2012年5月30日

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  9

9.むずかる御子
ボナノッテが造形した聖母子をもう一度見てみる
第一は聖堂にあるものである。
幼児は母親の胸にぴったりと密着し、安心し切っている。
母親は母親で、子を慈しむ自分の心に浸り切っている。
ここにあるのは完全に平和で幸福な母子愛の情景(典型)である。
(御用心。造形家にとってそのような典型を造るのは朝飯前である。)
次は「ヤシの実の聖家族」の中の聖母子である。
聖堂の聖母子像にあったような平和な空気はここにはない。母親の顔に幸福感は表われていない。むしろ憂い顔であり、父親も何か焦燥したような顔をしている。ここにあるのは「不安」「危惧」「憂慮」である。
母親の幼児の抱き方が、何か普通でないことになっている。左手は幼児の足首あたりを掴み、右手は幼児の下腹部に当てている。
それというのも、幼児が立ち上がったからである。幼児は何か不安を感じてか、差し迫るものを感じてか、立ち上がったのである。母親はそれを慌てて支えようとしたか、抑えようとしたか、なだめようとしたのである。
この作品の「表現」におけるポイントの一つは、紛れもなく、あまり幼児らしくもなくこのように上に伸び上がり、しきりに上を気にするように見上げている幼子イエズスである。
では、上には何があるか?
剣の切っ先がある。
彼らは人目につく場所には平和で幸福な非の打ちどころのない聖母子像を置くが、人々があまり気をつけて見ないような場所にはこっそりと、「不安」をたっぷり添加した聖母子の姿、聖家族の姿を置いたのである。
(それは教会の正面にはあるが、少し遠目だし、人々は気をつけてなんか見やしない。)
暗殺者の剣
これは単なる私の連想である。
私は、大阪梅田教会のそれらの剣は
以下の写真に見る剣と似ていると思った。
剣の角度といい、
壁から出た支柱に支えられていることといい。
この場所は、英国国教会の総本山、カンタベリー大聖堂の構内にある、カトリックの聖人、聖トマス・ベケット司教殉教者の「殉教の場」であり、
これらの剣は、ヘンリー2世の騎士たちがこの場所で聖トマス・ベケットを殺害した時に使った剣であるという。
構内にはベケットが殺害された場を「殉職の場」と呼び、そこを剣で指し示し公開している。
この場所は「巡礼の場」として有名ならしいから、ボナノッテが見ていてもおかしくはない。ボナノッテが見ていれば、ボナノッテは造形作家であるから、ボナノッテの脳裡にこれが残っていてもおかしくはない。
そして、私のこの連想が「単なる連想」で、この二つの間に実のところ何の関連もなかったとしても、
・カンタベリーの剣は、その角度で死の場所を指し示している。
・大阪梅田教会の剣は、その角度で脅迫している。
それは確かであると、不肖私は確信する。
ちなみに、ボナノッテのサクヒンは泉佐野教会(大阪大司教区)にも導入されている。  参照1   参照2

