2010年9月27日

infection PVの意味 1

鬼束の PV は時々「やり過ぎ」る。(周知の如く。)


Cage では、富士の樹海での自殺を思わせるような演出をし(左)、infection では、黒い涙を流してみせる(右)。
私は、楽曲としては、Cage は相当好きだったし、infection も、一応は(infection の項参照)、素晴らしいと思っている。
でも、これらの PV の上のような部分は明らかに「やり過ぎ」であり、「調子に乗り過ぎ」であり、厳しい言い方をすれば「人生を弄び、冒涜している」とさえ言えると思う。見受けられるところ、苦悩から希望への運動が少しも無いからだ。苦悩それ自体の中に溺れ過ぎている。安易だと思う。(PV のことである。主として。)
でも、今迄の私はこう考えていた、「なにぶん、音楽業界の人達は大方お若いのだろうな」と。そして、必ずしもそうでなくても(演出家が「いい歳」である可能性はある)、「とにかく彼らは音楽を売らなければならないから、人の耳目を惹き付ける趣向というものを常に考えるのだろう」と。そう考えて、今迄の私はこれらを軽く見流していたのである。
でも、思えば、こういうちょっとした緩みというか、節操のなさのようなものが(私も当時は結構喜んで見ていた筈だから、言う資格は無いかも知れないが)、結局は徐々に、鬼束の問題を大きくしていったのかも知れない。


さて、今回言ってみたい事は、他にある。

言ったように、私は今迄 infection の PV にうっすらと疑問を感じながらも、結局は一般的な受け取り方で軽く見流していたのである。けれど今回、最近の鬼束の周辺を巡っているうちに、最近のではない infection の PV について、一つ気づいた事がある。それを話したい。結構大きな事だ。と思う。


infection の PV の中で鬼束は、目隠しをされたまま、二人の人に先導され、進む。


歌詞との関連では、このような演出にならなければならない必然性は無いように思われる。

目隠しをされたまま、人に導かれて進む・・・

何かに似てないか?





 オカルト!
オカルトの儀式に似ている!
(上は、フリーメーソンの入会儀式。下は、ある魔女宗の入会儀式。)

今迄この類似に気づかなかったのは迂闊だった。infection の PV は、まず間違いなく、この種の儀式をイメージして作られたものだろう。何故なら、この種の儀式をあらかじめ知ることなしに「目隠しされて人に導かれる」などという発想を持つことは、まず出来ないからだ。私達の生活の中には、それに「似た」場面さえ、無いと言っていいのだから。(スイカ割りなどと言うなかれ。)

儀式である。それも、入会儀式。それが発想の下地にある。
入会は「別れ」でもある。PV では夫が別れの手を振る。
妻は何らかの「異境」「異界」に旅立とうとしている。

そういう事だと思う。
私達は PV というものを常に曲との関連で見るけれど、
しかしこの場合、曲そのものとはちょっと別の要素があったのだ。

考え過ぎだと思いますか?
では、繰り返しになるが、あなたに質問する。
人はこの種の儀式をあらかじめ知ることなしに「目隠しされて人に導かれる」などという発想を持つことが可能ですか?

ただ、この事は、PV のこのような演出を発案した者がオカルトを自ら信奉し実践していた、という事を即座に意味しない。オカルト儀式の概要ぐらいは、本やネットからも知ることが出来るのだから。

しかし、どちらにせよ、あまり愉快でない。

ちーちゃんは、どうも、不吉なものを引き寄せてしまう人のようだ。

「このような演出を発案した者」は、誰だろう。


気になる事が二つある。

一つは、infection の PV が制作されたのは英国だという事だ。英国は「霊的」な国だ。ひょっとして、制作に英国人が加わっていたか。

もう一つは、私もついさっき初めて知り、ショックを受けたのだが、Wikipedia に次のようにある。

1. infection
(…)ちなみに、レコーディング・プロモーションビデオともにロンドンで収録が行われたが、アルバム『インソムニア』のインタビューの際、「以前有名なタロット占い師に『絶対次回作は海外でレコーディングやPV撮影を行いなさい』と言われた」とのことで、このことも考慮したのであろうと思われる。(Wikipedia

