである。
  1. 飄平さんは、完全にかどうかは知らぬが、ほぼ、アポロの月面着陸は捏造であると考えている人である。
  2. 飄平さんは、今のままでは、一方ではアポロの月面着陸を否定し、他方ではアポロの月面着陸を肯定するマシュー君を肯定する、ということになる。ここのところの「整合性」はどうなるのか。
1 に関して、飄平さんは初め「(自分は)アポロ11号の月面着陸はなかった、と限定して断定している」とお答えになった。後で分かったことには、飄平さんは「アポロ11号の月面着陸」という言葉でアポロ11号のみでなく「アポロ計画における月面着陸の全部」を意味していたのだが。
ならば、私の飄平さんに関する想像(1)はそう間違っていなかったわけで、飄平さんは特に「〜〜と限定して」という言い回しで返答なさる必要は無かったように思われる。「おっしゃる通り、私はアポロの月面着陸を否定しています」と言えば済んだように思われる。
しかし、私は後から徐々に理解したのだが、彼には彼として「〜〜と限定して」という言い方をしたくなる理由があるようであった。彼はアポロの問題とは別に「宇宙旅行の可能性」一般について話した。そして、おそらく彼は「アポロ計画以外の成功したが秘匿された月面着陸」というものがあった可能性をも、心のどこかに置いているようであった。だから、それ故「〜〜と限定して」と言いたくなるようであった。
しかし、それにしても、それは「会話の線」から外れたことだった。私はそんなことは訊いていなかった。
私とて、相手に自分の期待したような答えを強要するほど暴君ではない。しかし、それにしてもそれは「会話」である。言葉と意思のキャッチボールである筈のものである。私は、飄平さんがあまりに私の問いの線から外れたような返答の仕方をなさるので、非常に奇妙な思いがした。(やがて二回目の返答を頂く時にも同じ思いを味わうことになる。)
そんなわけで、私は次のように返した。
飄平さん、お返事ありがとうございます。しかし、私の狭いフォーカスにとっては、飄平さんのご回答のなさり方は少々広過ぎるように感じました。私の関心はマシュー君とスザンヌさんの「その会話」の上にのみあります。
その会話において彼らは、「条件が変わった時に可能になるであろう宇宙旅行」のことを話しているのでも、「隠されているかも知れない他の月面着陸」のことを話しているのでも、「宇宙人」や「宇宙船」について話しているのでも、「近未来に完成するはずの技術」について話しているのでもありません。
スザンヌさんが「あれらの月面着陸(those landings)」と言った時、それは当然、人々が知っている、スザンヌさんも知っている、「アポロ計画における6回の月面着陸」のことを指していました。従って、それを受けてマシュー君が「本物と偽物の両方の着陸がありました」と答えた時、それは「アポロ計画における6回の月面着陸のうち、幾つかは本物で、幾つかは偽物でした」という意味です。
そして次に、アポロ計画における6回の成功した月面着陸と言われているものとは、1969年の2回、1971年の2回、1972年の2回です。マシュー君は、このごく短い期間内のことについて言ったのです。
以上が、彼ら二人のその会話に対する自然な解釈、自然な言語解釈です。もし誰かが「マシュー君はその回答の中に『隠されている成功した月面着陸』のことまで暗に含めていたのかも知れない」と解釈/想像するならば、その人は不自然且つ不必要なことをしていると言われるべきです。(この会話の問題を離れてそのようなことを想像するのは構わないとしても。)
さて、これを飄平さんに対する最後の質問とさせて頂きます。
飄平さんは「1969年のアポロ11号の月面着陸はなかった」と限定的に断定するそうですが、では、飄平さんはマシュー君と同じように、それから僅か4年後の最後の17号までに幾つかの本当の月面着陸の成功があった、とお考えですか? マシュー君はそういうことを言っているわけですが。(もう一度言いますが、マシュー君はアポロ11号、12号、14号、15号、16号、17号のことを言っているのです。)
この質問に飄平さんが「ええ、その可能性も全面否定はできません」とお答えになるならば、私にはこれ以上申し上げる事はありません。
煩わせて申し訳ありません。ご回答は短くて結構です。
(この私のコメントは同じページのココに読むことができる)
この私の問いに対する飄平さんの返答によって、私はやっと飄平さんが「アポロ11号」という言葉で「アポロの月面着陸の全部」を意味していたことに気づいたのである。彼は言った、「アポロ11号~17号は、言わばショーだと考えています。(…)アポロ11号~17号は、単なるショーだと考えています」。
しかし、またもやである、またもや彼はその後に、「オルターナティブ・テクノロジー」「反重力」「地下トンネル」などについての持論を語った。
私が提示した「マシュー君はその会話の中で『アポロ計画における6回の月面着陸のうち、幾つかは本物で、幾つかは偽物だった』と言ったのだ」ということに関しては少しも触れない。反論もしない。マシュー君擁護を試みもしない。
が、私はこれも後から理解したのだが、彼は「オルターナティブ・テクノロジー」「反重力」「地下トンネル」などに触れることによってマシュー君のメッセージのある程度信ずべきことを間接的に言っていたのだろう。マシュー君はそのような事柄について何か言っているのだろう。結局彼はマシュー君を間接的に擁護していたのかも知れない。