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  8

8.偽装の芸術
それはブレーシア・カテドラルのレリーフと同種のものである
この比較表示で全てを理解する人はこの先を読む必要はありません。
ブレーシア
ブレーシアのレリーフにおいて、その「アート」における「表現」において、彼ら(Ecclesiastical Freemasonry)は多足のグロテスクな虫のようなものにピッケルのようなものを持たせ、パウロ6世教皇様の背後を襲わせたのである。
このレリーフには「L'attentato a Manila(The attempt at Manila)」というそれらしい題名が付けられているようだけれども、私達はこれがパウロ6世教皇様が被られた何らかの御苦難あるいは迫害を表わしていると考えることができない。パウロ6世教皇様に対する同情的な表現と見ることができない。
これも同様である。このような「表現」を、教皇様の何らかの御苦しみに対する同情心から出たものだと考えることはできない。
この一連の作品は、主イエズス、善天使たち(あるいは聖人たち)、教皇様、そして神の兵士などを、弱く頼りなげなものとして描いたが、私達はそれを天主の陣営の御苦労に対する同情的な表現と見ることができない。
何故ならば、その作品の「頂点」に位置する場所に、
「神ならぬ者」の顔が堂々と描かれているからである。
それ故、この作品は天主の陣営に対する同情的な作品などでは決してなく、それとは正反対に「嘲笑的」な作品であり、彼らの勝手な「勝利宣言」と「力の誇示」の作品であると断定できる。
大阪梅田教会
大阪梅田教会の「ヤシの実の聖家族」と「剣」(私は剣と信じて疑わないが)の組み合わせにしても、まったく同様である。
聖家族はおびえているように見えるが、この作品はそれに同情したものではない。それとは正反対に、「嘲笑」し、「愚弄」したものである。
何故ならば、この「教会」はこれだからである。
カトリック大阪梅田教会(サクラファミリア)図3
」から「4」までの記事で確定した結論通りのものだからである。
それ故、こう言える。この「ヤシの実の聖家族」に関してだけ特に好意的に見なければならない理由など、どこにもない。
彼らはピッケルをあしらい、また剣をあしらい、天国の陣営が苦しむ様を表示するが、それは同情からではなく悪意からである。これらは同種のもの。
大阪梅田教会の外観の構図
もはや説明不要である。
ペテンの芸術
とんだ「聖家族教会」もあったもんである。
彼らは聖家族を愚弄するためにこそ、この教会を作ったのである。
人はこの世にそのような種類の悪があるのを知らなければならない。
それは表向き善を装いながら裏で嗤う式の悪意である。
サタンは Father of Lies(嘘の父)、
また別名 Father of Deception(偽装の父、ペテンの父)である。
だから、人はもし、この地上に彼の息のかかった者らが存在することは現実的なことであると考えるならば、その時当然、この地上に「偽装の芸術」「ペテンの芸術」というものがある可能性をも視野に入れなければならない。
しかし、今、それは「可能性」ではない。
私達はその見本を、実例を、
ブレーシアの中に、そしてこの大阪梅田教会の中に、
まざまざと見たのである。

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  7

7.上にあるもの
大阪梅田教会については終えたつもりだったが、もう少し書いておきたいことができたので追加する。ただし、「大阪梅田教会が何であるか」についての結論のためには先行記事の「」から「4」までで十分なのであるから、これはあくまで補足的なものである。そして、以下書くことに多少私の想像力のオーバーランが含まれていたとしても、結論はそれによって影響を受けるものではない。(俗な議論の場で不利の材料となることはあっても。)
左側の壁に何かの像が掛かっている。
これである。
チェッコ・ボナノッテ作の聖母子像である。
この像は、まあ、誰の目にも微笑ましいものだ。それで、純真な人達はこれを見て、「ああ、ボナノッテは良い人だ」などと、コロッとだまされる。
上の聖母子像に似たものがある。
これももちろんボナノッテの作である。
「サクラファミリア」の名にふさわしく(?)、「聖家族」の像である。
そして、信者は「聖家族」と聞いただけで、胸に温かいものを感じる。
そのこと自体は良いことである。
しかし信者は、これを遠目に見て、あるいは不注意に見て、あるいはそのように頭から信頼して見て、聖家族がこじんまりとしているが故にむしろ温かな印象を与える方舟のようなものの中に身を寄せ合い仲睦まじく乗っている、というぐらいにしか思わないかも知れない。
あるいはもう少し敏感に、舟 = 旅、聖家族が身を寄せ合っていることから、聖家族のエジプトへの逃避行を連想するかも知れない。
そう、エジプトへの逃避行の方がずっと良い連想だ。この作品をよく見た時、これは必ずしも人を温かな気持ちにさせるものとは限らず、むしろ不穏な空気さえ漂うものであるということが分かる。
彼らは惨めに小さく頼りなげなヤシの実の舟のようなものに乗っており(乗せられており)、その舟の小ささと彼らの様子が彼らの不安と孤立感(寄る辺なさ)をかもし出している。
そして、エジプトへの逃避行、確かに、彼らはその時、いかに信仰は堅固であれ、やはり地上の人間として一定の心細さを抱えておられたかも知れない。私達はその御苦労を想像することができる。
ということは、この作品もその辺のところをなかなか上手く表現しているということか? この作品は、その時の聖家族に対して私達が共通して持つ同情を私達と共有し、私達を代表して表現してくれているということか?
つまり、この作品も「聖家族の御苦労を偲んでいる」と?
聖家族の上にもう一つのものが置かれている。
それは建築パースの段階から描かれている。
確信するので断定調で書くが、それはボナノッテの作品の一つである。しかも、それ単体で置かれたものではなく、ヤシの実の聖家族(便宜上、そう呼ぶ)との関連のもとに置かれたものである。
かなり拡大したので画質は悪いが、見て頂く。
聖家族の上のこれを、あなたは何と思うか。十字架の群れか、茨か。
聖家族は「おびえている」のではないか。
聖家族は「おびやかされている」のではないか。
直観で言う。
これらは聖家族に向けられた (swords) である。
もう一度、上から全ての画像を見て下さい。
あなたの心の目にも「映る」筈だ。
しかし最も厄介なのは、あなたが私に同意して「確かにこれは聖家族に向けられた剣であるかも知れない」と思ったその後である。あなたは普通の着地点に着地してしまうかも知れない。
「ええ、あなたのおっしゃる通り、これらは聖家族に向けられた剣を意味しているのかも知れません。また、十字架かも知れませんし、茨かも知れません。しかしいずれにせよ、この作品のそのような表現は特に変わったものではないと思います。何故なら、聖家族の御生活は実際そのようなものだったからです。多くの十字架があったでしょうし、茨があったでしょうし、そして、そう、時には人々の心の剣に取り囲まれることもあったでしょう。だから、ええ、この作品に変なところはありません。」
あなたがそう思うなら、要するにあなたは「イノセント」なのである。純真、無邪気なのである。次にお進み下さい。