「言われた」の文には主語が無いが、おそらく鬼束自身がそう言われたということなのだろう。事実なのだろうか。

ともかく、私は何か「霊的な物事の流れ」を感じる。


現在、ポピュラー音楽界(主としてアメリカのそれ、特に MTV)では、オカルト色が濃厚である。いや、一部のミュージシャンにおいては「濃厚」なんてものではなく、まさに「それそのもの」である。(The 2009 VMAs: The Occult Mega-Ritual

そして、それらのミュージシャンのパフォーマンスの中にも不思議な目隠しが見られる。

Britney Spears

Pink

Lady Gaga

Bono

Tori Amos


鬼束ちひろ。彼女が霊的な体質であることは事実だろう。彼女はいつも言う、歌が出来る時、それは「降りて来る」と。そしてまた、どこかでこうも言っていた、「床の下から足を掴まれたりする」と。そしてこうも言っている、「(色んな事があっても)私は絶対神様に守られていると思う」。

私は、彼女の事を「神懸かり的」とか「天才肌」とか評するのは彼女の為に良くないと思うけれど、彼女が「霊的」である事は間違いないと思う。「霊媒体質」と言っていいのだろう。

けれど、霊的な体質である事は、時に危険を意味する。私は、彼女は目下、霊的に非常に悪い方向(もの)に「引っ張られて」いると思う。否、確信する。

2010年9月23日

2010年9月21日

芸術の使命

infection の項で書いた「表現者の使命」とか「表現者の社会的責任」とかいったものについて、早めに書いておきたい。

早め? だけど、早めだろうが遅めだろうが、ちーちゃんには届きそうもない。
しかし、そんなことには構わず、宙に向って、あたかもちーちゃんに届くかのように、書く。


私はいつも思うのだけれど、ちーちゃんも、もう少し早いうちから、もう少し左脳を使うことも覚えるべきだったんだ。(こういうのって、「言っても仕方がない」部類のものか?)
「普遍的」とか「客観的」とかいうことは、ちーちゃんの中にはほとんど無いのじゃないか? 思うに、それらをももう少し相手にすべきだったんだ。感性的なものばかりでなく理性的なものも。文章で言えば、詩文のようなものばかりでなく散文的なものも。

ちーちゃんは頭がいい筈なのに。

「国立大に楽に入れるだろう」という高校の先生の証言を、私達は聞いている。

だけど、たとえば -------「正義や現実など今更 何にもならない」(call) 。
この宣言は(もしこれが鬼束ちひろ自身の宣言ならだけど)、要するに「理性を振り捨てて」いる態度だよね。正義や現実を捉えるのは理性なんだから。

私は call のこの部分を聞いた時、子供っぽいんじゃなかろうか、と思った。けれど、なにぶん彼女がこれを書いたのは17歳の時だったということを思った。ある意味、幼くて当然かも知れない、と。
けれど、ちーちゃんは、実は今に至るまで、基本的にこれなのかも知れない、と思う。


さて、「表現者の弁え」について、ある一文を提出する。

この文章が「誰」の筆になるものか、あるいは「どの種の者」の筆になるものかは、問題としないで欲しい。ただ純粋、単純に、内容だけを吟味して欲しい。

とはいえ、ここには「宗教」という語がある。私はちーちゃんが宗教というものをどのように考えているか知らない。この文章は、ちーちゃんの目に、そして多くの現代人の目に、人間に対する見方があまりに単純で、「道徳的」で、それ故「浅薄」で、「皮相」で、「硬直的」で、面白くない、と映るかも知れない。けれどとにかく、願わくは、参考にして欲しい。いつか、ここから何かが始まるかも知れない。

文中に、「出鱈目」とか、「自分は特別の人間であるかのように思い」とか、「増長慢」とかいう言葉があるけど、私はちーちゃんがまさにこれだなどと言いたいのではないから、そこは誤解しないで欲しい。
しかしそれでも、あなたにおいても、他の誰においても、このような事は己れに「無関係」ではない筈だ。そのような意味で、参考として提示します。