しかし、とにかく、私にとって飄平さんの反応の仕方は、二度が二度とも、率直に言わせて頂けば、どうにも「面妖」なものであった。
自慢じゃないが、いや、この際自慢でもいいが、私なら、真っ直ぐ訊かれたことには真っ直ぐに答える。私は、飄平さんにもそうしてもらいたかった。
例えば飄平さんは、次のように答えることもできた。
「マシュー君は、会話の自然な流れからは多少逸れて、アポロの月面着陸以外の隠された月面着陸のことをも含めて言っていたのかも知れません」、あるいは「スザンヌさんもいつも必ずマシュー君からの通信を正確に受信できるとは限らないのかも知れません」、あるいは単に「私にはよく分からないことです」。
しかし、彼はそのような答え方は何もしなかった。
私の最初の質問は「整合性」という言葉に捧げられていた。しかし飄平さんはそのような言葉などまるで見なかったかように振る舞った。
もし飄平さんが、その日のマシュー君のメッセージを紹介する記事既出の前段において自ら語っておられるように、真に「判断停止」を嫌うならば、そして「洞察」や「識別」への努力をあくまで尊ぶならば、私が今回飄平さんにお見せしたマシュー君の発言についても何らかの「推定の努力」ぐらいはすべきであった。しかし彼は、少なくとも現在、少なくとも表面上、その欠片も見せないのである。
飄平さんはおそらく「おおらか」な人で、おそらくマシュー君のその発言を「小さな事」と思っておられるのだろう。「マシュー君は多くの、非常に多くの『本当の事』あるいは『むげに否定できない事』を言っている。だから、そんな『小さな事』は顧慮するに値しない」というわけであろう。
彼にとっては、「小さな事」に目を注いだ検証は「覚束ない(確度の低い)検証」ということになるのだろう。
しかし、「検証」における真実は逆、真逆である。説明する。
もし飄平さんが現に、上で私が想像した通りに思っておられるとしたなら、私は率直に「飄平さんは『検証の人』ではあり得ない」と申し上げる。
何故か?  何故ならば、「検証」ということには当然「詐欺犯に対する検証」ということも含まれるからである。
「検証」においてはそれが非常に重要な要素である。欺き、騙しに対する意識の無い「検証」など、あり得ない
そして、「詐欺犯」とは何か?
九割方「本当の事/本当らしい事」を言い、残り一割において「嘘」を言うもののことである。(99%と1%でも構わない。)
だから、「自分は物事を『検証』する」と豪語するほどの者は、
九割の「本当の事」あるいは「むげに否定できない事」よりはむしろ、
一割の「明らかな嘘」あるいは「疑わしい箇所」の方に、
より一層己が目を注がなければならないのである。(理の当然である。)
そういうものを見つけた時には、集中的にその上に目を注がなければならない。
だから、「確かに少々疑問だが、しかしごく小さな事だ」と言ってその事項を看過する者は「検証者」の名に値しない。
名刑事にもなれない。名刑事は、それから名鑑識も、糸のごとく「小さなもの・細いもの」を忘れずに拾うからである。
名審神にもなれない。名審神は、たとえお告げする霊がタキシードを着ていようが十二単を着ていようが(= 一見立派な事を言おうが)、後ろの裾から何か「尻尾の先」のようなものが覗いていないかどうかをチェックすることを忘れないからである。
注)九割/一割という比率はあくまで喩えである。マシュー君のメッセージは実際その九割が真実で、嘘は一割だけだ、などといった意味では決してない。
* * *
私は、自分の傾向に警戒しなければならないけれども、しかし、飄平さんのことを貶めることが本意なのではない。ただ、はっきりとは言わせてもらった。
また、カトリック教徒として言っているのでもない。
何故なら、私はそのカトリックの世界の中でも同じ事をしているからだ。
カトリック界の中にも悪霊は居り、嘘もあり、それらに騙されている人達が居るからである。教会の内にあろうが外にあろうが、真実は真実であるし、嘘は嘘である。私はそういう観点から言っている。
だから、物事はそう簡単ではない。「この人は、自分がクリスチャンで、マシュー君の言うことが自分の信仰とは合わないものだから、マシュー君を攻撃しているのだ」などと、あまり簡単に考えないで欲しい。
飄平さんは、ご自分の記事に対して投げかけられたどのような批判的なコメントも、基本、すべて受け入れ、表示されるようである。私はそこに彼の「おおらかさ」を見、評価せずにはおれないし、私のコメントもそのように受け入れられたことに一つの感謝を感じないではおれない。
私は今回、そのような飄平さんの純な(おそらくそうなのだろう)ご性質に、冷たい刃を向けたような気がする。
しかし、とにかく、飄平さん、あなたは純ではあるかも知れないが、必ずしも「まっすぐ」ではない。私の質問にすら「まっすぐ」に答えようとしない。それはすなわち「物事をまっすぐに見ない」ということである。少なくともその徴候である。しかし、物事を「まっすぐ」に見ようとしない者が、どうして物事を「検証」できようか。これは「知識」以前の話である。検証が「覚束ない」のはあなた自身ではあるまいか。
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