2012年5月18日

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  6

6.参考
おさなごの目の方がよほど確かである
今回の一連の記事を書きながら、私はもちろん、いろいろと検索したわけだが、その途中、「ある教会」の奇異なることに気づいた人がほかにもあることを発見した。
その人は慎重な人で、そのように教会名を伏せていたりするから、その記事をあまり宣伝して欲しくないかも知れない。しかし、紹介させてもらう。
画像を小さく頂く。記事へは画像をクリック。
 
ある教会 = 大阪梅田教会、である。
彼は可愛いお子さんをお持ちだ。この子に福いあれ。
(でも、もう連れて行かないでね)
松浦補佐司教様、菊地司教様、このような事に関しては、おさなごの目の方が、あなた方の目より、よほど確かではありませんか!
第二の記事。これは大阪梅田教会に関してではなく、大阪カテドラルに関しての記事である。
この図柄(左)が大阪カテドラルの「最も聖なる場所」にあるというのである。
「三角形の中に目がかかれているのは、必ずしも、フリーメーソンのシンボルとは限りません」とは、聖ピオ十世会の小野田神父様の言である(参照)。私も一応はその通りなのだろうと思う。
しかし、大阪はこれほどのもの(大阪梅田教会)を持つに至ったのである。だから、私はやはり、カテドラルにあるその図柄もフリーメイソンのものである可能性が高いように思う。
というのは、あらゆる物事はそれ単独で起こらず、仏教的な言い方になるが、必ず他のものとの「縁」を通じて起こるものだからである。大阪梅田教会、この小振りだが質としては世界レベルの(Sinister Sites への登録に値する)フリーメイソンの記念碑も、自身にとって何の「縁もゆかりもない」場所に、ある日突然、降って湧いたように建つことはできなかっただろう。
コメント欄にそれをうかがわせるものがある。人はそれを「未確認情報」と言うかも知れない。しかし、人は未確認情報からでも警戒を覚えるべきである。
このページの冒頭で「大阪大司教区は『持たされた』のである」と書いたが、その読者コメントが示唆するように、大阪大司教区にそれを持たした者は、外国に居る者、あるいは大阪大司教区に居る者とは限らないのではないだろうか。
大阪大司教区は「持たされた」のではなく、自ら進んで「持った」のかも知れない。
私も、「事実性を超えて、いたずらに不安を煽る」ことはあまりしたくないが、それでも、ここに一つの質問を置いて、この一連の記事を終えようと思う。
「大阪大司教区には何が居るのか?」