芸術の使命

凡そ世にありとし凡ゆるものは、それぞれ人間社会に有用な役目をもっているのである。所謂天の使命である。

勿論、芸術と雖もその埓外ではない。とすれば、芸術家と雖も社会構成の一員である以上、その使命を自覚し、完全に遂行する事こそ真の芸術であり、芸術家の本分でもある。

ところが、今日一般芸術家をみる時、そのあまりに出鱈目な行動に呆れ返らざるを得ないのである。勿論中には立派な芸術家もないではないが、大部分は自己の本分を忘れていると言うよりか、全然弁えていないと言った方が当たっていよう。しかも彼等は自分は特別の人間であるかのように思い、自己の意志通りに振る舞う事が個性の発揮であり、天才の発露であるという考えの下に、気儘勝手な行動をし、恬として恥じないのであるから始末がわるい。また社会も、芸術家は特殊人として優遇し、大抵な事は許容しているというわけで、彼等は益々増長慢に陥るのである。

ところが芸術家たるものは、一般人よりも高い品性を持さなければならない事である。それを宗教を通じて解説してみよう。

抑々、人類の原始時代は、獣性が多分にあった事は事実で、野蛮時代から凡ゆる段階を経て、一歩々々理想文化を建設しつつある事は、何人も疑うものはあるまい。この意味において文化の進歩とは、人間から獣性を除去する事である。故に、その程度に達してこそ真の文明世界である。しかしながら、今以て人類の大部分は、戦争の脅威に晒されているので、それは獣性が未だ多分に残っているからである。故に、この獣性を抜くべき、重大役目の中の一役を担っているのが芸術家である。

とすれば、芸術を通して人間の獣性を抜き、品性を高める事である。勿論文学を通じ、絵画を通じ、音楽、演劇、映画等の手段を通じて、その目的を遂行するのである。それは、芸術家の魂が右の手段を媒介として、大衆の魂に呼びかけるのである。分かり易く言えば、芸術家の魂から発する霊能が、文学を、絵画を、楽器を、声を、踊りを通じ、大衆の魂の琴線にふれるのである。つまり、芸術家の魂と大衆の魂との、固い連繋である。故に芸術家の品性が下劣であれば、そのまま大衆も下劣化する。芸術家の品性が高ければ、大衆の情操も高められるのは当然である。

ここに芸術の尊さがある。言い変えれば、芸術家こそ、魂を以てする大衆の指導者であらねばならないのである。

この意味において、今日の如き社会悪の増加も、その一半の責任は芸術家にあると言っても、過言ではあるまい。

見よ、低俗極まるエロ、グロ文学や、妖怪極まる絵画や、低劣なる芸術家が発する声も、奏する音楽も、劇、映画等も、心を潜めてよくみれば、右の説の誤りでない事を覚るであろう。


「文化の進歩とは、人間から獣性を除去する事である」などという言い切り方は、きっと多くの人には「単純過ぎる」と映るでしょう。分かります。けれど、これは言葉の問題かも知れません。この人の言う「獣性」とは何かをもっと知ってみれば、このような一見単純な言い切り方も真理と遠くないかも知れません。

書き手の名を伏せておくのは必要なことでも健康的な(?)ことでもないから、言うけど、これは世界救世教を立教した岡田茂吉という人の文章です。
私はその宗教を信じているわけではないけど、この内容それ自体は実に立派なもので、「表現の自由」が半ば神様みたいになっている私達の国の中で、私達が一度はよく考えてみなければならないものだと信じます。

彼女は彼女自身を知らない

(断定ではなく、「おそらく」と付けるべきだろうけれども。↑ )

Sugar High の項からの続きみたいなものですが...