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  5

5.結論
大阪大司教区は「持たされた」のである
思うに、大阪大司教区は、結局、近年の教皇様方が彼らによって Bent Cross を「持たされた」のと同様、この彼らの忌わしいサクヒンを「持たされた」のである。
こういうのがカトリック信者の霊魂にどういう影響を及ぼすかは、おそらく「神秘」に属することである(人間の心自体が一つの神秘である)。
しかしとにかく、こういうのが彼らのいつものやり口、手口、つまり「常套手段」なのだ。自分たちのものを私達に持たせて、笑っているのである。
もう一度言う。今回の一連の記事では写真やイラストを多用した。だから、ひょっとしたら、人によってはこれを「子供の絵遊び」ぐらいにしか思わなかったかも知れない。しかし、それは違う。彫像の様、建物の形、祭壇周りの状態などといった「外なるもの」と、信仰や精神などといった「内なるもの」は、不思議にも、また正直にも、互いに引き合うのである。
これにて了とするが、最後にもう一度力をこめて言う。
大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである。あるいはフリーメイソンの「霊」(ルシファー)が人間に作らせたモニュメントである。その近辺のカトリック信者には気の毒だが、この教会には行っちゃ駄目だ
「でも、仮にあなたの言う通りだったとしても、それは要するに『建物』のことでしょう。もし神父様方が正しい仕方と正しい意向で御ミサをお捧げになれば、この御聖堂にだってきっと神様のお恵みが下りますよ。」
そんな事は考えない方がいい。
一般的に言っても「司祭の意向」というものは目に見えないのである。それはうっすらとした不確実性か大いなる不確実性かは別にして、とにかく不確実性を帯びたものである。大した理由もなく疑ってはならぬとしてもである。
そのような一般的な不確実性がないわけではないのに、その上に何故、建物全体がフリーメイソンのシンボルである教会(教会?)にわざわざ入ろうとするのか。
あなたを歓迎するこの二匹の間を抜けて?
考えられないことだ。
もしどうしてもこの教会に関わりたいのなら、まず祭壇の所にあるあの汚らわしい輪を取っ払い、そこにイエズス様の磔刑像を高く掲げることから始めるべきだ。そしてその他あらゆる不潔な美術をお払い箱にする。
しかし、あなたがそれを求めても、聖職者たちはおそらく、首を傾げ、曖昧に笑い、真剣に受け止めず、動こうとはしないだろう。
もし何らかの動きを取ってくれれば、大阪大司教区も見直されるが、難しいだろう。
だから、結局、こんな教会(教会?)には行かない方がいいのだ。
否、近づくことすら控えた方がいいのだ。

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  4

4.見事なまでの相似
最初のページで、「最後に全体を見て下さい。そうすれば、あなたは全てを納得するでしょう」と書いた。ここで、その「全体」を簡単に、図式的にまとめてみる。
まず、次の二つは〈仲良し〉である。
「私はフリーメイソンがカトリックで禁止されているのは知っていますが、果してそれが本質的にどれほど悪いものであるかは知りません。それについてはどんな確信もありません」 などと言わないで下さい。
そして、上の組み合わせとほとんど同じものを、私達は大阪梅田教会の中に見たのである。
カトリック大阪梅田教会(サクラファミリア)
最初のグループとの見事なまでの相似である。
次に、これらのグループにもう一つの要素を加えてみる。「思想」である。
最初のグループにおいては、そのピラミッド自身が語っている。
次のグループ。
カトリック大阪梅田教会(サクラファミリア)
どちらも Unity の思想なのである。
大阪のグループの思想を表わすアイコンとして、私はシナピスを持って来たわけだが、しかし私が指し示したかったのは、シナピスなどの個々の組織・機関というよりはむしろ、シナピスの標語「へだての壁をとり壊して」に代表されるような、その種の精神(説明は省く)それ自体の方である。
私は大阪在住ではないから、大阪梅田教会という器に実際どれだけUnity思想が盛られるかは、ネットを通じて知るしか術がない。しかし、おそらく間違いないだろう。そこにはUnity思想が、悪しきエキュメニズムなどが盛られるだろう。
いささか簡単だが、全体のまとめはこれで終わりとする。
何故このように簡単に終わらせるかというと、このような事は、分かっている人には今さら説明の要はないし、他方、分からない人には、いくら言葉を重ねようと、分かってもらうのはなかなか困難だからである。
ただ、ここに、私達にとってヒントとなるものを少しだけ置くことにする。それについて説明はしない。もうしない。学ぼうとする人だけ学んで下さい。(しかし、あなたに神のご加護のあらんことを。)
それは悪人の言葉である。悪人は悪人だが、彼らは「理解力」は持っている。
多くの者は、神の愛はどんな敵意も超えていると信じる習慣がついている。
シナピスの皆さん、天主様はあなた方よりも「へだてる」でありましょう。
地球上のいたるところに「自由」「平等」「友愛」の標語が、何もわからぬ旗持ち人足〔にんそく〕の熱心な努力で(…)