私はこう思ったのです。
彼女の音楽は何よりも「魂」からのものだ、と。
それ故、余計な装飾みたいなものは一切要らない、と。
いや、「余計な装飾」ではなくて、
そもそも装飾というものが、全て、一切、余計であると。
私が彼女にして欲しかった事は、
ただただ彼女自身の魂の中を覗きこむ事でした。
他の事には目をくれて欲しくなかった。
ただただ彼女自身の魂の奥に「つるべ」を降ろして欲しかった。
そうして観客を意識せずに歌って欲しかった。

だから、「ライブは大好きです。無くてはならないものです」などという彼女の言を聞くたび、危うさを感じていた。

うまく説明できないが、鬼束ちひろという歌手にとっては、「見られている」という意識さえ、負に働く、害になる。そう思った。

彼女のすべきは、決して「表現」ではない。
「表現」ではなく、「コミュニケーション」ではなく、何と言うか・・・言ってみれば・・・ただの、出産?
自分の魂の奥を見つめ、それに心の耳を傾け、何かが湧いてくればそれを産み、そうして「野」に向い「宇宙」に向って歌えば良い。しかし決して「観衆に向って」ではない。

そう、決して「観衆に向って」ではない。

私は、自分自身彼女のライブに何度も足を運ぶという矛盾を犯しつつも、常にそう思っていた。(本当に矛盾だ。)

彼女は「周りに振り回された」のだろうと思う。
そしてまた、彼女自身、彼女の音楽の一番美しいところ、その本質、その生命みたいなものを、よく分からなかったのではないか。
(誰の場合でも、「自分の事は自分が一番よく分かっている」などというのは、神話なのではないか。)


さて、音楽は「虚業」だろうか?
否、断じて、否。音楽は、それを聴く人の心を豊かにもし幸福にもするのだから、実のあるものだ。
けれども、この事は、全ての音楽、全ての作品、音楽にまつわる全ての部分、要素が、虚業でない、という事を意味しない。そりゃ、中には虚しいものだって沢山ある。勿論だ。

彼女自身、自分の音楽を作るという事に関して、どう思っているのだろう?
ちーちゃん、それは「虚業」ですか?

このような事に関し、彼女の Beautiful Fighter を聞いた時点で、私の中に一つの心配が生まれたのです。
「やがては通り過ぎて行くもの 覚悟できてる
それならせめて 華やぐネオンの装飾を」

いいや、違う! ちーちゃん、あなたの音楽はそんなもの(虚業)ではないんだ。と、私は言いたかった。
けれど、残念なことに、その後ちーちゃん自身は、その方向への加速を早めたように見える。


音楽は夢幻? 人生そのものも夢幻? 虚構?
どんな確かな事もなく、どんな「規準」もない?
そうなのか? ちーちゃん。

2010年9月17日

被暴行事件

(知り合って二週間の末にというのだから、マスコミなどが
使っている DV という言葉は、何だかそぐわないと思う。)

そして ------- 今迄ちーちゃんに起こっただろう色々な事をはしょって、省いて、言いますが ------- 今回の被暴行事件です。

私は、人間がどれだけ強いものか知りません。

けれど、通常の目をもって見れば、彼女の人生は・・・わざわざ言葉に出して言う必要もないようなものだけれども、上昇線を描いてはいません。


つぶやき

ちーちゃん。
あなた自身は、自分の「人としての人生」と「アーチストとしての人生」の二つを見ているだろうか?
あなた自身にとって「人生」は、「アーチストとしての人生」のみを意味するのだろうか? それだけが存在するのだろうか?
あなたから歌を取り除いたら、あなたの人生は「ゼロ」になるのだろうか?


私はちょっと、PTAのように悩む。

「そんな筈はない」と思う。
「そんなことがあっていい筈がない」と思う。

あなたにだって、ただの幸福な母親になる道がある筈だ。
「ただの」っていうけれど、幸福な母親になるってことは、大したことなんだから。

Beautiful Fighter

次に危惧を感じたのは、Beautiful Fighter です。
特に、その PV を見た時です。(Youtube

ちーちゃん自身は、「こんな曲も作れるということで、まあ、それなりに器用ってことでw」みたいなことを何処かで言っていたと思うけど、その通り、なかなかのもの、かっこいいロックですよね。
それは認めます。
けれどそれは、あくまで「楽曲としては」です。

あ、前回、「私にとって鬼束は楽曲です」と言ったんでしたっけ。
しかしこれは言葉の問題です。言い直します。
つまり、楽曲の「表面的」なクオリティにおいては、ということです。
そこにおいては、確かに Beautiful Fighter は「いかしたロック」でした。

しかし「世界観」。それが虚無的で、頽廃的でした。
(まあ、PVの内容と相俟ってですね。PVの影響は大きいです。)
彼女の楽曲の持つ世界観は、どれも多かれ少なかれ虚無的ですが、しかしここに来て、それに「頽廃的」が加わりました。

私はそう感じ、また一つ心配になりました。

「彼女はどこか自棄(やけ)になっているのではないか」と。

ちーちゃん、その通りですか?