ええ、「何もわからぬ旗持ち人足」という言葉の後に司教様たちの写真を持ってきたりして、カトリック信者として態度が悪いのは知っています。しかし、司教様方、あなた方はあなた方で、大阪梅田教会のことをどうなさるのですか。
松浦補佐司教様、あなたは今後もその教会を保つのですか。
菊地司教様、あなたはまだ大阪梅田教会を、そしてボナノッテのサクヒンを評価なさいますか。それとも見方を変えて下さいますか。
何故なら、この建物の意味はこれほどはっきりしているからです。それはその明示において、その自己開示において、私達に親切でさえあります。
あなた方は、まさか、これをお見逃しにはなるまい。
見なかったことには、すまい。
カトリック大阪梅田教会(サクラファミリア)
そうでしょう?

カトリック大阪梅田教会(サクラファミリア)

カトリック大阪梅田教会(サクラファミリア)

それとも、皆で一緒に「見なかった」ことにしますか?
何も無いかのように振る舞いますか?
そんなことをすると、きっと高く付きます。

大阪梅田教会はフリーメイソンのモニュメントである  3

3.
この聖堂をデザインした人の念頭にあったことは何だろう。
窓がある。そこに祭壇がある。
気づくべき第一のポイントが現われた。それは、現代建築の教会でも、天井から床まで開いた大きな窓のド真ん前に祭壇をしつらえた教会はかなり珍しいだろう、ということである。(しかし、ここに意味がある。)
窓がある。そこに祭壇がある。そして、窓から光が入る。
窓、光、祭壇は、扇子で言えば要〔かなめ〕の一点に集まっている。
光は窓から入り、信者席に向かって放射状に伸びてゆき、
そこで信者たちの視線と交わる。
「光」はどんな民族にとっても「希望」の象徴である。
Catholic Osaka Umeda Church
故に、これほど礼拝の場にふさわしい構成があるだろうか
以上が、この聖堂をデザインした人の念頭にあったことである。
(比較的単純なことなので、そう断定できる。)
彼の意図を更にはっきりと知ることができる。
目立つのは「光の強調」である。彼は天井に照明設備によって「要」から放射状に伸びる三本の光の線を引くことで、そのイメージを補強している。
更に、光は信者全てを取り囲みさえする。
床を這うこの光の線の起点も、やはりあの「要」の箇所だろう。
(デザインの意図として。)
斯く、光が強調されている。まるで「光の神殿」といったように。
(その通りなのだが。)
ここで少し後戻りさせて欲しい。
そして質問させて欲しい。
光、窓、祭壇、そして信者たち。しかし、在るのは本当にそれだけか?
答えは否である。
カトリックの正常感覚からすれば、
そこにはまず真っ先に、「磔刑像の不在」という「裏切りの風景」が在る。
Catholic Osaka Umeda Church
そして  ------刮目せよ------  その「裏切りの空所」に、
まったくそれに相応しいものが据わっているのである!
Catholic Osaka Umeda Church
これこそが彼らの「意図」!  彼らがこの聖堂に埋め込んだ「意味」!
主イエズスの象徴を排除すること、そして排除するだけでなく、
彼ら自身の神の象徴をそこに据えること !!!
つまり、ここにあるのは、
単なる「不在」ではなく「交換」である。
はっきりとした「意志」をもって
為された「置き換え」である。
何故なら、そこに在るのは「丸と三角」だから。
漫画みたいな話だが、祭壇に吊るされるものは、
丸、輪でなければならなかったのである。
必然性があったのだ。
彼らにしてみれば「必要性」が。
そうである。もしかすると、あなたの目に、私のこの提示はまるで漫画みたいに映っているかも知れない。しかしそうではない。もう一度この写真を見て下さい。そして「光の出所」を確認して下さい。
彼らに代わってもっと派手に表現すれば、こうである。
Catholic Osaka Umeda Church
窓の所が露光オーバーになった写真に、水色の三角と6本の光の線を書き加えさせて頂いた。この写真の元の持ち主さん、ごめんなさい。しかし、あなたも、もう、この教会には行くべきではない。
そして、たとえこの建物の中に多少十字架があろうと聖母像らしきものがあろうと、同じである。この教会の「グランドデザイン(全体構想)」がこれなのだから。