Sugar High

次に危惧を感じたのは(こんな話ばかりで申し訳ありませんが)、3rdアルバム Sugar High のジャケットでした。


初めて見た時、何がどうなっているのか、直ぐには分かりませんでした。
分かった時、「異形だ・・・なんで?」と思いました。

知らない人のために解説すると、これは元々はこういう写真なのです。↓


この写真の下から三分の一ほどの部分を切り取り、左右を逆にし、また上の部分と貼り合わせれば、最初の写真のような恰好になるわけです。実際は、下の部分は本の帯みたいな仕組みになっているのですが。

まあ、ちょっとした遊びと言えば遊びです。
しかし、私は嫌な感じがしました。「異形」と思いました。
また、メイクも衣装も、それまでの鬼束には無いものでした。

同じ頃に、次のようなものも。


この種のポスターが貼られたCDショップの中を、かなり暗い、残念な気持を抱きながら、うろついていましたっけ。

「鬼束はどういう方向に行こうとしているのか???」と思いました。

私にとって鬼束は、楽曲であり、そしてとりわけ、その「声」だったので、ビジュアル面をいじり始めたらしい鬼束(あるいは会社?)のことを、危惧せずにはいられませんでした。

ビジュアル面のことをあえて言うなら、その「素」、素顔こそが、最も綺麗な人でしたし。
(ちーちゃん、分かってますか?)

2010年9月16日

infection

前回からの続きですが...

そういう意味で、私が最初に危惧を覚えたのは、
あなたの infection を聴いた時だったかも知れません。

楽曲としての力、という点では、素晴らしい、
一種「恐ろしく」なるほどの素晴らしさが、そこにはありました。
私はそう感じました。

それは今でも、私にとって、ひとつ「別格」の曲、
そう言いたくなる曲です。

ただ、そうはいえ、あまり聴きません。

楽曲としての力を評価しないではいられない一方、私は、
「ここまで闇を濃くしていいのだろうか?」と思ったのです。
今も思うのです。




余談

そして、しかし、2002年1月14日、NHKホールでの「青春メッセージ」で、あなたは、なんと、多くの青年達、少年少女達の前で、この歌を歌ったのでした。
私はその場に居たけれども、その曲名を知った途端、心の中で「おいおいおいおいおいおい」と言わずにはいられませんでした。

「場所柄」というものがあったからです。

選曲はちーちゃん自身ではないでしょう。そうでしょうとも。
けれども、私はとにかく、その場のためにその曲を選んだ人達の「見識」を、ひどく疑いました。

その会場には、老若男女、様々な人が居たけれども、しかしその場所は、主として勿論、この先に人生行路を控えた、あるいはそれを歩き始めたばかりの、そしてその中にともかく希望を見なければならない、若者達のためのものでした。
「ともかく」と言ったのは、希望も偽善的なものであったり皮相的なものであったりしてはならないからですが、しかしそれでも、一応は、そこには希望がなければなりませんでした。そういう場所柄でした。
「青春メッセージ」になってからの番組の質はよく知らないけれど、元々は「NHK青年の主張全国コンクール」と言って、「成人を祝う」みたいな場所だったのです。

私は鬼束ちひろを愛する者ですが、それでも鬼束ちひろを盲目的に愛する人間ではありませんし、また表現の自由万歳、表現者万歳という人間でもありません。
私はあえてエバって言いますが、私のどこかは必ずPTA的なものですw PTAという言葉はとても悪い印象を与えるものになっていますが、しかし言葉本来の意味でです。それは「保護者」を意味します。そして「保護者」が必要でなくなる社会など、考えられません。

そういう意味で、あの場所にあの曲を選んだ音楽業界の人達というのは何なんだ、と思う次第でした。鬼束ちひろの曲は「光と影」であって、それこそが魅力であって(こんなことを言うことに私は若干罪悪感を感じます、自分は結局、ちーちゃんの痛み苦しみをも「旨い旨い」と言って喰っているのかと)、まったく「希望希望した曲」はもともと無いと言っていいけれども、しかしそれでも infection は、そんな中でも特別にネガティブな、いわば「100%苦悩」を感じさせる曲じゃないですか。だから、「この場所にこの選曲はないだろう!」ということになるのでした。(もう一つの曲、BACK DOOR はもちろん問題なく、私も大好きだけれども。)

ちーちゃんの責任ではないに違いありません。
いえ、ちーちゃんの責任ばかりではないに違いありません。


余談にしては、つい長くなってしまいました。けれども、自己弁護のようですが、これはある程度、自然なことかも知れません。
何故なら、このような事は、一見小さな事のように見えるけれども、実は、大きな事に繋がっているからです。
大きな事とは、すなわち -------「表現者の使命とは何か。表現者の社会的責任とは、もしそのようなものが有るとすれば、何か。」


ああ、それでも、あの場が「青春メッセージ」であったことさえ忘れれば、あのステージはなかなか素敵だったのです。(複雑)
そして聴衆に挨拶するちーちゃんも、傲慢さや無神経さなど微塵もなく、謙虚そのものでした。

魅力

ちーちゃん。あなたの魅力は「光と影」「光と闇」でありました。
(月並な言い方だけれども。)

私達現代人は、贅沢なことに、「光だけ」では飽き足らなかったのです。
どうしても、若干の「影」、あるいは「闇」が欲しいのでした。
自分もそれらを持っているからです。

そしてまた、「光と影」「光と闇」とは言っても、その底には基本的に
どうしても〈生命感〉というものがなければならないのでした。
「影だけ」「闇ばかり」では、やはり嫌なのでした。
勝手なものです。

でも、そこをあえてふんぞり返って言えば、「それはそういうものなのだ」と思うのです。
「人間」である限り。

2010年9月15日

例外的

鬼束さんの生歌を聴きに5回も行ったことは、私にとって、非常に、非常に例外的なことでした。私はそれなりに音楽が好きな人間でしたが、しかし、コンサート、ライブ、そのテのものには「行きたい」と思う人間ではありませんでしたから。

レコードやCDから聞こえてくる音だけで十分だったのです。
そればかりでなく、私にとってはそれが「最上」だったのです。
何故なら、それらにおいては「音」がよく整備されているから。

とにかく、非常に例外的なことでした。

あの頃に書いた私のつぶやきがありますので、ご紹介しましょうw

鬼束ちひろ。
瑞々しい神秘のいのち。
光の海。

時に暗くても、重くても、痛くても、
彼女の歌にはいつも瑞々しい、光り輝く、
神秘な生命感がある。
透明な生命の海。
私はそれが好きなんだ。

説明不要。分析不要。
ただその海に浸るのみ。
私には何もできない。

彼女は何を見ているのだろう?
その視界の先に広がる光景は、いったい・・。

(2002年10月7日)

何だか恥ずかしいですがw

でも、今も、基本、全く同じように感じています。

自己紹介

何か書こう、書きたい、書き始めたい、と思った。
役に立とうと、立つまいと。
最近マスコミによって伝えられた、彼女の被暴行事件を知って。
そして、そこから、彼女の人生が依然、回復曲線を描いているようではないのを知って。


私は、今まで5回、あなたの生歌に立ち会った者です。

2001年9月8日(SKY PerfectTV! スペシャルライブ、TBSホール)
2002年1月14日(青春メッセージ、NHKホール)
2002年4月21日(CHIHIRO ONITSUKA 'LIVE VIBE' 2002、NHKホール)
2002年11月5日(CHIHIRO ONITSUKA ULTIMATE CRASH '02、日本武道館)
2003年3月10日(SPECIAL LIVE presented by VISA International、SHIBUYA-AX)

これらの幸運に関し、運命(事の流れ)に感謝する。
そして、ちーちゃん、あなたに、「ありがとう」。